2009年7月30日木曜日

事件報道はいらない?


 裁判員制度が始まる。これを前に、このところ妙な論が横行している。裁判員に予断を与えないために、報道は抑えるべきだ、というのだ。事件報道なんかいらないとでもいうのだろうか。

 メディアを語る人は多い。メディアそのものが多様化し価値観もばらける中で、人権問題や誤報、ねつ造など、メディア論のテーマは多い。大学で講座を持っている人たちの大部分は、新聞や放送の現場にいた人たちである。

 驚いたことに、冒頭の論はこういうところから出ている。またその論文が新聞に堂々と載っているのだ。書く方も書く方なら載せる方載せる方だ。「事件報道を何だと思ってるんだ。お前ら、本当にジャーナリストか」といいたくなる。

 裁判員がつくのは、殺人や強盗、放火、誘拐、危険運転致死など重大な刑事事件である。発生のときから、大きく報道されるものだ。事件が起こっ た。状況はこれこれ。まだ犯人はわからない。しかし、とにかく事実を伝える。捜査に役立つ情報が得られるかもしれない。事件報道の役割の第一だ。
 
 これが通り魔や愉快犯だと、連続する可能性もある。警告を発しなければならない。最近は防犯カメラという便利なものもある。疑わしいものが写っていれば、とくにテレビはどんどん流したほうがいい。これで大阪の通り魔が捕まった例もある。

 ま、実態は警察がまだもたもたしている例の方が多いのだが、これについては、また別に話そう。それよりも、事件がどう展開するかもわからないときに、いつ捕まるかもわからない犯人の、しかも裁判のことを考えて報道内容を規制しろというのだから、あきれる。

 そしていよいよ犯人が捕まった。さあそいつは何者で、いったいどういういわく因縁があるのか。少なくともここまでは伝えないと報道は完結しない。その過程で、犯人の置かれた環境や生い立ちにまで取材が及ぶのは避けられない。ここでいろいろ問題が起こるのも確かである。

 いわゆるニュース報道からテレビのワイド、週刊誌、スポーツ紙、ネットまで多様なメディアがあって、なかには怪しい話を載せるものもある。しかし、それぞれが立派に成り立っている以上、ニーズがあるということである。その数はどれほどになるか。何千万は間違いない。

 対して裁判員はたったの6人である。6人に予断を与えてはいけないから、何千万人は、詳細は知らなくてもいい、裁判まで待っておれというのか。 まあ、驚くべき発想である。むしろ、あふれ返る情報の中から、裁判員の先入観を取り除く方策を考えるのが筋だろう。その方がはるかに簡単で、現実的だ。

 司法当局者の中には、「自白」や「証拠」「生い立ち」などは報道すべきではないという人はいる。彼らは裁判しか頭にないのだから、まあ、ご意見 としては承ろう。しかし、メディアに関係する側からとなると、考え込んでしまう。前記の要件を欠いた気の抜けた記事なんて、記事と呼べるか。だれがそんな もの金を払ってまで読むか。

 なにか勘違いしているのではないか。一般人は、ありとあらゆる雑音のなかで生きていて、価値観も経歴も様々。裁判員制度は、そうした広い目が必 要だと導入されたのではなかったのか。もし、雑音を全部シャットアウトした白紙のような裁判員が必要というのなら(そんな人間はいない)、制度の趣旨から はずれてしまうだろう。

 事件報道はまた、記者教育の基本中の基本である。事実を追い求めるあらゆる取材の仕方が、そこにある。そしてくわえこんで来たネタは吐き出す。つまり紙面に載る、放送される。だからまた、次の取材に走る。そうして記者は育っていくものだ。

 そこでもし、事実を削って出すようになったら、何が起こるか。いささか図式的にいうと、まず記事そのものがつまらないものになる。当然、取材意 欲にかかわる。取材をケチる(手を抜く)ようにもなるだろう。モラルも低下する。基本がおろそかになれば、ついにはジャーナリズムそのものが危うくなるだ ろう。

 その前に間違いなく、人々は報道を信用しなくなる。「事実の一部しか出さないメディア」なぞ、だれも信じまい。それでなくてもいま、ネットの世界では、報道管制が行われているのでは?という根深い疑いが渦を巻いている。

 メディアは多様化していて、そのすべてを規制はできない。むしろ、いかがわしい情報ほど防ぐのはむずかしいものだ。そこでもし、事実にこだわっているメディアだけが抑えにまわったら、結果としてまったく別の現実に直面することになるのは、目に見えている。

 しつこく書くのには理由がある。最近の事件報道で、展開が見えない、辻褄が合わない、騒ぎのあとぱったり沈黙、という事例が目立つ。主として警察が情報を止めてしまうことによる。もう裁判員対策は始まっているとみていいだろう。

 報道はこれを突き崩さないといけない。できないこと自体が、ジャーナリズムの劣化だ。「メディアは何をしているんだ」といわれてからでは、もう遅いのである。

2009年7月19日日曜日

始まった? メディアジャック


 自民党のしっちゃかめっちゃか。解散予告と造反なしの不信任案否決で、「麻生降ろし」は収まったかと思われたのが、両院議員総会の開催要求に閣僚までが署名するにいたって、何が何だかわからなくなった。

 こうなるとメディアは弱い。とにもかくにも動きを追わないといけないから、新聞は一面、政治面、社会面にどかんどかんと載るし、テレビはニュースからワイドまで、自民党、自民党である。あっという間にメディアジャック状態になってしまう。

 みのもんたがやっているTBSの「朝ズバッ!」に、「8時またぎ」というコーナーがある。午前8時をまたいで約50分、でっかいボードに4、5 項目のホットニュースを並べて、ゲストやコメンテーターがああだこうだと論ずるのだが、16日のボードは全面「自民党」だった。これはさすがに珍しい。

 とくに後半の30分は、森・元首相がナマで出演して、それはそれで面白い見物ではあった。この森さんというのは口は滑らかなのだが、ときどき口を滑べらせるので、政治部記者も目が離せない。この日も、ウラの動きをいくつかもらして、記事にした新聞もあった。

 実は「朝ズバッ!」は、前日も武部・元幹事長が出て、これもたっぷり30分、「麻生さんには徳がない」などといいたい放題。17日も石破・農水 相だったから、もう3日連続で「乗っ取られた」ようなもの。事態はまだまだ動いているから、週末をはさんでなにが起こるかわからない。

 これで見事、民主党は脇役にされてしまった。思わず「またかよ」といいたくなってしまう。4年前の悪夢である。小泉マジックで、郵政民営化か反 民営化かという思いもよらない対立軸の設定と刺客騒動に振り回されて、あの選挙では民主党はメディアの上ではどこかへ消えてしまったのだった。

 結果が小泉チルドレンの誕生であり、3分の2の再議決路線になった。たしか、過熱報道への反省もいわれ、「メディアジャック」という言葉も出ていた。とりわけ面白がって刺客を追ったテレビには、終わって苦い思いがあったはずである。

 にもかかわらず、今回もまた動き出すと止まらない。何も変わっていないかのようだ。4年前とは状況も違うし、カリスマもいない。また有権者もか なり覚めた目で見てはいるようだが、大騒ぎのまま選挙に突入でもしようものなら、またまたメディアは、自民の党内対立に振り回されかねない。

 その効果(支持率アップ)はおそらく、総裁選やまじめなマニフェストづくりなんかよりはるかに大きい。もし意図的に騒動を作り出せたら、相当な 高等戦術だ。議員総会ではなく懇談会になったとき、小泉元首相は「ボクなら(議員総会に)出る。国民に訴えるいいチャンスだ」といったそうだが、やっぱり 彼はわかっている。

 そこで、正義の味方と思われた方が(思わせるだけでいい)勝つ。議員総会に出るのは署名した議員だけではない。署名議員だって多くは麻生体制維 持派なのだから、執行部はそこで堂々と「総裁選前倒し」を否定すればいい話だ。その自信がない、と思われるマイナスの方がはるかに大きいだろう。

 何にしてもメディアというものは、騒ぎがおこれば動く。現に目の前で騒いでいるのだから無視はできないし、また動かないといけない。宿命みたいなものだ。だからこそ、一段高いところから全体像をにらんでいる人間がいないと危ない。

 それでなくても他人の喧嘩は面白いものだ。あの刺客騒動なんか、その最たるものだった。今回の騒動だって、テレビのニュース・ランキングでは、 よほどのことがないかぎりトップにいくだろう。だが、それが生み出す結果を絶えず念頭におくこと。自分たちが考える以上に、メディアの影響力は大きいのだ から。

 今度の選挙には、政権交代がかかる。自民か民主か、指導者と国の形の選択を、有権者が一票で実感できる、事実上初の機会である。アンケート調査でも、「一度変えてみよう」「民主がだめならまた戻せばいい」という声が、はっきりと聞ける。こんなことは初めてだ。

 一方で相変わらず「政権担当能力が‥‥」という人がいる。長年自民にやらせてきて、こんな日本になってしまったーーそれを「担当能力」というなら、そんなものいらない。別の発想が必要だ‥‥いま問われているのは、これだろう。

 だから、だれもが見たい聞きたいのは、その先だ。次元の低い騒動なんかじゃないのだが、メディアは否応なく動く。ジレンマもまた、続くのである。

2009年7月15日水曜日

八兵衛は生きている


 警視庁の伝説の刑事(デカ)、平塚八兵衛を描いたテレビドラマを観た。吉展ちゃん誘拐殺人事件の容疑者、小原保を落とす場面がでてくる。怒鳴る、小突く、襟首を締め上げる、そして一転おだててみたり‥‥テレビだから、まだ抑えて作ってあるはずだ。

 駆け出しのころに見た地方の警察の大部屋なんか、あっちでビシバシ、こっちでボカスカ、いや凄まじいもんだった。やってるのに「やってない」と言い張るワルを、自供に追い込むための荒っぽいワザである。

 このやり方が無実の人間に向けられたときが、えん罪の温床だ。どのえん罪でも、被疑者は必ず自供している。そしてあとになって否定する。 「足利事件」で無期懲役になり、DNA鑑定で「人違い」とわかって釈放された菅谷利和さん(62)も、このパターンだった。

 4歳の女児殺害で、DNA鑑定が主たる証拠とされて話題になった事件だ。逮捕・勾留から17年半。有罪の決め手もDNA鑑定なら、裁判の間も、後の再審請求を退けたのも、DNA鑑定だった。間違いのもとは、鑑定の精度にあるんだと。

 が、それは違う。本当の決め手は自供なのである。DNA鑑定の精度について、当時の新聞は「百万人に1人を特定できる」などと書いてはいるが、それは警察の希望的観測。精度についての疑問はいぜんとしてあった。

 ところが、その疑問の芽を摘んでしまったのが、菅谷さん自身の自供だった。警察が自供を引き出したというので、DNA鑑定は逆に信頼性を高め、以後、新聞はDNAそのものを疑うことをやめてしまったのである。

 その時点での精度は、足利市だけでも同じDNAをもつ者は数十人はいたというレベルだった。それが今の技術は、地球上の一人ひとりを特定できる。菅谷さんが死刑でなかったのは、幸運だった。死刑で執行されてしまえばそれっきりだ。

 にしても、やってもいないことをどうして自供するのか。えん罪事件で常にぶつかる疑問である。釈放後、菅谷さんは会見で、「刑事にこずかれて、もういいやと思った」という。「私は気が弱いんです」とも。これも典型だ。

 えん罪事件の被害者はみな、気が弱かったり、裁判の知識がなかったり、知的に遅れがあったり‥‥警察官、検察官の厳しい追及と「早く吐いて楽になれ」「やったといえばそれですむんだぞ」の言葉に抗しきれなかった人ばかりである。むろん、それですむはずはない。

 痴漢事件でも、これが多いらしい。それでなくても痴漢は、たった1人の闘いになる。世間も会社も家族ですら、まずは警察のいうことを信じざるをえない。長時間の拘束、連絡もさせない、職を失う恐怖と絶望‥‥そこへ「やったとひと言いえばすむんだよ」

 ごくごく普通の市民にも、密室での調べのワザは同じである。だが、「もういいや」とひと言いったら一巻の終わり。ひっくり返すのはまず不可能である。

 これで、がんとして認めなかったらどうなるか。先に最高裁で上告が棄却され、有罪が確定する外務省の佐藤優・元主任分析官(49)のケースがこれに当たる。

 罪名は偽計業務妨害とわけがわからない。要は、鈴木宗男衆院議員(別件で上告中)とのからみで逮捕され、「検察の国策捜査だ」と話題になった事 件だ。彼は検察のいう容疑を絶対に認めなかった。その結果、512日間もこう留されたのである。これはさすがに極端な例だが、普通の人間が、これに耐える のは無理だろう。

 かつて三鷹事件、松川事件など、思想的な背景のあるえん罪が多発したことがある。ほとんどは、裁判で無罪になっているが、それに至る時間だけはどうにもならない。取り返しがつかないものである。

 菅谷さんは釈放直後、「当時の刑事、検察官は絶対許しません。17年間、ずっと思ってきた」といった。だが、そのおおもとは自らの自供だ。たとえインチキでも、いったん調書になった自供は、17年かかっても覆すことはできなかったのである。

 菅谷さんの件を機に、あらためて取り調べの可視化の必要がいわれている。裁判員制度の方でも、求めがある。が、警察は常に否定的だ。本音をいえば「落としのテクニック」が通用しなくなるからだ。えん罪の温床はいぜん健在なのである。

 これを防ぐ手だては? 残念ながらないだろう。近年警察が情報をいっそう囲い込むようになっているから、なおさらだ。まあ、DNAなんてものがあるから、警察も以前のように、闇雲に犯人を仕立て上げることもできないだろうが‥‥。

 むしろ気になるのは、取材する側の勢いである。八兵衛も真剣だったが、取材する側も真剣だった。両者はいつもピリピリしていたが、自ずと信頼関係もあった。いまこれが怪しくなっている。テレビを見ながら、妙にお行儀よくおとなしいいまの記者たちの姿が浮かんだ。

2009年7月1日水曜日

くたばれ携帯認証


 友人をmixiに招待したが、携帯がないとだめだといわれたと連絡があった。「なにいってんだ。携帯は関係ないだろう。もってないマイミクもいるぞ」といったのだが、本当だった。

 どうなってんだ。こちらが入会したときだって、携帯電話は関係なかったはず。老人は携帯を持っていないへそ曲がりも少なくない。だいいち、持 つ、持たないは、個人の自由だ。mixiと関係ないだろう。古い友人とやっとつながる手だてができたというのに、どうにも腑に落ちない。そこでmixiに 聞いてみた。

 いつからそうなったのか? また、それはなぜか? 答えは驚くべきものだった。

 PCでの登録には、mixiモバイル対応機種の携帯電話からの認証操作が必要。そのため、携帯電話がない、あるいは対応機種外の携帯電話では、 mixi に登録はできかねる、というのだ。「誠に恐れ入りますが」といいながら、「もう決まっていることだから」とにべもない。

 要するに「安全性強化に対する取組み」で、「現状、携帯認証に代わる登録方法はございません」と。「ご期待に添えず心苦しく存じますが、ご理解、ご協力の程、よろしく」といわれても、素直にウンというわけにはいかない。そこで再度問い合わせた。

 なぜ携帯なのか。「安全性強化の取り組み」とは、具体的にどういうことか。それが善良な入会希望者を閉め出す結果になっていることを、どう考えるのか。認証というが、道を歩くのに、「運転免許証を見せろ」というようなものではないか。

 とくに、携帯認証に、運営事務局の内部から異論が出なかったのか。もし出なかったとすれば、驚くべき無神経。まるでSFの世界ではないか。こんなことを考えた人間の顔が見たい、とまで書いてやった。

 しかしその答えは、「利用規約違反行為を防止するため」で、「具体的な仕様の詳細などにつきましては回答いたしかねます」と。なによりも「携帯 認証」という、それ自体よくわからない手続きが、規定の事実になってしまっていて、なぜだ?という問いに答えることすらしないのである。

 認証というからには、一種の身分証を求めているということだろう。古くは米穀通帳(若い人は知らないか)、近年は運転免許証がその役をはたして いた。米を食べない人はいないから、米穀通帳は確かな身分証にはなった。免許証だと、運転しない人たちは不自由だったことだろうが、個人の認証の手だて は、ほかにいくらもあるし、だれもそれを拒否することはなかった。

 ところがこのmixiは、いかに閉じられたプライベートなコミュニティーとはいえ、「携帯電話以外はダメ」というのだから、なにやら空恐ろしい。

 携帯電話の普及は飽和状態に近いらしい。わが家は4人家族だが、たしかに4人とももっているし、街でも電車でも、携帯があふれている。まして ネットの画面上での手続きだから、mixiが免許証がわりにと考えるのも、わからないではない。mixi以外でも行われているのかもしれない。

 しかし、「それ以外はダメ」というのは、話が違うだろう。一方で、「マイミク・キャンペーン」なんてものをやっていながら、漏れた人間はいなくてもいいというのだから、これはもうニュースといっていい。世の中そこまでいってしまったのかと。

 そもそも「認証」とはなにか。メンバーの紹介でできているマイミクに、さらに「認証」を求めるというのは、「紹介制」がすでに破綻していて、いかがわしい「マイミクのお誘い」が横行しているということなのであろう。

 しかし、よからぬことをする輩は、どんなことをしてでも入ってくるものだ。一方で、ケータイの世界も大いにいかがわしい面をはらんでいる。いかがわしさを掛け合わせて「認証」とすましているのは、つまるところ、問題が起こったときのアリバイにすぎまい。

 結果的に切り捨てられるのは、多く老人になろう。現役を退いて静かに余生を送っている人には、「もう携帯とは縁を切りたい」というのも少なくな い。また実用上も、家には電話があり、出先では公衆電話もある。マイミクにも1人いる(携帯認証以前に入会)が、今回の友人もその口であった。

 それがたとえ100人に1人だろうと、別の道を開けておくのが筋だろうに、閉め出して平然としているmixiの神経には恐れ入る。mixiの回 答は最後に、「可能な限りご期待に添えるよう、今後の参考とさせていただきたく存じます」と空々しく書いていた。くそいまいましい。これとて、マニュアル の文章のコピペだろう。

 あらためてmixiを見ていると、お仕着せの環境のなかでお仕着せの平和を楽しむ無数の「従順な羊」の群れを見るようで、ぞっとする。彼らに は、なんでぞっとするかもわからないのだろう。こういう連中にどこかで一泡吹かせてやれないものか。へそ曲がり老人はこの数日、そればかり考えている。