2009年12月18日金曜日

冥土のみやげに3D


 いまは3Dというのだそうだ。立体映画だろう? 昔はステレオと呼んだ。だが、ジェームズ・キャメロン監督の新しい映画「アバター」の3Dぶりが凄いらしい。システムから開発して12年もかかったのだと。NHKの「クローズアップ現代」がとりあげた。

 3Dカメラはスタジオに置いてあった。まだ市販されているはずはないから、キャメロンが使ったものに違いない。しかし見せてくれたのは、2本のレンズの間隔が人間の目と同じ6.5cmだということと、そのレンズが近接のときは真ん中に寄って動く、というだけだった。

 これは「ロボット工学」の応用なのだそうだが、かなり人間の目に近い画像が撮れるだろうなということはわかる。あとは、そのレンズの焦点距離と撮像画面の大きさだ。これも重要なポイントなのだが、そうした説明は一切なく、ことによると企業秘密なのかもしれない。

 映画なのだから、どうやって見るかも大問題だ。かつての立体映画は、二重に映し出された映像を、左右色の違う、あるいは偏光のメガネをかけて左 右の目が別々に映像を読み取る方法だった。しかし、キャメロン方式は全く違うらしい。以下、NHKの説明通りにいうと、こんなことになる。

 メガネの技術は、米航空宇宙局(NASA)が、火星の表面の凹凸などを見るために開発した技術で、右目用と左目用の画像を交互に出てくるように し、スクリーンからの信号を受けたメガネが、シャッターのように左右交互に見えるようにしたのだという。イラストは出たが、それ以上の説明はない。

 ただ、パナソニックが来年売り出す3Dテレビというのも、この技術なのだそうで、こちらは、左右別の画像を毎秒120コマ、交互にブルーレイに 書き込み、同様なメガネで見るのだという。もともとパナソニックは、キャメロンの情報からスタートしたというのだから、同じものに違いない。にしても、毎 秒120コマ? そんなことができるのかよ。

 120というのは交流の山と谷の数だから、電気屋さんならわかるのかもしれないが、門外漢はただただ「ハアー?」というばかりである。
 
 ステレオ写真でも、問題は3つあった。ひとつはレンズの焦点距離の選び方で、往々にして人間の目の立体感覚とはズレがあった。要するに立体感が 極端なのだ。次が、どうやって見るか。裸眼で見えるのは小さな画面に限られるから、専用ルーペなどのお世話にならないといけない。面倒である。

 そしてもうひとつ、「出っ張った、引っ込んだ」を面白がるあまり、写真としてはろくなものがなかった。これは、初期の立体映画にもあてはまる。やたら観客に向かってモノが飛んできて、観客が一斉に「ウワーッ」とよけたりして、要するにゲテモノの域を抜け出せなかった。

 これらのステレオ条件は、写真でも映画でもずっとつきまとうはずである。 しかし、どうやらキャメロンは一番目と二番目の条件をクリアしたらしい。つまり、かなり自然な立体像の再現とディスプレイの方法が得られた。となると、残るは映画として面白いかどうかだ。

 テレビのCMで見るかぎり、「アバター」というのはとんでもない荒唐無稽なお話らしいが、ここに「時代」という追い風が加わっているようにみえる。

 「スターウォーズ」以来、荒唐無稽には慣れっこである。おまけにCGの技術は「何でもあり」で、普通の映画「三丁目の夕陽」でも使われたし、SFや天変地異ものからゲームにいたるまであふれかえっている。

 キャメロンは「タイタニック」で当時最先端のCGを駆使した男だ。NHKの映像でも、CGのために3Dで俳優の顔を撮っている場面が出てきた。CGに3Dの実在感が加わったらどんなことになるか。

 ステレオ写真の本当の値打ちも、実は立体感よりも実在感なのである。人間の目に近い焦点距離のレンズを使った中判写真のステレオで、凹凸の少ない平板なポートレートなどを撮ったときによくわかる。

 「確かにそこにある」という存在感は、一枚写真をくずかごに放り込みたくなるくらいの違いをもっている。ただ、ステレオ愛好者は普通そういう撮り方はしないし、またアートする人たちはステレオなんか撮らないから、ゲテモノのもつ隠れた力を、ともに知らないだけなのだ。

 だから、NHKの番組でいちばん衝撃的だったのは、一見メイクビデオみたいなこの場面だった。演ずる俳優の顔にいくつものドットがついていて、それをもとに自然な表情がCGで出せるのだという説明だった。CGが作り出すのは、俳優とは似ても似つかない怪物なのである。

 正直「物語なんかどうでもいい。あがりを見たい」と思った。しかし、こればかりは映画館へいかないと見られない。最後に映画館へいったのは、「アマデウス」だったか。だとすると何たること、もう四半世紀に近い。

 NHKによると、今度の冬のオリンピックもサッカーのワールドカップも、3Dで撮影はされるのだそうだ。しかしそれを見るシステムはまだない。 デジタルテレビですらまだなのに、3Dテレビが見られるまで、この身がもつかどうか。ここはひとつ、冥土のみやげにのぞいて見ずばなるまい。

2009年12月14日月曜日

宮内庁の分際


 きのうの新聞をみて驚いた。近く訪日する中国の副主席が天 皇と会見するという話で、民主党政権がルールを守らなかったというので、宮内庁長官が記者会見で文句をいった。それだけでも驚きなのに、朝日がまた、1面 トップと2面の「ひと欄」以外の全面を使って、政府を非難する騒ぎ。

 要するに天皇の会見をセットするには、ご健康を慮って、「1ヶ月前までに申し込む」というルールがある。今回はこれより短かかったので、宮内庁は断ったが、鳩山首相の意を受けた官房長官らの度重なる要請に、節を曲げたというのだ。

 羽毛田長官の言い分は、こうだ。象徴天皇である以上、国の大小、政治的重要性で差をつけるべきではないし、天皇を政治に巻き込むことにもなる。相手が中国だからといって、ルールを破ってもらっては困ると。一見ごもっともではある。

 しかし、どうもことの軽重をわかっていないようだ。「象徴天皇」といってみたところで、外国の目からは天皇は依然として「元首」なのである。そ の天皇に会えるか会えないかは、ときにきわめて政治的な意味合いをもつ。国の大小や時の流れと全く無関係でいられるものではあるまい。

 中国でいえば、胡錦濤主席がまだ副主席だったとき、天皇に会見している。その後継者として最有力の副主席が、わけのわからない「1ヶ月ルール」で断られたとなると、関係者はそれこそ要らぬ気配りをしなくてはならない。

 そもそも「1ヶ月」というのは便利にすぎまい。28日前では?となったときに、機械的にNOという口実。自分で勝手に決めたルールに自分で縛ら れているようなものだ。これがもし、天皇のスケジュールと健康状態から割り出された答えならば、どんな国でも文句も不満もいわないだろう。

 今回、結果として会見は実現可能だった。となれば、そもそもの始めからきちんと対応していれば、こんな騒ぎにもなることもなかったろう。それを ぎりぎりになって決めさせられたからといって、「現憲法下の陛下の役割」「天皇の政治利用の懸念」まで持ち出すのは、いささかお門違いであろう。

 ところが、新聞各紙がこぞってこれを後押ししているのだから、おそれいってしまう。要は「ルールがあるのだから守れ」「政治利用への懸念」と、 長官発言をなぞっている。天皇の政治利用なんて、誰に会わせるかを内閣や外務省が決めているのだから、現実には日常的に行われていることではないか。

 なぜこんな覚めたことをいうかというと、このところの宮内庁にはしばしば、首を傾げているからだ。かつて後継の男児がいないと話題になったと き、当時の長官(前任)が、「私どもとしては、もうひとりくらい欲しい」というのを聞いて、本当にびっくりした。テレビの前で思わず、「お前、何者だよ」 と。雅子さまのご病気を悪くしているのは、「お前たちじゃないか」

 宮内庁長官は、役人である。旧内務省系の事務次官や警視総監が就くのが慣例で、現長官も厚労相次官からだ。格からいえば天下りならぬ天あがりかもしれないが、慣例が一種の権力をもったようにみえる。認証官だから勝手に首も切れない。

 羽毛田長官は昨年も、皇太子一家が参内することが少ないと発言して、物議をかもした。こうしたとき驚くのは、聞いている記者たちが一向に異を唱えないことだ。そんな風だからこんな役人ができてしまうのだと思うのだが、今回は大応援団になってしまった。

 この話を、その筋の出の方にお話したところ、言下に「家令ですな」といった。皇族や公家で一家の会計や諸事万端をきりもりする役職で、多くは世襲。当主の学問、趣味、交遊から婚姻関係にまで口を出すのは当たり前だと。

 しかし、平安の御代ならいざ知らず、このご時世に皇太子や秋篠宮をつかまえて、「もうひとり子どもを作れ」とはなんともはや。それも役人の分際 で、である。羽毛田長官は、愛子さまの皇位継承に前向きの人なのだそうだが、人が代わると見解も変わるのでは、「家令」の役すら果たしていないことにな る。

 今回は政府の対応もおかしなものだった。副主席の天皇会見の要望は早くから伝えられていたが、訪日の日程がぎりぎりまで決まらなかったという話である。差し迫ってからでも、内閣の一存でいけると高をくくっていたのかもしれない。

 しかしこの騒ぎで中国にも他の国にも、日本の象徴天皇制がややこしいものだということは伝わったことだろう。

 それよりも、「家令」といった方の話は、天皇家が権威を保ち続けた秘密に及んだ。なんと忍者の力によるのだとか、その里は和歌山の根来衆だの、山伏もそうだとか、めっぽう面白かったのだが、これはまた機会があれば‥‥。

2009年11月13日金曜日

スチルカメラの突撃


 イギリス人語学教師の死体遺棄容疑で逮捕された市橋達也(30)の送検取材(12日)で、車の前に飛び出したTBSのディレクター(30)が公務執行妨害で逮捕された。これは珍しい。しかし、どうやら理由があった。

 そもそもは前日の護送取材である。これは、めちゃくちゃだった。東京駅ホームでは、テレビカメラを押しのけてスチルカメラが突撃するのを久しぶりにみた。よくまあこれだけと思うほどのカメラマン。いったい何人いたか。

 ところが結果は、市橋が黒いジャンパーをすっぽりかぶせられていたから、車に乗るときなど、それこそ一瞬をとらえたところが何社か。あとは見事 空振りだったのである。そこで、行徳署に「送検では顔を撮らせてくれ」と申し入れてあったらしい。一般人を閉め出し、押し合いは避けるという了解である。

 この日も250人くらいいたらしいが、規制線が張ってあって、みな脚立に乗ったりして位置を保っていた。警察も顔を隠さなかった。そこへTBSが1人だけ飛び出したわけだ。警察にしてみれば、「自分らで決めたルールも守れないのか」となる。

 そして1人が飛び出したあとは、部分的にだが前日とまったく同じになった。バカ丸出しとはこのこと。現に顔はなんとか撮れているのだから、わざわざ騒ぎを起こす必要なんかない。

 なぜああなるかというと、ひとつは人権への配慮から警察が顔を出さなくなったこと。今回はとくに、整形したあとの顔がひとつのポイントだった。混乱は必至だから撮れないかもしれない。そこで何人もカメラマンを出す。さらにまた混乱する‥‥。

 もうひとつは、スチルカメラにある。市橋騒ぎは戸外だから、あたりへの迷惑もあまりないかもしれないが、記者会見となると話が違う。あのガチャガチャ、ピカピカは実害が出る。会見の話がナマでは聞こえないことがあるのだ。

 日本郵政の西川善文社長の退任会見はひどいものだった。席に着くやいなや、西川氏の鼻の先でガチャガチャ、ピカピカだからたまらない。「カメラ がうるさい」「話せない」。ようやく収まって、「私は本日辞任を決意いたしました。で、この……」と顔をあげたとたんに、またガチャガチャ、ピカピカ。

 氏は「出て行ってくださいよ。こんな近くでガチャガチャやられたら、頭の悪い私が混乱しますよ」。テレビだからマイクで聞こえたのだが、現場の ライターたちはおそらく全部は聞こえなかっただろう。そのために、記者たちはみな小さな録音機をテーブルに並べている。それじゃ話が逆だろう。

 スチルカメラは東京オリンピックでワインダーがついてからずっとこうである。もう45年にもなる。昔のワインダーはもっと音が大きかったが、フィルムには限りがあるから、自ずと回数は抑えられた。それがいまはデジタルだから、枚数は無制限に近い。

 おまけに最近はカメラの数がべらぼうなうえに、会見では表情を撮るのだから、ずっとシャッターを押し続ける。会見が終わるまでガチャガチャ、ピカピカ‥‥。

 テレビカメラの方は、会見場では三脚で固定しているからおとなしい。音もしない。しかし、ひとたび動き出したら始末が悪い。やみくもに被写体に近づこうとするから、まわりはみんな敵だ。メディアの連帯感なんて吹っ飛ぶ。混乱のもうひとつの原因である。

 そのテレビのレポーターが西川会見を、「1メートルくらいで撮るんですから‥‥といって撮らないわけにもいかない。報道陣のなかでの話し合いになるのでしょうが」と、日頃の押し合いを棚にあげていっていた。たしかにポイントはそこだ。

 メディアの多様化で、そうした話し合いがしにくいのは確かだ。しかし、きちんとしようと思えば、できなくはない。現に行徳署の2日目には、 TBSが飛び出すまでは、みなお行儀よくしていた。いちばん話が通らないのもまた、テレビなのである。逮捕は一罰百戒のつもりだろう。

 だから会見ならなんとかなる。西川会見だって、もっと大きな部屋なら問題にならなかったかもしれない。ただ、事件の発生ものはだめだ。話し合いなどする余裕はない。するとまた元の木阿弥。ずっとその繰り返しなのである。

 ならばせめて、音の出ないカメラくらい作れないものか。一番の騒音は、シャッターチャージのモーター音なのだそうだ。技術的にはたいした問題ではなかろうと思うのだが、音が全く出ないと今度は別の問題が起こるのだと。

 コンパクトデジカメや携帯カメラは、本来音はしない。ところが、スカートの中を撮ったりする不心得者がいるからと、わざわざ音を出しているのである。なにやら、電気自動車に音をつける話と似ている。

 何かがおかしくないか、世の中‥‥。

2009年11月6日金曜日

思い出した歴史のイフ


 東北大学と朝日新聞が共同で、農家の意識調査をやった。調査は9月から10月にかけてというから、政権交代を受けて、揺れる農村をつかまえようというのは、地味だが、なかなか目のつけどころがいい。

 コメどころ宮城、秋田、山形、新潟の農家に、農協と政治の関わり、補助金について聞いている。いずれも農協を中核に自民党の金城湯池だったところだが、今回は政権交代に動いた。

 結果も面白い。「農協と政治」では、「政治に関与すべきでない」が29%、「自民とも民主とも距離をとるべき」が25%。民主党の「戸別所得制 度」には、「期待する」「どちらかといえば期待」があわせて58%、減反を受け入れても「参加」「どちらかといえば参加」が計61%だったが、「制度がよ くわからない」が90%だった。

 かつては米価、近年は補助金で、長年自民党とおんぶにだっこを続けて来た農家の戸惑いがそのまま出ている。わけても自民党の集票マシンとして、地域を牛耳ってきた農協のシステムこそは、日本の農業をこんなにしてしまった元凶である。これに対する苦い思いも出ている。

 JA農協中央会は政権交代後、自民党べったりから「全方位外交」に転じたが、時すでに遅し。民主党の、というより小沢一郎の「補助金直接払い方 式」は、明らかに農協はずしである。制度が動き出したら、少なくとも政治面での農協離れは一気に加速するだろう。小沢らしい戦略だ。

 朝日の記事には、「脱農協に挑む農家」という特集があって、農業に経営感覚を持ち込む意欲的な試みがいくつか紹介されていた。なかには株式会社 で、実質第2の農協の役割をはたしている例もあった。読みながら、「農地改革が目指したのはこういうものだったんだろうな」と思った。

 農地改革は連合国軍総司令部(GHQ)がやったと思われているが、実は違う。昭和20年10月、幣原内閣の松村農相が「自作農の創設」を発表してわずか4日後に、法案ができていた。そんな大改革の法案が4日でできるわけがない。農林省は戦前から準備していたのである。

 中心にいたのは、農政局長だった和田博雄である。構想は革新的な官僚の間では早くからあった。江戸時代以来の農業形態を改め、農業を、工業や商業と並ぶ産業として育てる。それには、自作農の創設しかない。

 しかし、国会は地主階級の代表者ばかり。そうした考え自体が危険思想とみなされた。法案を作っても常にたたきつぶされた。和田はでっちあげの企画院事件(思想弾圧)の首謀者として逮捕されてもいる(無罪・復職)。

 だから和田にとって、敗戦とGHQの登場は千載一遇のチャンスだった。前近代的な不在地主の一掃は、財閥解体の流れとも一致する。乗り気でなかったGHQをどうくどいたのか、とにもかくにもGHQの改革の1項目に加えてしまったのだ。とんでもない官僚がいたものである。

 しかし抵抗勢力は手強かった。戦時中に企画院事件を仕組んだのは、平沼騏一郎だったといわれ、戦後も鳩山一郎、河野一郎がたちはだかった。なんとも皮肉な名前が並ぶ。

 吉田内閣では、農相の引き受け手がなく、困り果てた吉田茂は、局長だった和田を農相に据えてしまう。反対する鳩山、河野を、三木武吉が「GHQが社会・共産に組閣させたらどうする」と脅しつけて押し切ったといわれる。

 和田の哲学の基本は、農業の自立にあった。基本は「農地をもたせる。しかし米価はあげない」というものだった。「苦しんでこそ、産業として育つ」という考えである。

 和田は、社会党の片山内閣で経済安定本部総務長官になった。「傾斜生産方式」の重要項目のひとつが「化学肥料」。食料増産のためではあったが、農業の自立のためでもあった。事実これで、農業の生産性は大きく伸びたのである。

 だが、歴史の皮肉というのか、片山内閣は短命に終わり、次の芦田内閣は、肥料にまつわる「昭電疑獄」で倒れた。和田は万年野党の社会党に入ったことで、以後農政に携わることはなかった。

 昭和30年、保守合同で誕生した鳩山自民党は、米価を上げる。毎年霞ヶ関をとりまくむしろ旗のなかで、生産者米価引き上げの音頭をとったのは農 協である。かくて農家は国の金を待つだけになり、農業の自立は遠のいた。壊れていく農村を、和田は、どんな思いで見ていたことだろう。

 皮肉といえば、吉田茂は第2次組閣で、和田の安本長官起用に抵抗する鳩山らに手を焼いて、和田を自由党に入党させようとした。これは、和田の周 囲が反対して実現しなかったのだが、もし、彼が自由党に入っていたら……日本の農村も、政治そのものも、かなり違ったものになっていたのではないか。

 案外忘れられている歴史のイフを、朝日を読んで久しぶりに思い出した。

2009年10月31日土曜日

香典の上前をはねるな


 先輩が亡くなって、葬儀に出られなかったので、弔電を打った。いまは、NTT東日本のホームページからパソコンで文面を送れる。便利なものだ。電信紙にカタカナで書いた時代があったなんでウソのようだ。

 ところがである。手続きを進めるうちに妙なことになってきた。まず「封筒を選ぶ」というのがあって、これが最高1万円から5000円、3000 円‥‥といろいろある。高いものは生の花がついたかごのようなものらしい。それが押し花になったり、刺しゅうになったりと、だんだん安くなる。

 では下の方はとみると、昔ながらの封筒みたいなのがあって、それには「ベーシック 0円」、つまり無料なのだった。カタカナ時代そのままである。しかしランクがあるとなると、さてどれを選ぶかは、かなり悩ましいことになる。いやらしいやり方だ。

 そして、申し込みを受け付けた確認のメールこそタダだったが、先方への配達の確認などその他もろもろはすべて有料で、それぞれに消費税額がついている。で、最後に電文の料金計算は?となって、これはまあ、あいた口がふさがらなかった。

 25文字以下660円(税込 693円)から始まって5文字90円刻みになっている。一般電報だと、はじめが440円(税込 462円)で以後60円(税込 63円)刻みだ。要するに、カタカナ時代と同じなのだった。

 ちょっと待てよ。5文字くくりとはいえ、ひと文字いくらという考えは、トンツーで打っていた前島密の時代のものだろう。手間もコストもかかるから、というのは誰もが納得する料金設定だった。ところがいまは、メールと全く同じ方式なのである。

 こちらの原文を、カナ漢字でそのまま貼付けて申し込むと、プリントされる結果も画面で確かめられる。われわれが日常送受信しているメールとプリントそのものである。25文字だろうと100文字だろうと、手間もコストも変わらないはずだ。

 にもかかわらず、ひと文字いくらという計算がいまもって生きている。いったいどういう神経か。また、文句をつける人はいないのだろうか。

 弔電や祝電は滅多に打つものではないから、だれもどんな形で届けられるのかを確認もすまい。定型の文面を選択すれば、「いくらです」という金額だけの話になる。利用者の無関心をいいことに、明治以来を続けているのである。

 数年前に打ったときはまだ電話の申し込みで、料金も「何文字でいくらです」と結果を聞くだけだったから、なんとなくカタカナの延長の気分でいた。昔から電報とはそういうものであったのだから。しかし、ホームページで仕組みが全部見えてしまうと、これはひどいものである。

 私の電文は104文字だったから、100文字=2,010円(税込 2,110.5円)プラス90円(税込 94.5円)。で、封筒もゼロではなんだからと、まあ、1500円(むろん消費税がつく)で、計3千数百円である。

 少し長めに書いたら、軽く5000円は超える。さらに封筒に凝ったりしようものなら、お香典の額になってしまうだろう。コストからいえば、文面 が短くても長くても一緒なのに、亡くなった人への思いが深い(長く書く)ほどぼろもうけ。さらに封筒で利用者の「見栄」をくすぐって、金額を積上げる。

 いってみれば、香典の上前をはねているようなものではないか。そんなくらいなら、現金書留で香典を送った方がよっぽどいい。

 それにしても、いったい誰が封筒に1万円だ5000円だという金を出すのだろう。代議士先生か? いや彼らはちゃんと香典を届けているはずである。でないと、票にならない。ではだれが? 会社関係か?

 弔電自体がもはや葬式のセレモニーの一部である。しかしなおも「電報」を騙ることで、死者を弔う善意のかなりの部分がNTTの懐に入っているのは間違いない。とうの昔に民営化したんだから、「明治の亡霊」をだしに商売なんかするなよ、まったく。

2009年10月26日月曜日

政権担当能力とは?


 前原国交相の「羽田ハブ空港化」発言で、千葉の森田知事が「眠れなかった。冗談じゃない」と怒ってみせたのはお笑いだった。しかも翌日、当の大臣と会見した後は一転、ニコニコして「安心した」だと。

 大臣の方は別に、成田をどうこういったわけではなかったが、森田知事は、「羽田に国際線を」というところだけで、カッとなったものらしい。ところが、カメラの前で怒っている知事に、記者団から「勘違いですよ」という声もかからなかった。なんともみっともない話だ。

 テレビにいたっては、怒っている絵が撮れればそれでいいのか。さらには、成田紛争のいきさつを流したりして、「あれだけ血を流したのだから」なんてピントはずれもいいところ。

 前原大臣のいわんとするところは、羽田の新滑走路ができて、24時間供用になった時点で、「仁川に対抗するハブ空港にしたい」というものだ。これに対応できる空港となれば、地理とキャパシティーからいって羽田しかない。

 国内線と国際線という線引きをなくし、便数を増やして着陸料を下げるとか、無駄な地方空港の問題とか、間接的には日本航空の支援も視野に入れた航空行政の立て直し策だ。いわば自民党なしくずし行政の清算なのである。

 前原氏は、長年公共事業の洗い直しを野党の目でぎりぎりとやっていた人だから、いざ主管大臣になって一切のデータを手にしたら、これは強いだろう。アナもごまかしも策略も丸見えになるし、意味もわかる。マニフェストの約束ごとだけの大臣じゃない。

 それが、道路、河川、港湾、航空、鉄道と間口の広い国交省の大臣になったのだから大変だ。八ッ場ダムから始まって、まあ目下のところはトラブルメーカーみたいにいわれているが、優先順位で事業を見直すという視点でみれば、どの動きも必然である。

 国交省だけではない。厚労省、経産省、法務省‥‥みな一斉に動いている。しかもオープンだから、ニュースが多い。副大臣、政務官にも案外「専門 家」がいて、出身も弁護士、役人、税理士、学者‥‥テーマによっては大臣より詳しい人材もいる。派閥順送りと族議員でまわしていた自民党とはえらい違い だ。

 もうだれも「政権担当能力」なんていわなくなった。補正予算を削り倒し、概算要求での優先順位づけ、無駄の削除を議員がやっている。役人抜きで自民党議員にそんな能力があるとは、とても思えない。それがわかってきたからだ。

 政権担当能力といえば、かつて小沢一郎氏が当時の福田首相と大連立に動いて総スカンを食ったとき、「民主党にはまだ担当能力がない」といったも のだった。その「能力」とは、おそらく「自民党と同じようにやる能力」のことだったのだろう。選挙は「そんな能力要らない」という国民の意思表示だった。

 22日にはいよいよ行政刷新会議が動き出した。民間人もいれた議員と副大臣、政務官級がチームを作って予算の無駄を仕分ける。「わが省」といういい方は禁句(仙谷担当相)で、「必殺事業仕分け人」というのだそうだ。

 リーダーの1人、蓮舫がテレビで語っていたが、驚いた。1案件1時間として日に最大8件。期間が9日間なので計72案件。3チームあるので、プラスアルファをいれて240件だが、作業は土日なしだという。こんなに働く国会議員いたか?

 それでも、全体が3000件だからほんの一部にすぎない。必然的に金額の大きな予算から精査することになるのだろうが、「継続してやれば、法制 度改正の必要も見えてくる」と、やる気満々だった。一気には無理だろうが、特別会計にまで手を突っ込んだら、面白い展開になるだろうなという予感がある。

 鳩山政権にはほかにも、普天間問題や日本郵政の社長人事などで、「マニフェストと違うのでは?」という話が次々に出ている。そんな中、FNNが面白い調査結果を出した。電話で全国の1000人に聞いた結果だという。

◆政権公約(マニフェスト)は守るべきか?
 必ず守るべき            9%
 守れないものが出ても仕方がない  38.8%
 とらわれず柔軟に         50.6%
◆ 公約実現のために赤字国債を発行すべきか?
 すべきだ             24.5%
 思わない             60.2%
◆ 実現すべき公約
 子ども手当            61.8%
 農家への戸別所得補償       59.2%
 高校授業料の無料化        46.9%
 高速道路無料化          19.5%

 どうやら国民の方がずっと覚めている。変にマニフェストにこだわって理屈を踏み外したりすると、ビシッとやられるかもしれない。勢いづいているのは民主党だけじゃない。

2009年10月21日水曜日

思い込みのルーツが知りたい


 元金融相中川昭一氏の通夜、合同葬には驚いた。それぞれ3000人、2500人というのだから、フジテレビで小倉智昭が、「元閣僚で落選した人で?」といったのは無理もない。「死ぬといい人になることは多いが‥‥」と。

 普通なら通夜が新聞に載るケースではない。今回はウエブで逃げたところが多かった。ところがテレビは、歴代首相が並んだりして絵になるものだか ら、大張り切り。ワイドで、「繊細でいい人だった」とか、盟友だった安倍晋三氏が、「もっと国のために闘ってほしかった」という映像までが流れた。

 例のNHKの番組改編騒動で、朝日と対決したのが安倍、中川両氏だった。あのときの中川氏の話は支離滅裂。朝日が記事にしたとき、彼はちょうどパリにいて、朝日の取材に「ダメだといったんだ」と答えている。

 これが「圧力」と伝えられるのだが、帰国すると一転、「NHK幹部と会ったのは、放送後だった」といいだした。事務所のスケジュール表がそうなっていたと。そんなバカな。放送しちゃった後で「ダメだ」はあるまい。

 しかし刑事事件でもなし、朝日の突っ込みも今ひとつで、おまけに取材側の不手際なんかもあって、うやむやと争点がそれ、うまいこと朝日とNHKの喧嘩にしてしまった。

 騒ぎのもとは「タカ派」にある。教科書や拉致問題から核武装まで、中川氏は大物風を吹かして積極的に発言・行動していた。また、自民党も霞ヶ関もメディアも、「実力者だ」と甘やかしていた。これが結局、例のヘロヘロ会見につながるのだから、いいような悪いような‥‥。

 安倍、中川両氏のいうことを聞いていると、いったいどんな歴史教育を受けてきたのかと、訝ってしまう。文部省が近代史をちゃんと教えないから、 まともな人は自分で勉強するしかない。その場合、どの本を読んだか、誰の話を聞いたかで、話が決まってしまう。肝心なのは、何が書いてあるかではなく、何 が「書いてないか」「語っていないか」である。

 いま国会方面で勇ましいことを言ってる人たちに共通するのは、戦争を知らないこと、自分たちだけが正しいという思い込みである。まともに歴史を 読んでいないから、異説を知らないし知ろうともしない。要するに、歴史上の出来事なのだ。それが実力者などと奉られたりしたら、とんでもないことになる。

 こうした思い込みは、どうやって作られたのか。どうしても関心はそこへいく。彼らはひょっとして、戦争でひどい目に遭わなかったか、あるいはむしろいい思いをした人たちの子孫なのではないかと、実は疑っている。

 アンケートをしてみたらいい。「4親等以内で戦死、あるいは戦災で死んだ人が何人いるか?」「空襲で自宅が焼けたか?」。歴代の首相をずらっと並べて、「父親は戦争にいったか?」。この3つの問いだけで、相当なことが見えてくるはずである。

 徴兵制度に抜け道があることは、だれもが知っていた。社会の上層にあった人たちは、これを巧みに使った。国政・地方の議員に赤紙は来ないし、大 学進学も徴兵猶予の道のひとつだった。また、軍隊にとられても、配属先で手心を加える余地があった。しかし、本当の庶民には、赤紙を逃れるすべはなかっ た。

 私の家では、叔父、伯父が1人づつ戦死している。父親もとられるところを、若い頃オートバイ事故で足を骨折して、丙種だったお陰で助かった。「同時にとられたあいつも、あいつも中支で死んじゃった」とよくいっていたものだ。

 千葉の空襲で自宅も焼け、わたしは目の前で小学校が焼け落ちるのを見た。裏の一家が防空壕で全滅しているのも見た。これが戦争や安全保障を考える原点になっている。小学校2年生だったから、戦争を記憶している最後の世代だろう。

 国会でも同じことだ。同じに保守であり右翼であっても、戦争をどう実体験したか(ひどい目にあったかどうか)で違うし、それが戦後世代にまで及んでいる、という思いはぬぐえない。

 いまや議員の3分の2は戦争を知らない。また2世3世議員の多くが、靖国に参拝し、憲法改正をとなえている。安倍、中川両氏がその代表選手だった。まあ、何を考えようと勝手だから、それはいい。

 気になるのは、それらが様々に再生産されていることだ。靖国神社をみるがいい。歴史教科書では「書かない」ことを競っている。空自参謀長は、単細胞の論を隊内に広めていた。小林としのりが歴史だと思い込む若者は多い。

 その意味で中川氏は危ない存在だった。安倍氏の「彼から闘うことを学んだ」という言葉に如実に表れている。闘うのは勝手だが、それを「国のために」といわれては、大いに迷惑である。

2009年10月3日土曜日

バイト代が選挙違反とは‥‥


 まあ、選挙違反の記事が少ない選挙だと思っていたら、9月29日現在のまとめが発表された。摘発194件、逮捕111人で、前回、前々回よりかなり少ない。独立して記事になるような、重大な違反もなかったらしい。

 なかで落選候補者の逮捕が3人あった。このうち、埼玉13区の武山百合子元衆院議員のケースは、例の選挙期間中にアルバイトに金を払ったという容疑だ。このところ、選挙の都度、いちばん多く記事になる違反である。

 武山氏は、日本新党から民主党まで4期を勤めたが、前回05年の郵政選挙で落選。今回民主党は別の候補を立てたため、無所属での立候補だった。

 細川政権崩壊のあと新進党、自由党から民主党と、小沢一郎氏と行動を共にした人だから、少なくとも「小沢選挙」で3回は勝って、1回敗れているわけだ。公認漏れには、何かよほどの事情があったのだろう。とはいえ、警察は落選候補には情け容赦ない。

 埼玉県警によると、運動員はハローワークを通して雇って、選挙前には金を払ったが、選挙期間中は「覚えていない」のだそうだ。いまどきハローワークのアルバイトが無報酬で働くわけがない。

 法律の方が現状に合わないのだ。「一般の選挙運動員に報酬を払ったら買収になる」なんて法律が生きていること自体がおかしなことである。

 とはいえ法律は法律だから、警察は目星をつけて、アルバイト運動員を引っ張ってくれば、みんなぺらぺらとしゃべるだろう。何か書き付けでも残っていれば、はい、一丁上がりである。

 この公選法の条項は、ほとんど警察のためにあるようなもの。もっとも引っ掛けやすく、やる気になればいつでも摘発できるし、見て見ぬふりをすることもできる。今回、落選候補で逮捕の北海道がそうだし、後で述べる熊本のケースもこれである。

 今回公明党の太田代表を破って話題になった青木愛議員(民主)は、前回の参院選(比例区当選)で、看板を立てるのに金を払ったとして広告会社社 長らが同じ容疑で逮捕されている。指示をだしたのは、小沢一郎氏の秘書だと伝えられた。摘発した千葉県警も肝を冷やしたことだろう。経緯は不明だが、責任 は議員本人には及ばなかった。

 同じ参院選と前回衆院選では、当選した自民議員が1人づつ、その前の参院選では、民主党の2人が、辞職に追い込まれている。いずれもバイトや電話作戦に日当を払ったとして、出納責任者がぱくられた連座責任である。

 しかし、ホントに議員が辞めなければならないほどのことだろうか。払った金額だって、時給にすればコンビニのバイトと変わらない額だ。ただ法律がそれを認めていないだけのこと。

 現実には、法律の改正をしないままに、どの候補者も日当を払っているのに、払っていないという。その分の辻褄をどこかで合わせないといけない。つまり、選挙の収支報告書自体がインチキなのである。その方がよっぽど問題だろうに。

 だいいち、当選させた有権者の票の重さをどう考えているのか。一票を投じて当選した議員が、こんなつまらん法律違反で辞めるのを、選挙民はウンというだろうか。自分の一票が、たかがバイト代のために無に帰するのである。

 しかし、こうした事例で、おかしいのでは?という声をあげたメディアはなかった。ことの軽重よりも、法律に違反したかどうかだけ。今回もまた警察の発表通りに、簡単な記事で終わりだ。「法律がそうなっているのだから」というのなら、そんなメディアはなくていい。

 民主党の小沢幹事長は、国会法を改正すると語ったが、公選法の改正も視野にあるという。現行公選法には、このアルバイトの報酬の件だけでなく、 戸別訪問の禁止とか、選挙の本旨からいっておかしな規定が沢山ある。元はといえば、明治以来の「選挙には金がつきもの」という悪しき選挙観がある。

 確かに野放しにはできまいが、いまや選挙をリードするのがマニフェストで、候補者とは直接のつながりの薄い無党派層が結果を左右している現状では、大いに有権者をバカにした法律になってしまっているのである。

 こうした本質に切り込まないでいて、小沢氏が動き出したときに、後追いで解説するだけなら、下町のご隠居さんにだってできることだ。

 上記の発表には含まれなかったが、熊本県警は30日、熊本3区で比例で復活当選した民主党後藤英友氏の出納責任者を逮捕している。有罪となれば連座制で当選無効となる。今回選挙で議員のイスがかかった唯一のケースだ。

 これもまたバイト代なのだという。もし有罪、当選無効となったら、今度こそは有権者の側から、ことの軽重を問う議論を起こしてもらいたいものだ。少なくとも公選法改正を求める大きな声にはなる。メディアが寝ぼけていると、手間がかかっていけない。

2009年9月19日土曜日

毎朝の新聞が楽しみ


 このところ毎朝、新聞を開くのが楽しみだ。政権交代を果たした民主党の動きを伝えるなかで、メディア自体が変わっていくのが目に見えるからだ。

 朝日の朝刊(19日)に、「財源探し競争 号砲」とあったので笑ってしまった。補正予算の見直しで、各大臣が見直し額を競うというのだ。これまでの大臣は、官僚に取り込まれて省益を言い立てるものだったのだから、これは面白い。書いてる記者がのってるのがわかる。

 鳩山首相は最初の会見で、「未知との遭遇」といったが、これはメディアにとっても同じこと。むろん国民にとってもそうである。閣僚の会見のNHKの視聴率が、深夜にもかかわらず7%台という、ちょっと考えられない数字だったのが、「未知」への期待の高さを物語る。

 閣僚の1人ひとりがまた、ペーパーなしで自分の言葉で語った。翌朝の初登庁でも、これまで見たことのない光景がいろいろ見られた。同時に補正予算の見直しが、現実のものとなってくる。これを受け止める官僚たちの動き‥‥。

 メディアが伝えるそれら一つひとつが、これが政権交代なんだという、実感そのものである。記者たちがのりのりになるのも当然。OBとしては、うらやましいなと思うばかり。
 
 いったい何度、期待を裏切られたことか。「黒い霧」だの、ロッキード事件だの、自民の分裂だのと、何があっても国民は動かなかった。唯一、細川連立政権があったが、自滅によって自民が息を吹き返してしまった。

 つまるところ、「日本にはまだ民主主義が根付いていない」と思わざるをえなかった。ただ、そのときできた小選挙区制の導入が、政権交代をドラスチックに実現させたのは皮肉である。

 二大政党制は、本来国民の意識が選択するものであって、選挙制度がつくるものではない。しかし、これだけ大差がつけば、国民も否応なく「一票の重み」を実感できる。政治との距離も近くなるだろう。

 メディアにはまだ、戸惑いがあるように見える。しかし遠からず、目を開くことになるだろう。また、そうでなくては困る。

 突破口のひとつは、核の持ち込みをめぐる「密約」である。岡田外相は最優先で調査を命じた。長年にわたって「存在しない」で通してきた自民政権と外務官僚の口裏合わせが暴かれる意味は、決して小さくない。似たようなことは、どの省庁にもあるはずだから。

 もうひとつは、予算の組み替えである。補正予算の凍結は、とりあえずはマニフェスト実現のための原資の捻出のためとされるが、野党では知り得なかった国家の財布の中身を、担当者としてのぞきこむのだから、様相が変わって当然だろう。

 現に財務省からは早くも、鳩山政権が必要とする以上の捻出が可能、といった読みも出てきている。また、これまではまったく薮の中だった官房長官の機密費や天下り団体への支出だって、新政権がすべて把握することになる。新たな不祥事や無駄遣いもあばかれそうな雲行きだ。

 どれひとつとっても、わくわくするような話ばかり。新政権の高揚感が続くうちが勝負だ。野党担当だった記者たちの腕の見せ所である。これまで与党担当記者の影の存在だったのだが、入れ替わるとなれば、これまた初めての事態である。

 記者会見も変わるという。事務次官の会見がなくなり、大臣が直接やると。藤井財務相ははっきりと、「行政官が省を代表してしゃべるのは許されな い」とまでいった。次官会見は、名前は出さないという奇妙なルール。例の「政府高官は‥‥」というやつで、先頃物議をかもした官房副長官もその口だった。

 大臣がしゃべるとなれば、「政府高官」もへったくれもあるまい。記者側は、実務的な細かい話が聞けなくなるのでは、と心配しているらしい。「各省庁で混乱」などという記事も出た。まあこの辺りは、やがて落ち着くところに落ち着くだろう。

 むしろ、とかく情報を囲い込むような風潮にあったのを、ひっくり返すテコにしたらいい。これも事態が動いている間が勝負だ。

 ところでお気づきだろうか。選挙につきものの「選挙違反」のニュースがこれほど少ないのも珍しい。警察庁は8月29日、「全国で約190件の違反容疑の捜査を進める予定」と発表したが、以後ニュースはぴたっと止まったままだ。

 「案の定」といっていい。警察庁と全国津々浦々の警察が、新政権の動きをじっと見守っているのだ。なにやら滑稽ですらある。

 そんな中、受託収賄事件の被告で上告中の鈴木宗男氏(新党大地)が衆院外務委員長になった。事件そのものを「国策捜査だ」と糾弾している人である。舞台は最高裁だ。あれやこれや、とにかく毎日が面白い。

2009年9月1日火曜日

頭の切り替えが必要なのは?


 テレビの開票速報というのは、時間勝負のあだ花である。時が経てばはっきりするものを、ほんの少し早く勝った負けたと伝える。技術の進歩か、今回はやけに早かった。だが、あまりに「当選」「当確」が早いと、正直「大丈夫かよ」と心配になる。

 事実間違いはよくあるし、今回も散見した。ただ、テレビはすぐさま訂正ができるから、翌日まで訂正ができない新聞と違って、気楽に未確定情報を流しているように見える。

 いちばん先走っていたのがテレ朝で、ついでTBS。NHKが一番控えめだった。今回の焦点は政権交代だから、自民の大物が苦戦したり、落選したりという展開が見どころ。先走って数字をどんどん伸ばしてくれた方が、見る方としては面白い。

 中継はテレビだけが持つ強みである。勝った、負けたのほか競り合いもある。女性候補に追いつめられた森喜朗氏の事務所は、灯りも消え、カーテンを閉め切って、一時報道陣の立ち入りも禁止していた。これほど当夜の自民党を象徴する絵はなかったろう。

 大勢が見えたのも早かったが、民主が308とは恐れ入った。小選挙区制のマジック。前回は自民がこれをやって、「小泉チルドレン」が生まれた。今度は「小沢チルドレン」だ。党が支持を保ち続けないと「明日はわが身」になる。その意味では真剣勝負になろう。

 そのためなのか、民主党の幹部は一様に笑顔が少なく、発言も慎重だった。鳩山代表は、「数におごってはならない」と控えめで、別の幹部は「いよいよわれわれが試される」といった。

 民主党がやろうとしていることは、全くの未体験ゾーンである。しきりにいわれた「財源」には、「予算の組み替え」をやるといい、「国家戦略局」 の設置、党と政府の一元化、事務次官会議の廃止、省庁に政治家を100人配置‥‥どれも自民党がやってきたことの裏返し。霞ヶ関と永田町をひっくり返す話 である。

 こうした場合、もっとも変化に対応できないのが、当の政治家たちであり、ジャーナリストたちである。長年にわたって55年体制、自民ルールにひたってきたのだから仕方がない。

 細川連立政権が誕生したときがそうだった。あれは8派の寄り集まりで、新聞には「八岐大蛇(やまたのおろち)」みたいな愉快な怪獣のマンガが 載った。8つの頭は考え方が少しづつ違うのだから、閣僚の発言がときにずれた。すると、野党の自民党が「閣内不一致だ」と責め立てる。新聞も書く。

 連立政権というのは、個別の政策で一致していればそれでいい。それぞれの党の存立に関わるような哲学の一致までは無理だ。だからこそ連立なので あって、ドイツでもイタリアでも、連立の国はみなそうしている。だから政策がまとまるまでにも時間がかかる。民主主義とはそういうものなのだ。

 これがわかっていなかった。次の自社連立でもこれは変わらず、再び自民の多数時代になって、今度は参院のねじれに対応できなかった。新聞、テレビは二言目には「衆参のねじれがあるから動きがとれない」と書く。福田首相はこれと選挙の重圧で政権を投げ出してしまった。

 ねじれに対応するには、参院で野党の法案修正に応じるなど話し合いに頭を切り替えるしかない。だが、これができない。結局は55年体制なのであ る。自民党の政調と霞ヶ関が作った政策を、粛々と衆参両院を通すことしか頭にないから、修正などとんでもない。政治とはそういうものだと。

 民主党の青写真は、これにまとめて決着を付けようとしている。「国家戦略局」と「一元化」は、予算策定を官僚の手からとりあげ、党と政府のカベ をなくすものだ。特別会計のヤミも、野党ではのぞくことすらできなかったものを、初めて手にするわけである。何が出てくるかわからない。

 とんでもない大変革である。本当の発案者がだれなのか、知りたいくらいだが、はたしてメディアは頭の切り替えができるだろうか? 連立政権すら理解できなかった政治記者たち。なにしろ彼らの頭の中は、古いルールでいっぱいなのだから。

 政権交代が現実のものになったというのに、翌朝のテレビトークでは相変わらず、「財源はどこに?」「霞ヶ関とどう折り合いをつけるか」とか、新聞にも「参院は単独過半数ではないから、安定が‥‥」なんて話がおどっている。

 鳩山体制が動き出したとたんに、ひとつ先のシナリオになっているはずだが、いまはまだ、頭がついていっていない。そして遅かれ早かれ、日本中が切り替えを迫られることになる。もたもたしてると、国民にも置いていかれるぞよ。

2009年8月29日土曜日

覚せい剤より気になるもの


 タレントの酒井法子が、覚せい剤取締法違反容疑(所持)で送検された。使用についても追送検されているから、いずれ起訴されるだろう。所属事務所も解雇を発表した。なんともバカな話である。

 それにしても、とろい報道だった。とにかく事実の出方が遅いのだ。「身を隠していたのは、覚せい剤を抜くためだった」という自供が伝わったのが、逮捕から2週間も経ってからというのだからあきれる。

 酒井法子がいかに人気者だとはいえ、事件としてはたいしたもんじゃない。夫に勧められてやった。夫が逮捕されたので、クスリを抜くために逃げた。この間、だれとどこにいました。これだけを聞き出すのに、2週間もかかるほど、日本の警察はやわじゃなかろう。

 事件の概要はすぐにもわかっていたはずだ。逃走に関わった人は多いし、夫も逮捕されている。事実関係をつきあわせれば、ボロはたちまち破れる。しかし、それらの事実が出てこない。

 なぜ、こんなつまらんデータが出てこないのか。いったん逮捕されてしまえば、以後出てくる事実はすべて警察が握る。かつて警察はメディアの求め に応じて、それらを筋道立ててきちんと発表した。ときには特ダネも出た。ところがいまは、事実の一つひとつが細切れで小出しになっている。

 おそらくは、警察が変わったのである。メディアへ情報を流すことを重視しなくなった、というより内部できびしく禁じているのかもしれない。今回の事件だけでなく、地方の小さな事件でもことごとくそうだから、警察全体がそうなんだろうと推測するしかない。

 しかし、それに甘んじているメディアもメディアだ。もし警察全体の問題なら、一線の記者が警察署をつついてもどうにもならない。東京の編集局長 と警察庁長官との話し合いに持ち込んで、ルールを確認すべき話だ。少なくとも、なぜそうなのかを明らかにする必要がある。しかし、それがないということ は、メディアの側にもその気がないといわれても仕方なかろう。

 芸能人では同じ頃、押尾学が麻薬取締法違反で逮捕されている。こちらは、ADMAという合成麻薬の使用で、六本木の高級マンションで同衾してい た女性が死んでいる。しかも、重篤な状態の女性を放っておいて、マネージャーを呼んで自分は逃げている。とんでもないチンピラ野郎だ。

 これもしかし、情報は発生段階でばったり止まったままだ。誰かに電話したら「逃げろ」といった(そいつもろくでもねぇ野郎だ)とか。110番ま でに3時間もかかったのはなぜか。女性の携帯電話が、マンション近くの植え込みで見つかったのはなぜ? もう3週間以上、警察がかかえこんだままである。

 人が一人死んでいるというのに、いい神経している。国民に知らせる必要なんかないというのか。こんな調子では、どんな大事件が起こっても、警察 の一存で情報をコントロールできてしまうだろう。メディアが黙っていれば、確実にそうなる。いや現状ですら、メディアが招いたといってもいいくらいのもの である。

 この2つの事件、一般紙では最小限の扱いしかしていないが、テレビは明けても暮れてもこれである。そのせいで選挙報道の時間が減ったともいわれる。

 05年の郵政選挙は「刺客騒動」などでたしかに大騒ぎはしたが、局によっては前回の3分の1というから驚く。朝日新聞はこれを「前回の過熱報道 を反省して」と書いていたが、そんなことはあるまい。テレビが反省なんかするものか。マニフェスト選挙では絵にならないだけのことである。

 世論調査でも歴史的な変化は間違いないというのに、テレビを引きつける何かが欠けている。過熱させるものがないのだ。

 テレビは、マニフェストの分析とかアナをさらけ出すのに最適の技術——画像、イラスト、CG、をもっている。本当をいえば、これらを駆使して、 地味な選挙を盛り上げてほしかったが、テレビをその気にさせられないのだから仕方がない。むしろ、酒井報道なんかにに負けたことを、政治家は恥ずべきかも しれない。

 そのテレビも、選挙の結果が出たとたんに走り出す。政権交代になったらとんでもない騒ぎになるだろう。選挙違反の摘発も始まる。今回注目は、そ こで警察がどう動くかだ。これまで警察は、常に与党に甘かった。親分が変わったとき、彼らの本性が見えるだろう。あと2日。へそ曲がり老人は、いまから楽 しみである。

2009年8月9日日曜日

動画の進歩とは?


 ブログを作って、動画をひとつ載せようと思ったら、直接載せる方法がない。いくつかの動画サイトからしかアップできないようになっている。なるほど、動 画の容量は画像と較べてもけた違いに重いから、うまいこと、動画サイトのふんどしで相撲を取っているのだった。頭がいい。

 とにかくYou Tube にアカウントを開いて、動画を2つアップした。すると、You Tubeから「アップされた動画を広く見てもらうには‥‥云々」というメールがきて、あちこちつついていたら世界地図が出てきたりしてびっくりだ。「世界 中どこからでも見られる」のだと。

 こっちはブログに載りさえすればいいのだが、考えてみればいまや、デジカメはおろか携帯電話でも動画が撮れるんだから、面白いシーンが撮れた ら、見せたくもなろう。載せるのは無料となれば、集まるのは当然。それをまた生かして、新しいシステムができる。たいした知恵である。

 おまけに、首尾よくブログにはめこんだわが動画をつついて、再生されたと安心したところで、別の動画のサムネールがゾロゾロと現れる。試しにの ぞいてみると、たしかに世界中のありとあらゆる映像が出てくる。いつの間にか、You Tubeのど真ん中に見事引っぱり込まれているのだった。

 そんなものを見ると、ついつい昔こんなものがあったらなぁ、といささか複雑な気分になる。面白い話になりそうなシーンは、それこそ無数といって いいほどあった。しかし、20年30年前には、それらのスチル写真ですら現像・電送できればよし。できなければ、フィルムを封筒に入れて航空便で送ったも のだった。

 それを今の人たちは、はるか地球の裏側の光景でも、いとも簡単にリアルタイムで東京に届けてしまうし、動画サイトに載せれば、そのまま公開することになる。むろんフィルムもテープも要らない。なんともあっけらかんとしたものだ。

 そんな中、朝のワイドで、「若田光一さんの22年前、学生時代にテレビに出演した映像がありました。どんな番組だったでしょう」といっている。学生時代? 彼は何を専攻していた? なんて考えていると、なんと「琵琶湖の鳥人間コンテスト」だった。

 九州大チームが作ったグライダーを、尾翼を持って押し出していたのが、若き日の若田さん。このとき九大チーム機は109メートルを飛んで8位だったと。にしても、ちょっと見ただけでは若田さんとはわからない。いったいどうやって見つけ出したのか。
 
 この番組は前日にも、「高校生クイズグランプリ」で、後楽園球場だかどこだか、大勢の中にいる高校生の橋下徹くん(現大阪府知事)の姿を見つけ出していた。また、某美人アナが、まだ四国の高校2年生だった当時の映像なんてのもあった。

 テレビ局にこうした膨大な映像が眠っているのはわかる。しかし、名のある人ならいざしらず、無名の、それもその他大勢の中からどうやって? どう考えても不思議だし、ちょっと空恐ろしくもある。

 テレビカメラは、スイッチさえ入っていれば何でも写し込んでしまうから、写したのではなく写っちゃった映像というのがいくらもある。防犯カメラや例の「Nシステム」という交通監視もその口である。画像だけはどんどんたまる。

 ただ、これが何かものの役に立つのは、万に1つか、100万に1つか。ほしいものを探し出すのは簡単ではない。テープでもなんでも、何が写っているかを記録するのは昔もいまも人間の手書きなのだから、どう考えたって、若田くんや橋下くんまで記録できるはずがない。

 とはいえ、現実に見つけ出していて、ニュースや回想番組でも古い映像がじゃんじゃん出てくる。新しいシステムができたのだろう。テレビといえば まず、テープを持って(いまはDVDか)うろうろしているアシスタントの姿が浮かぶ方だから、ここでもまた、おいてけぼりである。

 この10年20年、動画で進歩したのは記録装置と伝達手段だ。これにCGが加わる。その相乗効果はたしかにすさまじいものだし、われわれはその成果を日々享受している。が、昔を知ってるからなのだろうか、ときに便利さをただ浪費しているように感じることがある。

 そこでまた、動く絵のすごさにぶち当たった。衛星放送の「チャップリンの黄金狂時代」、これが面白かった。子どものころの記憶には、靴を食べたり家が傾くシーンくらいしか残っていなかったが、そこには映像のもつ可能性のすべてがあった。80年以上も前の作品である。 
 
 映画を見ながら、映像を作る方がいったいどれほど進歩しただろうか、と考えてしまった。もしチャップリンにCGを持たせたら、いまの制作者たちは太刀打ちできるだろうか。

2009年7月30日木曜日

事件報道はいらない?


 裁判員制度が始まる。これを前に、このところ妙な論が横行している。裁判員に予断を与えないために、報道は抑えるべきだ、というのだ。事件報道なんかいらないとでもいうのだろうか。

 メディアを語る人は多い。メディアそのものが多様化し価値観もばらける中で、人権問題や誤報、ねつ造など、メディア論のテーマは多い。大学で講座を持っている人たちの大部分は、新聞や放送の現場にいた人たちである。

 驚いたことに、冒頭の論はこういうところから出ている。またその論文が新聞に堂々と載っているのだ。書く方も書く方なら載せる方載せる方だ。「事件報道を何だと思ってるんだ。お前ら、本当にジャーナリストか」といいたくなる。

 裁判員がつくのは、殺人や強盗、放火、誘拐、危険運転致死など重大な刑事事件である。発生のときから、大きく報道されるものだ。事件が起こっ た。状況はこれこれ。まだ犯人はわからない。しかし、とにかく事実を伝える。捜査に役立つ情報が得られるかもしれない。事件報道の役割の第一だ。
 
 これが通り魔や愉快犯だと、連続する可能性もある。警告を発しなければならない。最近は防犯カメラという便利なものもある。疑わしいものが写っていれば、とくにテレビはどんどん流したほうがいい。これで大阪の通り魔が捕まった例もある。

 ま、実態は警察がまだもたもたしている例の方が多いのだが、これについては、また別に話そう。それよりも、事件がどう展開するかもわからないときに、いつ捕まるかもわからない犯人の、しかも裁判のことを考えて報道内容を規制しろというのだから、あきれる。

 そしていよいよ犯人が捕まった。さあそいつは何者で、いったいどういういわく因縁があるのか。少なくともここまでは伝えないと報道は完結しない。その過程で、犯人の置かれた環境や生い立ちにまで取材が及ぶのは避けられない。ここでいろいろ問題が起こるのも確かである。

 いわゆるニュース報道からテレビのワイド、週刊誌、スポーツ紙、ネットまで多様なメディアがあって、なかには怪しい話を載せるものもある。しかし、それぞれが立派に成り立っている以上、ニーズがあるということである。その数はどれほどになるか。何千万は間違いない。

 対して裁判員はたったの6人である。6人に予断を与えてはいけないから、何千万人は、詳細は知らなくてもいい、裁判まで待っておれというのか。 まあ、驚くべき発想である。むしろ、あふれ返る情報の中から、裁判員の先入観を取り除く方策を考えるのが筋だろう。その方がはるかに簡単で、現実的だ。

 司法当局者の中には、「自白」や「証拠」「生い立ち」などは報道すべきではないという人はいる。彼らは裁判しか頭にないのだから、まあ、ご意見 としては承ろう。しかし、メディアに関係する側からとなると、考え込んでしまう。前記の要件を欠いた気の抜けた記事なんて、記事と呼べるか。だれがそんな もの金を払ってまで読むか。

 なにか勘違いしているのではないか。一般人は、ありとあらゆる雑音のなかで生きていて、価値観も経歴も様々。裁判員制度は、そうした広い目が必 要だと導入されたのではなかったのか。もし、雑音を全部シャットアウトした白紙のような裁判員が必要というのなら(そんな人間はいない)、制度の趣旨から はずれてしまうだろう。

 事件報道はまた、記者教育の基本中の基本である。事実を追い求めるあらゆる取材の仕方が、そこにある。そしてくわえこんで来たネタは吐き出す。つまり紙面に載る、放送される。だからまた、次の取材に走る。そうして記者は育っていくものだ。

 そこでもし、事実を削って出すようになったら、何が起こるか。いささか図式的にいうと、まず記事そのものがつまらないものになる。当然、取材意 欲にかかわる。取材をケチる(手を抜く)ようにもなるだろう。モラルも低下する。基本がおろそかになれば、ついにはジャーナリズムそのものが危うくなるだ ろう。

 その前に間違いなく、人々は報道を信用しなくなる。「事実の一部しか出さないメディア」なぞ、だれも信じまい。それでなくてもいま、ネットの世界では、報道管制が行われているのでは?という根深い疑いが渦を巻いている。

 メディアは多様化していて、そのすべてを規制はできない。むしろ、いかがわしい情報ほど防ぐのはむずかしいものだ。そこでもし、事実にこだわっているメディアだけが抑えにまわったら、結果としてまったく別の現実に直面することになるのは、目に見えている。

 しつこく書くのには理由がある。最近の事件報道で、展開が見えない、辻褄が合わない、騒ぎのあとぱったり沈黙、という事例が目立つ。主として警察が情報を止めてしまうことによる。もう裁判員対策は始まっているとみていいだろう。

 報道はこれを突き崩さないといけない。できないこと自体が、ジャーナリズムの劣化だ。「メディアは何をしているんだ」といわれてからでは、もう遅いのである。

2009年7月19日日曜日

始まった? メディアジャック


 自民党のしっちゃかめっちゃか。解散予告と造反なしの不信任案否決で、「麻生降ろし」は収まったかと思われたのが、両院議員総会の開催要求に閣僚までが署名するにいたって、何が何だかわからなくなった。

 こうなるとメディアは弱い。とにもかくにも動きを追わないといけないから、新聞は一面、政治面、社会面にどかんどかんと載るし、テレビはニュースからワイドまで、自民党、自民党である。あっという間にメディアジャック状態になってしまう。

 みのもんたがやっているTBSの「朝ズバッ!」に、「8時またぎ」というコーナーがある。午前8時をまたいで約50分、でっかいボードに4、5 項目のホットニュースを並べて、ゲストやコメンテーターがああだこうだと論ずるのだが、16日のボードは全面「自民党」だった。これはさすがに珍しい。

 とくに後半の30分は、森・元首相がナマで出演して、それはそれで面白い見物ではあった。この森さんというのは口は滑らかなのだが、ときどき口を滑べらせるので、政治部記者も目が離せない。この日も、ウラの動きをいくつかもらして、記事にした新聞もあった。

 実は「朝ズバッ!」は、前日も武部・元幹事長が出て、これもたっぷり30分、「麻生さんには徳がない」などといいたい放題。17日も石破・農水 相だったから、もう3日連続で「乗っ取られた」ようなもの。事態はまだまだ動いているから、週末をはさんでなにが起こるかわからない。

 これで見事、民主党は脇役にされてしまった。思わず「またかよ」といいたくなってしまう。4年前の悪夢である。小泉マジックで、郵政民営化か反 民営化かという思いもよらない対立軸の設定と刺客騒動に振り回されて、あの選挙では民主党はメディアの上ではどこかへ消えてしまったのだった。

 結果が小泉チルドレンの誕生であり、3分の2の再議決路線になった。たしか、過熱報道への反省もいわれ、「メディアジャック」という言葉も出ていた。とりわけ面白がって刺客を追ったテレビには、終わって苦い思いがあったはずである。

 にもかかわらず、今回もまた動き出すと止まらない。何も変わっていないかのようだ。4年前とは状況も違うし、カリスマもいない。また有権者もか なり覚めた目で見てはいるようだが、大騒ぎのまま選挙に突入でもしようものなら、またまたメディアは、自民の党内対立に振り回されかねない。

 その効果(支持率アップ)はおそらく、総裁選やまじめなマニフェストづくりなんかよりはるかに大きい。もし意図的に騒動を作り出せたら、相当な 高等戦術だ。議員総会ではなく懇談会になったとき、小泉元首相は「ボクなら(議員総会に)出る。国民に訴えるいいチャンスだ」といったそうだが、やっぱり 彼はわかっている。

 そこで、正義の味方と思われた方が(思わせるだけでいい)勝つ。議員総会に出るのは署名した議員だけではない。署名議員だって多くは麻生体制維 持派なのだから、執行部はそこで堂々と「総裁選前倒し」を否定すればいい話だ。その自信がない、と思われるマイナスの方がはるかに大きいだろう。

 何にしてもメディアというものは、騒ぎがおこれば動く。現に目の前で騒いでいるのだから無視はできないし、また動かないといけない。宿命みたいなものだ。だからこそ、一段高いところから全体像をにらんでいる人間がいないと危ない。

 それでなくても他人の喧嘩は面白いものだ。あの刺客騒動なんか、その最たるものだった。今回の騒動だって、テレビのニュース・ランキングでは、 よほどのことがないかぎりトップにいくだろう。だが、それが生み出す結果を絶えず念頭におくこと。自分たちが考える以上に、メディアの影響力は大きいのだ から。

 今度の選挙には、政権交代がかかる。自民か民主か、指導者と国の形の選択を、有権者が一票で実感できる、事実上初の機会である。アンケート調査でも、「一度変えてみよう」「民主がだめならまた戻せばいい」という声が、はっきりと聞ける。こんなことは初めてだ。

 一方で相変わらず「政権担当能力が‥‥」という人がいる。長年自民にやらせてきて、こんな日本になってしまったーーそれを「担当能力」というなら、そんなものいらない。別の発想が必要だ‥‥いま問われているのは、これだろう。

 だから、だれもが見たい聞きたいのは、その先だ。次元の低い騒動なんかじゃないのだが、メディアは否応なく動く。ジレンマもまた、続くのである。

2009年7月15日水曜日

八兵衛は生きている


 警視庁の伝説の刑事(デカ)、平塚八兵衛を描いたテレビドラマを観た。吉展ちゃん誘拐殺人事件の容疑者、小原保を落とす場面がでてくる。怒鳴る、小突く、襟首を締め上げる、そして一転おだててみたり‥‥テレビだから、まだ抑えて作ってあるはずだ。

 駆け出しのころに見た地方の警察の大部屋なんか、あっちでビシバシ、こっちでボカスカ、いや凄まじいもんだった。やってるのに「やってない」と言い張るワルを、自供に追い込むための荒っぽいワザである。

 このやり方が無実の人間に向けられたときが、えん罪の温床だ。どのえん罪でも、被疑者は必ず自供している。そしてあとになって否定する。 「足利事件」で無期懲役になり、DNA鑑定で「人違い」とわかって釈放された菅谷利和さん(62)も、このパターンだった。

 4歳の女児殺害で、DNA鑑定が主たる証拠とされて話題になった事件だ。逮捕・勾留から17年半。有罪の決め手もDNA鑑定なら、裁判の間も、後の再審請求を退けたのも、DNA鑑定だった。間違いのもとは、鑑定の精度にあるんだと。

 が、それは違う。本当の決め手は自供なのである。DNA鑑定の精度について、当時の新聞は「百万人に1人を特定できる」などと書いてはいるが、それは警察の希望的観測。精度についての疑問はいぜんとしてあった。

 ところが、その疑問の芽を摘んでしまったのが、菅谷さん自身の自供だった。警察が自供を引き出したというので、DNA鑑定は逆に信頼性を高め、以後、新聞はDNAそのものを疑うことをやめてしまったのである。

 その時点での精度は、足利市だけでも同じDNAをもつ者は数十人はいたというレベルだった。それが今の技術は、地球上の一人ひとりを特定できる。菅谷さんが死刑でなかったのは、幸運だった。死刑で執行されてしまえばそれっきりだ。

 にしても、やってもいないことをどうして自供するのか。えん罪事件で常にぶつかる疑問である。釈放後、菅谷さんは会見で、「刑事にこずかれて、もういいやと思った」という。「私は気が弱いんです」とも。これも典型だ。

 えん罪事件の被害者はみな、気が弱かったり、裁判の知識がなかったり、知的に遅れがあったり‥‥警察官、検察官の厳しい追及と「早く吐いて楽になれ」「やったといえばそれですむんだぞ」の言葉に抗しきれなかった人ばかりである。むろん、それですむはずはない。

 痴漢事件でも、これが多いらしい。それでなくても痴漢は、たった1人の闘いになる。世間も会社も家族ですら、まずは警察のいうことを信じざるをえない。長時間の拘束、連絡もさせない、職を失う恐怖と絶望‥‥そこへ「やったとひと言いえばすむんだよ」

 ごくごく普通の市民にも、密室での調べのワザは同じである。だが、「もういいや」とひと言いったら一巻の終わり。ひっくり返すのはまず不可能である。

 これで、がんとして認めなかったらどうなるか。先に最高裁で上告が棄却され、有罪が確定する外務省の佐藤優・元主任分析官(49)のケースがこれに当たる。

 罪名は偽計業務妨害とわけがわからない。要は、鈴木宗男衆院議員(別件で上告中)とのからみで逮捕され、「検察の国策捜査だ」と話題になった事 件だ。彼は検察のいう容疑を絶対に認めなかった。その結果、512日間もこう留されたのである。これはさすがに極端な例だが、普通の人間が、これに耐える のは無理だろう。

 かつて三鷹事件、松川事件など、思想的な背景のあるえん罪が多発したことがある。ほとんどは、裁判で無罪になっているが、それに至る時間だけはどうにもならない。取り返しがつかないものである。

 菅谷さんは釈放直後、「当時の刑事、検察官は絶対許しません。17年間、ずっと思ってきた」といった。だが、そのおおもとは自らの自供だ。たとえインチキでも、いったん調書になった自供は、17年かかっても覆すことはできなかったのである。

 菅谷さんの件を機に、あらためて取り調べの可視化の必要がいわれている。裁判員制度の方でも、求めがある。が、警察は常に否定的だ。本音をいえば「落としのテクニック」が通用しなくなるからだ。えん罪の温床はいぜん健在なのである。

 これを防ぐ手だては? 残念ながらないだろう。近年警察が情報をいっそう囲い込むようになっているから、なおさらだ。まあ、DNAなんてものがあるから、警察も以前のように、闇雲に犯人を仕立て上げることもできないだろうが‥‥。

 むしろ気になるのは、取材する側の勢いである。八兵衛も真剣だったが、取材する側も真剣だった。両者はいつもピリピリしていたが、自ずと信頼関係もあった。いまこれが怪しくなっている。テレビを見ながら、妙にお行儀よくおとなしいいまの記者たちの姿が浮かんだ。

2009年7月1日水曜日

くたばれ携帯認証


 友人をmixiに招待したが、携帯がないとだめだといわれたと連絡があった。「なにいってんだ。携帯は関係ないだろう。もってないマイミクもいるぞ」といったのだが、本当だった。

 どうなってんだ。こちらが入会したときだって、携帯電話は関係なかったはず。老人は携帯を持っていないへそ曲がりも少なくない。だいいち、持 つ、持たないは、個人の自由だ。mixiと関係ないだろう。古い友人とやっとつながる手だてができたというのに、どうにも腑に落ちない。そこでmixiに 聞いてみた。

 いつからそうなったのか? また、それはなぜか? 答えは驚くべきものだった。

 PCでの登録には、mixiモバイル対応機種の携帯電話からの認証操作が必要。そのため、携帯電話がない、あるいは対応機種外の携帯電話では、 mixi に登録はできかねる、というのだ。「誠に恐れ入りますが」といいながら、「もう決まっていることだから」とにべもない。

 要するに「安全性強化に対する取組み」で、「現状、携帯認証に代わる登録方法はございません」と。「ご期待に添えず心苦しく存じますが、ご理解、ご協力の程、よろしく」といわれても、素直にウンというわけにはいかない。そこで再度問い合わせた。

 なぜ携帯なのか。「安全性強化の取り組み」とは、具体的にどういうことか。それが善良な入会希望者を閉め出す結果になっていることを、どう考えるのか。認証というが、道を歩くのに、「運転免許証を見せろ」というようなものではないか。

 とくに、携帯認証に、運営事務局の内部から異論が出なかったのか。もし出なかったとすれば、驚くべき無神経。まるでSFの世界ではないか。こんなことを考えた人間の顔が見たい、とまで書いてやった。

 しかしその答えは、「利用規約違反行為を防止するため」で、「具体的な仕様の詳細などにつきましては回答いたしかねます」と。なによりも「携帯 認証」という、それ自体よくわからない手続きが、規定の事実になってしまっていて、なぜだ?という問いに答えることすらしないのである。

 認証というからには、一種の身分証を求めているということだろう。古くは米穀通帳(若い人は知らないか)、近年は運転免許証がその役をはたして いた。米を食べない人はいないから、米穀通帳は確かな身分証にはなった。免許証だと、運転しない人たちは不自由だったことだろうが、個人の認証の手だて は、ほかにいくらもあるし、だれもそれを拒否することはなかった。

 ところがこのmixiは、いかに閉じられたプライベートなコミュニティーとはいえ、「携帯電話以外はダメ」というのだから、なにやら空恐ろしい。

 携帯電話の普及は飽和状態に近いらしい。わが家は4人家族だが、たしかに4人とももっているし、街でも電車でも、携帯があふれている。まして ネットの画面上での手続きだから、mixiが免許証がわりにと考えるのも、わからないではない。mixi以外でも行われているのかもしれない。

 しかし、「それ以外はダメ」というのは、話が違うだろう。一方で、「マイミク・キャンペーン」なんてものをやっていながら、漏れた人間はいなくてもいいというのだから、これはもうニュースといっていい。世の中そこまでいってしまったのかと。

 そもそも「認証」とはなにか。メンバーの紹介でできているマイミクに、さらに「認証」を求めるというのは、「紹介制」がすでに破綻していて、いかがわしい「マイミクのお誘い」が横行しているということなのであろう。

 しかし、よからぬことをする輩は、どんなことをしてでも入ってくるものだ。一方で、ケータイの世界も大いにいかがわしい面をはらんでいる。いかがわしさを掛け合わせて「認証」とすましているのは、つまるところ、問題が起こったときのアリバイにすぎまい。

 結果的に切り捨てられるのは、多く老人になろう。現役を退いて静かに余生を送っている人には、「もう携帯とは縁を切りたい」というのも少なくな い。また実用上も、家には電話があり、出先では公衆電話もある。マイミクにも1人いる(携帯認証以前に入会)が、今回の友人もその口であった。

 それがたとえ100人に1人だろうと、別の道を開けておくのが筋だろうに、閉め出して平然としているmixiの神経には恐れ入る。mixiの回 答は最後に、「可能な限りご期待に添えるよう、今後の参考とさせていただきたく存じます」と空々しく書いていた。くそいまいましい。これとて、マニュアル の文章のコピペだろう。

 あらためてmixiを見ていると、お仕着せの環境のなかでお仕着せの平和を楽しむ無数の「従順な羊」の群れを見るようで、ぞっとする。彼らに は、なんでぞっとするかもわからないのだろう。こういう連中にどこかで一泡吹かせてやれないものか。へそ曲がり老人はこの数日、そればかり考えている。

2009年6月22日月曜日

太蔵くんに聞いてみたいこと


 小泉チルドレンの杉村太蔵議員が、次の選挙に出ないと決めた。テレビでは、会見の映像が短く出たが、新聞では記事にもならなかった(多分ネットだけ)。まあ、その程度の話ではある。

 しかし、テレビというのは面白い。3年半前のシンデレラボーイ、太蔵君の映像と言葉が残っている。曰く「料亭と外車かぁ」「国会議員の給料って知ってますか? 2500万円ですよ」云々‥‥まあ、正直そのもの。とくに「料亭と外車」は、一般の人間が国会議員に抱いているイメージを端的に言い表して痛快だった。

 もともとニートだった若者が、なぜか自民党の比例代表名簿の下の方に載っていて、郵政選挙の圧勝で、間違って当選してしまった。おまけに正直に口を開いてしまうものだから、テレビは面白がって追いかけ回した。その言葉の数々である。

 小泉チルドレンは83人。小選挙区で刺客に仕立てられた強者もいれば、太蔵君のような“間違い”組もいた。とくに比例区の下位当選組は、当選したとたんから党執行部の頭痛のタネになった。本来当選するはずがない人たちだ。再度の大勝はありえないのだから、次の選挙で彼らをどうするか、どの選挙区にはめ込むかが、大問題だった。

 当人たちも、お定まりの道を歩む。党執行部や“親分”の言うままに、選挙区探し。議員活動の目的が、「次の選挙で当選すること」になったのである。この3年半に議員活動で存在感を示したのは、大甘にみても片手ほどもいない。あとは、2/3強行採決要員でしかなかった。

 太蔵君は、その点でも典型になった。親分の武部勤・元幹事長が北海道を用意したり、地元ともめる(当然だ)と「私は現職だ」などと議員風を吹かして総スカン。親分からも見放されて、次期公認の見通しがなくなったというわけだ。

 まあ、それだけでしかなかったといわれればその通りだが、彼にも起死回生のチャンスはあった。昨年秋からの金融危機で、派遣切りが大問題になったときだ。

 国会議員多しといえども、ニートの経歴を持つものは彼しかいまい。暮れの「テント村」騒動の際に、やろうと思えば「切られた者」の痛みを代弁できた。「わたしはニートだった」とメディアで声をあげ、派遣のナマの声を聞き、国会で質問し、本気になって支援に走り回れば上々だ。さらに学習して、雇用の仕組みにまで切り込んでいれば、道は大きく開けたかもしれない。

 まあ、次の当選すらおぼつかない議員に、役人が動いたかどうかはわからないが、少なくとも、テレビのネタにはなったはず。国民のために動き回る姿は、自身の勢いにもなっただろう。

 結局彼自身が、「料亭と外車」を守るつもりになったのだろう。国会議員が職業になってしまったら、それで一巻の終わりである。そんな議員は要らない。議員というのは、それまでの経歴を国会に持ち込まなければいけない。経歴そのものが、社会の矛盾や理不尽をたっぷり含んでいるのだから。

 しかし、国会を見渡せば、なんとまあ幸せな経歴の人たちばかりであることよ。高級官僚、いま焦点の二世三世、功なり名遂げた名士たち、議員秘書、松下政経塾‥‥いわば社会の上澄みを生きた人たちばかりである。

 彼らの多くが、「次に当選するため」だけに国会にいるのは、まぎれもない事実。国民が政治に感心をもたなくなった最大の理由である。だからこそ、「間違って当選した」若者が「開き直ってオオバケ」でもしてくれたら、ホント楽しいことになったろうにと、惜しまれる。

 ともあれ太蔵君は、あまりにも無垢で無知だった。メディアもそれなりの扱いしかしなかったが、彼がただの人になったときに、あらためて聞いてみたらいい。間違ってなった国会議員の一部始終をである。日々を克明に追うだけで、日本の政治の断面がスパッと切り取れると思うのだが、どうだろう。

2009年6月14日日曜日

年金モデルは大インチキ


 やれ「100年安心」だの「現役時代の50%支給を約束します」だのと、厚生年金で自民党がさんざん公約していたのが、どうやら嘘っぱちだとわかってきた。これを伝えるモーニングショーで面白い見物があった。

 先に厚労省が出した試算で、2050年に唯一 50%台を維持するという「モデル世帯」が、ほとんど実態がないことを、みのもんたの「朝ズバッ!」が、図解してみせたのだ。絵で見せるというのは、新聞よりはるかにわかりやすい。

そのモデルとは
 (1)20歳までに結婚した同い年のカップル
 (2)結婚生活40年
 (3)40年間夫は会社員、妻は専業主婦、というもの。
 20歳といえば、まず大学は出ていない。妻は専業主婦。見ただけで、「そんな夫婦いるか?」「どうやって食っていくんだ?」と思ってしまう。厚労省が発表したとき、番組でもそう思ったらしく(そのときは見ていなかったのだが)、これをあらためて検証したのだった。

 むろん、専門家に頼んでの試算である。群馬大の青木繁伸教授。やり方はこうだ。
 ① 統計上は、2050年に65歳になる人口(1985年生まれ、現在24歳)は144万2590人。これに、05年の20歳の既婚率をかけて「607.6組」と出た。
 ② 「20歳から40年間会社員」の条件を、「非大学進学率」「厚生年金継続率」に当てはめると、「4.24組」。さらに妻がずっと専業主婦である割合49.5%から、モデル世帯は「2.1組」。
 ③ もひとつ、離婚してないのだから、離婚率25.7%(4組に1組)で修正したので、なんと「1.56組」。144万人中たったの一組半。「50%支給を確保できるのは、0.00021%」と出た。
 しかも番組によると、50%を維持できるのは1年だけで、翌年からはどんどん下がっていくのだそうだ。これはもう、モデルなんてもんじゃない。

 ちょうどその前日(2日)、民主党の厚生労働部会があって、蓮舫が「モデル世帯はどれくらいの割合か」「モデルの意味がないのでは」と質問していたが、厚労省の役人が、「物差しを変えるのは、物差しとして意味がなくなる」と答える映像が出た。こういうのを「いけしゃあしゃあ」という。

 蓮舫も惜しかった。もし「0.00021%」という数字をつかんでいたら、そんな言い訳は通らないし、大いに紛糾して大ニュースになるところだった。新聞も書き立てただろう。

 テレビには、答える役人の顔とナマの声が入っているから、そのバカバカしさがストレートに伝わる。それと、数字を割り出していく過程のフリップの効果。ぼーっと見ているだけで頭に入ってくる。また、みのもんたが、「公務員試験を通った優秀な官僚が、99.999%ありえないケースをモデルに?」などと怒ってみせる。紙のメディアが逆立ちしてもかなわない説得力である。

 かつて、年金問題を扱っている専門家は、異口同音に「厚労省が数字を出さない」とぼやいていたものだ。年金の将来像を解明しようと思っても、数字がないから確たることがいえないのだと。

 その後、一連のしっちゃかめっちゃかで、実は数字を「出さない」のではなく、「出せない状態だった」のだとわかった。しかし、厚労省は相も変わらず、お金がいくらいくら足らなくなるから、掛け金をあげるか、支給を減らすかという話ばかり。彼らは足し算と引き算しかできないらしい。

 そもそもは制度が時代に合わなくなったこと。一日も早く、あるべき制度を考えないといけない厚労省が、足し算と引き算ではどうしようもない。国民的な大論争を巻き起こすしかあるまい。しかしこれが大変だ。

 年金問題を絵解きにするのは、容易なことではない。新聞がよく書いているが、国の負担と個人の負担の割合を表すグラフ(これも厚労省がつくったもの)がせいぜいで、よくわからない。実際の給付との関係では、モデル家庭で語られるーーそのモデルが怪しいというのだから、さあどうする。

 ここはひとつ、テレビの知恵に期待したい。厚労省の発想を離れた斬新で壮大なパノラマと映像で、図解モデルをつくれないものか。選挙の重要テーマでもある。政党マニフェストのアナをみつけるだけでも、有権者には大いにプラスになるだろう。

2009年6月9日火曜日

国会図書館のお祭り


 Googleが行っている書籍の検索プロジェクトは、じわじわと日本にもおよびつつあるようだ。私の手元にも出版社からのお知らせが届いて、出版社としては拒否はせず、経緯を見守るという。正しい判断だと思う。事態は動いているからだ。

 前回もちょっと触れたが、これには、ネット情報をどうとらえるのかという根本的な問いがからむ。ネットは危ない世界だが、googleの問いかけを真正面から受け止めざるを得ないのは、将来的にはそういう時代になるだろうと、だれもが感じているからである。

 そのとき、どう著作権を守るか。無料のネット情報との兼ね合いはどうなるのかーー議論はまだ、ひと山もふた山も越えねばならないだろう。

 今国会で著作権法が改正されるが、なかに国会図書館に関する項がある。著作権者の許諾なしで、所蔵資料のデジタル複写ができるという内容で、一足先に補正予算でデジタル化に145億円がついた。例年の100年分というから驚く。

 不勉強で、補正予算にそんなものが入っているとは知らなかった。法改正の趣旨は、古い蔵書はもちろん、新刊でも貸し出しで傷まないうちにデジタル化するということらしい。順調にいけば来春までに国内図書の4分の1がデジタル化されるという。

 が、同図書館の長尾館長も国会答弁で「図書館である以上、本来は無料。しかし、著作権について出版関係と調整する。音楽をダウンロードしたときと同様の仕組みになるか。第3の組織にゆだねるか」といっているように、どう利用させるかは、まだ決まっていない。

 100年分の予算がついた国会図書館はもう、お祭り騒ぎだろう。景気対策のどさくさ補正に、うまくまぎれこませたとほくそ笑んでいるかもしれない。(今回の補正はそんな話ばっかりで、霞ヶ関全体が棚ぼた気分。麻生さんがなめられているわけだ)

 このデジタル化については、googleのほかに、欧州連合がすでに検索システム作りに動いているとか、日本は遅れていたという背景があるらしい。朝日新聞は、google論議についての社説の中で、国会図書館のデジタル化を歓迎していた。

 ここでひっかかった。国会図書館のオープン書架で最大のスペースを占めているのは、新聞の縮刷版だ。もしあれらもデジタル化されて検索できるようになったとしたら、朝日はなお著作権を主張するのだろうか。社説はどうやらこの点を忘れていた。

 もひとついえば、主要紙はすでに縮刷版のデジタル化を終えている。このデータをそっくり国会図書館に提供したら、たとえそれ自体は有料だったとしても、国家の予算と人手と時間の大幅な節約になるのは間違いない。そして、閲覧は無料と。ここはひとつ、新聞協会の出番ではなかろうか。

 新聞の最大の財産は、アーカイブである。紙面になって発行されたとたんに、国民共有の財産でもあるはず。だが、前回書いたように、有料のカベに阻まれて十分に生かされていない。繰り返すが、ネットで検索できないのは、存在しないのと同じ、そういう時代なのである。

 国会図書館のデジタル化が、はからずもこれに風穴をあけることになれば、快挙といっていい。それはまた、google論議にもいずれ関わってくるはずである。

2009年5月19日火曜日

情報はタダであるべし


 朝日新聞が「kotobank.jp」というサービスを始めた。無料の用語解説サイトで、日本人名大辞典(講談社)、大辞泉(小学館)、知恵蔵(朝日新聞出版)など44のデジタル辞書から約43万語を網羅。用語に関する朝日新聞の記事も掲載されているという。

 「朝日もようやく気がついたか」と思った。情報とは本来タダという「世界の常識」に、いちばんかたくなに距離を置いているように見えるのが朝日だったからだ。

 ちょうど調べものをしていたので、「昭電疑獄」を試してみた。昭和23年、芦田内閣を退陣に追い込んだ大規模な贈収賄事件である。ところが、や はり辞書がベースだから記述がおそろしく短い。事件のあらまし、時代的な意味までを知ろうと思うと、結局はリンクでgoogleやyahooの検索を頼る ことになる。

 期待した朝日の新聞記事というのも、最近の紙面にある「キーワード」がせいぜいで、記事の本文には至らない。「朝日の記事も」というのは、ウソではないが、無料公開とはほど遠い。まだ「気がついていない」ことを再確認したのだった。

 googleなどの検索で、朝日の古い記事がナマで出てくることはない。有料のカベに阻まれているからだ。「無料で読める」が原則のネットの世界では、朝日新聞も膨大な情報も、存在しないのと同じなのである。

 他紙も概ね似たようなものだ。毎日新聞の社説やコラムは、しばらく前まではむこう1年くらいは検索ができたが、いまは1ヶ月になった。他紙はさ らに短かく読売が2週間、朝日と東京は1週間だ。産経だけが前年の1月1日からで、ニュースも1年前まで読める。しかし、それより古くなると、みなアーカ イブにはいってしまって、有料の彼方になる。

 厳密に調べたわけではないが、最新のニュースでも、googleやyahooの検索でひっかかるのは、毎日がいちばん多く、次いで読売、産経。 朝日はどうやらリンクを拒否しているらしい。だから、朝日がこの“劣勢”をはね返すには、完全無料化しかない。「kotobank」がそれか、と早合点し たのは、そういう事情からだった。

 日本の新聞のデジタル編集は1980年の朝日が最初だった。印刷から活字がなくなったのも大革命だったが、記事データがデジタルで残るようになったのは、もっと大きかった。

 何年もしないうちに、専用の端末を使って記事検索が可能になる。記事を分類してキーワードをつける作業は大仕事だが、まだパソコンもインターネットもない時代に、大いに先見の明があった。

 これを一般も利用できるようになるのはさらに10年後、パソコンが普及してからである。が、最初から有料だった。念頭にあったのは図書館や企業で、個人の利用はほとんど考えていなかった。

 だが、通信事情はその後、劇的に変わる。いまや携帯電話で情報をとるのは当たり前。ネット検索がこれほどのビジネスになると、誰が予想したろう。新聞も、本来自らを脅かすはずのネット新聞に踏み出すのである。

 この変化はまた、情報の意味をも変えた。ネットにある膨大な情報は、まさに玉石混淆。どれが信頼できるかの判断は受け手にゆだねられた。そうし た中で、メディアの情報は信頼度が高い(あくまで比較だが)。間違っていれば文句もいえる。ところが、これが金を払わないと出てこない。

 朝日新聞の場合、登録をして検索結果の一覧までは無料だが、記事を読む代金は一件84円だ。しかし、見出しだけの一覧で、それが本当に必要とする記事かどうかを見分けるのは、なかなか難しい。実際には、空振りを何本か読まされるのが普通だろう。

 「それならタダのソースがいくらでもあるじゃないか」となるのは当たり前だ。ネットの玉石混淆からでも、読む側に目があれば、ほどほどの結果はえられる。

 アメリカは違う。ニューヨーク・タイムズのニュースサービスは、メールアドレスを登録すれば、毎日トップニュースのリストがメールで届き、それをもとにHPに入り込むと、すべての記事が読めて、ダウンロードもできる。

 しかも、どこまでたどってもOKで、19世紀の記事でもちゃんと読めるし、そこからリンクをたどって当時のほかの新聞までが出てきて驚いたことがある。むろんすべて無料だ。情報とは、そういうものだと思う。

 そもそも新聞社のアーカイブは、日々の新聞づくりに不可欠なものだ。昔は他紙の紙面までをも切り抜いていたから、その手間は大変なものだった。それがデジタルだと、自社記事だけにはなるが、人手をかけずに自動的にアーカイブに入る。

 検索用に分類したり、キーワードをつけたりするのも、もともと自社用にしなければならない仕事だ。それで、もう一度金をとろうというのはちといじましくはないか。

 意地の悪いいいかたをすれば、ちょうど銀行がATMの手数料をずっととり続けているのと変わらない。ネット検索で「存在しない」状態におくのとどっちがいいか、考えなくてもわかりそうなものだ。

 それでなくても時代はいま、さらなる情報無料化へ動いている。google は書籍までも全文公開するというので、騒ぎになっている。しかし、google を拒否することは、ネットの世界では「存在しない」状態に陥ること。それがいいのか悪いのか。出版社もいま、拒否しきれずにいる。

 もし、ネットの検索で朝日の記事がそこら中で出てくるとなれば、朝日の位置が変わる。直接の検索も増えるだろう。アーカイブがみんなの図書館になる。タダでなければ決してそうはならない。ハッカーに攻撃される危険はあるが、それはまた別の問題である。

 いつもは無縁でも、ときに歴史的大事件の確認とか、印象に残る解説・連載、加藤周一の「夕陽妄語」や大岡信の「折々のうた」をふと読み返してみたいなと思ったときにこそ、アーカイブは値打ちなのである。1件84円払ってまで、だれが読もうとするか。

 アルファベットと違って、日本の新聞は、デジタル化以前の記事をどうするかが実は大問題だった。しかしこれも、縮刷版をpdfで読み込むことで解決してしまったのである。朝日はこれをCDで売ったり、学校に寄贈したりしているが、何とも中途半端なことである。

 いまや小学生がじゃんじゃんネット検索する時代なのだ。新聞のアーカイブが国民の図書館になる条件が、とうにできているというのに、作った方が意味をわかっていないとは。まあ、よくある話とはいえ、惜しい。

 では、どこが最初に門戸を開くか。とにかく最初にやったものが勝つ。頭の柔らかさでいうと毎日か、身軽という点では産経か。いざその日になってあわてふためくのは朝日? そうならなければいいのだが。

2009年5月14日木曜日

どんな取材をしてるんだ?

 どうも事件報道がおかしい。連休のはじめに、名古屋近郊で母子3人が死傷する事件があった。いまだに物取りか怨恨かすらわからない奇妙な事件だが、それ以上に奇妙なのが警察と報道である。こんなぐうたら捜査と気のない報道は見たことがない。

 少し長くなるが、事件のあらましはこうだ。5月1日の夜、夕食をすませたあとにまず母親(57)がスパナで殴り殺された。次に帰宅した次男 (26)が包丁で刺され死亡。日付が変わって2日午前2時過ぎに帰宅した三男(25)が、ナイフで首の辺りを刺され、粘着テープで縛り上げられた。

 次男が出勤しないのを不審に思った勤め先の上司が、午後零時過ぎになって、警察官を伴ってこの家を訪れた。中から縛られたままの三男が飛び出してきて警官に「中に2人殺されている。犯人は逃げた」と告げた。警官が中をのぞくと、黒っぽい服装の男がうずくまっていた。

 警官は家族だと思い、「大丈夫か」と声をかけたが、本署から無線連絡が入ったので外で交信。2分後に戻ったときには、男はいなかった。中へ入って、次男の遺体を発見、大騒ぎになった。

 ここから話は、いっそう奇妙になる。警察は近辺で緊急配備を敷いたが、「若い男」「黒っぽい服装」という情報を、「不確実だ」と捜査員に伝えなかった。

 家の中の血痕はきれいにふきとられていて、浴槽と洗濯機の中に血の付いたタオルなどが入っていた。凶器とみられるスパナ、柄が折れた包丁、ナイフがみつかった。

 しかし、母親の姿がみつからないまま、その日の捜査を終わっている。その母親の遺体を押し入れの中でみつけたのが、なんと翌3日である。押し入れには、飼い猫の死体もあった。

 あらためて調べると、犯人は母親を殺害してから、推定で14時間以上もこの家にとどまって、室内の血痕を入念に拭き取ったり、財布から現金を抜き取っていた。食事をした形跡もあるとか、三男とは言葉のやり取りもしていた、などが明らかになった。とにかく奇妙だ。

 ただ、こうして話がつながるのは、実はこれまでの報道のつなぎ合わせ。遺体がみつかったまではすぐに発表したものの、細かい現場の状況について、警察はどうやらまともな発表をしていないらしい。

 警官が犯人を見ていたとわかったのは、発生から6日も経った8日。それも新聞・テレビ一斉にではない。9日になって「捜査幹部が明らかにした」などと書いているところもあるくらいだから、警察全体が初動のドジにすくみあがって、貝になってしまったらしい。

 こうした情報はどれも、発生から1日も経てばすべてわかっていたことばかり。それを一週間も経ってから、「血が付いた小刀、三男を襲った凶器か」とか「三男は衣類を被せられ粘着テープでぐるぐる巻き」などと報じているのだから、間が抜けているなんてもんじゃない。

 いったいどんな取材してるんだ、といいたくなってしまう。つまり報道と警察の関係はどうなっているんだと。
 
 警察は隠すのが仕事。いまいま始まったことじゃない。その固い口をこじ開けるのが報道の仕事だ。カギは人間関係である。どうやるのかは、人それぞれ。仲良くならないと、情報もとれないし、夜討ち朝駆けもできない。

 一番手っ取り早いのが、飲み仲間になること。新聞に入って真っ先に教えられるのが、「警官と役人にいくら飲ませ食わせしても罪にはならない」ということだった。だから、警視庁担当になったりすると、取材費では足らないから、借金が増えるなんて話はよく聞いた。

 わたしは酒がダメだから、その手は使えなかったが、ひょんなことから気に入られて、特ダネにつながることもないではなかった。こうした警察取材が、その後の記者活動の基本になるのである。どこへいっても、情報の大半は人間関係からしか出てこないものだからだ。

 ところが、最近の事件報道をみていると、その基本のところが壊れちゃったな、思える事例が後を絶たない。決して愛知だけのことではないのである。

 広島で女の子が外国人に殺害された事件のとき、犯人が逮捕された日の朝刊に、どうでもいい捜査経過の記事が載っていて、唖然としたものだった。

 つまり、間もなく逮捕という状況が全くとれていない、信頼関係ができていないんだな、ということであった。それだけ警察内部の情報管理が整ったのだといえなくもない。

 しかし、それならそれで、手の打ちようはあるはず。向こうがそうなら、各メディアが結束して、情報をきちんと出すよう正面玄関から申し入れるようでないとおかしい。むろん、警察庁も突っつく必要がある。総力戦なのだ。

 今回の情報の出方をみていると、そうしたイロハすら、もはや機能していないのかなと思ってしまう。「やり方がまずいんじゃないの?」と苦言もいえないとしたら、問題は警察よりも報道側にある。

 事件での警察情報なんてシンプルなものだ。その警察官の口もこじ開けることができずに、中央官庁の役人や政治家、財界の海千山千の口を開かせることなんかできるわけがない。

 それでなくても、ネットで簡単に情報がとれるようになって、若い記者たちが机に座っている時間が長くなったとよく聞く。人と会う労を惜しんでいては、ウソを見抜くこともできなくなるだろう。最近は紙面の作りも変わって、かっこいい調査報道や解説記事が幅を利かせている。

 しかし、泥臭い事件取材をおろそかにしたら、必ずつけはまわってくる。ストレートに情報をとる能力が衰えれば、いずれどこかできびしいしっぺ返しを食らうだろう。近年よくある誤報や盗用が、将来の姿を映しているような気がしてならない。

2009年4月30日木曜日

ヨーギシャのDNA


 SMAPの草彅剛が、酔っぱらって裸で騒いだというので逮捕された。逮捕だけでも驚きなのに家宅捜索までやったと。それも「公然わいせつ」容疑だという。

 石原都知事が、「裸で騒いだらわいせつなの?」といっていたが、これが普通の感覚だろう。午前3時に人気のない公園である。「薬物使用を疑って」というのがあったにせよ、どうみてもやり過ぎだ。

 ドラマやバラエティー、CMにも出まくっている人気者だから、「逮捕」か「お説教」かの違いは大きい。活動自粛、放送中止などで損害は何億という金額になるのだろう。「なんで逮捕なの‥‥」と嘆き節が聞こえてくるようだ。気の毒としかいいようがない。

 逮捕で変わったことがもうひとつあった。あのさわやかで好感のもてる「草彅くん」は、一夜にして「草彅容疑者」になったのである。ニュースはもちろん、ワイドショーでもなんでも、「草彅」と出ればかならず「容疑者」「容疑者」‥‥活字はまあ仕方がないとしても、耳で聞く「ヨーギシャ」が耳障りでしょうがない。

 「草彅サンでいいだろうに」とあるところでいったら、思わぬ反応が返ってきた。「犯罪者なのに、有名人だから特別扱いするのか」というのである。いやそうじゃない。「あれが犯罪かよ」というのはひとまず置くとして、ことは「容疑者」という呼称そのものについてなのだ。

 お年の方は覚えているだろうが、昔は逮捕されたとたんに、新聞でもなんでもすべて呼び捨てになった。おそらく明治の昔からそうだったのだと思う。お上が逮捕したんだから、悪いやつにきまってる、このやろう、というニュアンスである。

 長年何の疑いもなくそうして記事を書いてきて、あるとき「エッ?」ということにぶつかる。ロッキード事件である。次々に逮捕される丸紅の役員たちを、「伊藤」「大久保」「桧山」と呼び捨てにしてきたあとで、とうとう田中角栄が逮捕された。

 いざ記事に書こうとして筆が止まった。いやしくも元首相である。「おい、田中と呼び捨てでいいのかよ」。政治部、経済部、社会部‥‥みんな一瞬立ち往生した。で、結局「元首相」とつけることで落ち着いた。これが、呼び捨てに疑問を抱いた初めだった。

 このときは新聞、テレビどこも同じような対応だった。しかし、その後も呼び捨ては続いた。人権への配慮から、呼び捨てを何とかしなくては、となったのはずいぶん後の話である。

 おそらく新聞協会あたりで論議があったのだろう。細かいいきさつは知らない。が、いつの間にか「容疑者」という言い方が定着していた。逮捕されたら容疑者、起訴されたら被告、無罪あるいは執行猶予なら「○○さん」、服役したら服役囚(あるいは死刑囚)、刑期を終えたら「○○さん」に戻る。

 まったくごくろうさまなことだ。ロス疑惑事件の三浦和義氏(故人)などは、銃撃事件では二審で無罪になったが、その後別の殴打事件で有罪になって服役しているから、ずいぶんとややこしい使い分けが必要だったことだろう。

 そもそもは、呼び捨てである。「太てぇ野郎だ」と敬称をはずしたところから始まっているから、普通に「○○さん」と呼ぶことがなかなかできない。知恵を絞った末にたどり着いた「容疑者」も警察・裁判用語だ。とても敬称とはいえないし、人権に配慮した結果とはいいながら、「太てぇ野郎」をたっぷり引きずっているのである。

 だから、ニュースが「容疑者」「容疑者」といい始めたときは驚いた。とても日本語とはいえない使い方である。語呂も悪いし何よりも耳障りだ。つまらん区別をするくらいなら、いっそ「○○さん」で通した方がすっきりするではないかと、この考えは今も変わらない。

 欧米のメデイアはそうした区別をしない。かのO・J・シンプソンの事件、妻を殺害した容疑で裁かれている間もその後(刑事では無罪、民事では有罪)も、ずっと「ミスター・シンプソン」である。人権なんか持ち出す必要もない。

 「容疑者」はもう20年にはなるだろう。これだけ長いこと使われ続けると、とくに若い人には全く違和感がないらしい。だから草彅くんの一件でも、「逮捕されたんだから、当然だ」ということになる。微罪だろうと重罪だろうとおかまいなし。いわくを知る、知らないにかかわらず、「太てぇ野郎」のDNAはしっかりと受け継がれているのである。

 しかし、同じテレビ局できのうまで「草彅さん」と一緒に仕事をしていたアナウンサーが、「容疑者」「容疑者」と呼んでいるのは、もうマンガだ。

 あるトーク番組で女子アナが、「草彅さん」といってから「いまは容疑者ですが」といったのには笑った。「ニュースじゃないんだから、草彅さんでいいじゃないか」

 とはいえ、かくいう私も「麻原彰晃さんと呼べるか」と聞かれたら、ぐっと詰まってしまう。裁判中だろうとなんだろうと敬称を付ける気には、とてもなれない。「太てぇ野郎」は健在なのだ。「氏ならまだ我慢できるか?」

 あらためて思ってしまう。つくづく日本語とは微妙な言葉だなと。