2009年5月19日火曜日

情報はタダであるべし


 朝日新聞が「kotobank.jp」というサービスを始めた。無料の用語解説サイトで、日本人名大辞典(講談社)、大辞泉(小学館)、知恵蔵(朝日新聞出版)など44のデジタル辞書から約43万語を網羅。用語に関する朝日新聞の記事も掲載されているという。

 「朝日もようやく気がついたか」と思った。情報とは本来タダという「世界の常識」に、いちばんかたくなに距離を置いているように見えるのが朝日だったからだ。

 ちょうど調べものをしていたので、「昭電疑獄」を試してみた。昭和23年、芦田内閣を退陣に追い込んだ大規模な贈収賄事件である。ところが、や はり辞書がベースだから記述がおそろしく短い。事件のあらまし、時代的な意味までを知ろうと思うと、結局はリンクでgoogleやyahooの検索を頼る ことになる。

 期待した朝日の新聞記事というのも、最近の紙面にある「キーワード」がせいぜいで、記事の本文には至らない。「朝日の記事も」というのは、ウソではないが、無料公開とはほど遠い。まだ「気がついていない」ことを再確認したのだった。

 googleなどの検索で、朝日の古い記事がナマで出てくることはない。有料のカベに阻まれているからだ。「無料で読める」が原則のネットの世界では、朝日新聞も膨大な情報も、存在しないのと同じなのである。

 他紙も概ね似たようなものだ。毎日新聞の社説やコラムは、しばらく前まではむこう1年くらいは検索ができたが、いまは1ヶ月になった。他紙はさ らに短かく読売が2週間、朝日と東京は1週間だ。産経だけが前年の1月1日からで、ニュースも1年前まで読める。しかし、それより古くなると、みなアーカ イブにはいってしまって、有料の彼方になる。

 厳密に調べたわけではないが、最新のニュースでも、googleやyahooの検索でひっかかるのは、毎日がいちばん多く、次いで読売、産経。 朝日はどうやらリンクを拒否しているらしい。だから、朝日がこの“劣勢”をはね返すには、完全無料化しかない。「kotobank」がそれか、と早合点し たのは、そういう事情からだった。

 日本の新聞のデジタル編集は1980年の朝日が最初だった。印刷から活字がなくなったのも大革命だったが、記事データがデジタルで残るようになったのは、もっと大きかった。

 何年もしないうちに、専用の端末を使って記事検索が可能になる。記事を分類してキーワードをつける作業は大仕事だが、まだパソコンもインターネットもない時代に、大いに先見の明があった。

 これを一般も利用できるようになるのはさらに10年後、パソコンが普及してからである。が、最初から有料だった。念頭にあったのは図書館や企業で、個人の利用はほとんど考えていなかった。

 だが、通信事情はその後、劇的に変わる。いまや携帯電話で情報をとるのは当たり前。ネット検索がこれほどのビジネスになると、誰が予想したろう。新聞も、本来自らを脅かすはずのネット新聞に踏み出すのである。

 この変化はまた、情報の意味をも変えた。ネットにある膨大な情報は、まさに玉石混淆。どれが信頼できるかの判断は受け手にゆだねられた。そうし た中で、メディアの情報は信頼度が高い(あくまで比較だが)。間違っていれば文句もいえる。ところが、これが金を払わないと出てこない。

 朝日新聞の場合、登録をして検索結果の一覧までは無料だが、記事を読む代金は一件84円だ。しかし、見出しだけの一覧で、それが本当に必要とする記事かどうかを見分けるのは、なかなか難しい。実際には、空振りを何本か読まされるのが普通だろう。

 「それならタダのソースがいくらでもあるじゃないか」となるのは当たり前だ。ネットの玉石混淆からでも、読む側に目があれば、ほどほどの結果はえられる。

 アメリカは違う。ニューヨーク・タイムズのニュースサービスは、メールアドレスを登録すれば、毎日トップニュースのリストがメールで届き、それをもとにHPに入り込むと、すべての記事が読めて、ダウンロードもできる。

 しかも、どこまでたどってもOKで、19世紀の記事でもちゃんと読めるし、そこからリンクをたどって当時のほかの新聞までが出てきて驚いたことがある。むろんすべて無料だ。情報とは、そういうものだと思う。

 そもそも新聞社のアーカイブは、日々の新聞づくりに不可欠なものだ。昔は他紙の紙面までをも切り抜いていたから、その手間は大変なものだった。それがデジタルだと、自社記事だけにはなるが、人手をかけずに自動的にアーカイブに入る。

 検索用に分類したり、キーワードをつけたりするのも、もともと自社用にしなければならない仕事だ。それで、もう一度金をとろうというのはちといじましくはないか。

 意地の悪いいいかたをすれば、ちょうど銀行がATMの手数料をずっととり続けているのと変わらない。ネット検索で「存在しない」状態におくのとどっちがいいか、考えなくてもわかりそうなものだ。

 それでなくても時代はいま、さらなる情報無料化へ動いている。google は書籍までも全文公開するというので、騒ぎになっている。しかし、google を拒否することは、ネットの世界では「存在しない」状態に陥ること。それがいいのか悪いのか。出版社もいま、拒否しきれずにいる。

 もし、ネットの検索で朝日の記事がそこら中で出てくるとなれば、朝日の位置が変わる。直接の検索も増えるだろう。アーカイブがみんなの図書館になる。タダでなければ決してそうはならない。ハッカーに攻撃される危険はあるが、それはまた別の問題である。

 いつもは無縁でも、ときに歴史的大事件の確認とか、印象に残る解説・連載、加藤周一の「夕陽妄語」や大岡信の「折々のうた」をふと読み返してみたいなと思ったときにこそ、アーカイブは値打ちなのである。1件84円払ってまで、だれが読もうとするか。

 アルファベットと違って、日本の新聞は、デジタル化以前の記事をどうするかが実は大問題だった。しかしこれも、縮刷版をpdfで読み込むことで解決してしまったのである。朝日はこれをCDで売ったり、学校に寄贈したりしているが、何とも中途半端なことである。

 いまや小学生がじゃんじゃんネット検索する時代なのだ。新聞のアーカイブが国民の図書館になる条件が、とうにできているというのに、作った方が意味をわかっていないとは。まあ、よくある話とはいえ、惜しい。

 では、どこが最初に門戸を開くか。とにかく最初にやったものが勝つ。頭の柔らかさでいうと毎日か、身軽という点では産経か。いざその日になってあわてふためくのは朝日? そうならなければいいのだが。

2009年5月14日木曜日

どんな取材をしてるんだ?

 どうも事件報道がおかしい。連休のはじめに、名古屋近郊で母子3人が死傷する事件があった。いまだに物取りか怨恨かすらわからない奇妙な事件だが、それ以上に奇妙なのが警察と報道である。こんなぐうたら捜査と気のない報道は見たことがない。

 少し長くなるが、事件のあらましはこうだ。5月1日の夜、夕食をすませたあとにまず母親(57)がスパナで殴り殺された。次に帰宅した次男 (26)が包丁で刺され死亡。日付が変わって2日午前2時過ぎに帰宅した三男(25)が、ナイフで首の辺りを刺され、粘着テープで縛り上げられた。

 次男が出勤しないのを不審に思った勤め先の上司が、午後零時過ぎになって、警察官を伴ってこの家を訪れた。中から縛られたままの三男が飛び出してきて警官に「中に2人殺されている。犯人は逃げた」と告げた。警官が中をのぞくと、黒っぽい服装の男がうずくまっていた。

 警官は家族だと思い、「大丈夫か」と声をかけたが、本署から無線連絡が入ったので外で交信。2分後に戻ったときには、男はいなかった。中へ入って、次男の遺体を発見、大騒ぎになった。

 ここから話は、いっそう奇妙になる。警察は近辺で緊急配備を敷いたが、「若い男」「黒っぽい服装」という情報を、「不確実だ」と捜査員に伝えなかった。

 家の中の血痕はきれいにふきとられていて、浴槽と洗濯機の中に血の付いたタオルなどが入っていた。凶器とみられるスパナ、柄が折れた包丁、ナイフがみつかった。

 しかし、母親の姿がみつからないまま、その日の捜査を終わっている。その母親の遺体を押し入れの中でみつけたのが、なんと翌3日である。押し入れには、飼い猫の死体もあった。

 あらためて調べると、犯人は母親を殺害してから、推定で14時間以上もこの家にとどまって、室内の血痕を入念に拭き取ったり、財布から現金を抜き取っていた。食事をした形跡もあるとか、三男とは言葉のやり取りもしていた、などが明らかになった。とにかく奇妙だ。

 ただ、こうして話がつながるのは、実はこれまでの報道のつなぎ合わせ。遺体がみつかったまではすぐに発表したものの、細かい現場の状況について、警察はどうやらまともな発表をしていないらしい。

 警官が犯人を見ていたとわかったのは、発生から6日も経った8日。それも新聞・テレビ一斉にではない。9日になって「捜査幹部が明らかにした」などと書いているところもあるくらいだから、警察全体が初動のドジにすくみあがって、貝になってしまったらしい。

 こうした情報はどれも、発生から1日も経てばすべてわかっていたことばかり。それを一週間も経ってから、「血が付いた小刀、三男を襲った凶器か」とか「三男は衣類を被せられ粘着テープでぐるぐる巻き」などと報じているのだから、間が抜けているなんてもんじゃない。

 いったいどんな取材してるんだ、といいたくなってしまう。つまり報道と警察の関係はどうなっているんだと。
 
 警察は隠すのが仕事。いまいま始まったことじゃない。その固い口をこじ開けるのが報道の仕事だ。カギは人間関係である。どうやるのかは、人それぞれ。仲良くならないと、情報もとれないし、夜討ち朝駆けもできない。

 一番手っ取り早いのが、飲み仲間になること。新聞に入って真っ先に教えられるのが、「警官と役人にいくら飲ませ食わせしても罪にはならない」ということだった。だから、警視庁担当になったりすると、取材費では足らないから、借金が増えるなんて話はよく聞いた。

 わたしは酒がダメだから、その手は使えなかったが、ひょんなことから気に入られて、特ダネにつながることもないではなかった。こうした警察取材が、その後の記者活動の基本になるのである。どこへいっても、情報の大半は人間関係からしか出てこないものだからだ。

 ところが、最近の事件報道をみていると、その基本のところが壊れちゃったな、思える事例が後を絶たない。決して愛知だけのことではないのである。

 広島で女の子が外国人に殺害された事件のとき、犯人が逮捕された日の朝刊に、どうでもいい捜査経過の記事が載っていて、唖然としたものだった。

 つまり、間もなく逮捕という状況が全くとれていない、信頼関係ができていないんだな、ということであった。それだけ警察内部の情報管理が整ったのだといえなくもない。

 しかし、それならそれで、手の打ちようはあるはず。向こうがそうなら、各メディアが結束して、情報をきちんと出すよう正面玄関から申し入れるようでないとおかしい。むろん、警察庁も突っつく必要がある。総力戦なのだ。

 今回の情報の出方をみていると、そうしたイロハすら、もはや機能していないのかなと思ってしまう。「やり方がまずいんじゃないの?」と苦言もいえないとしたら、問題は警察よりも報道側にある。

 事件での警察情報なんてシンプルなものだ。その警察官の口もこじ開けることができずに、中央官庁の役人や政治家、財界の海千山千の口を開かせることなんかできるわけがない。

 それでなくても、ネットで簡単に情報がとれるようになって、若い記者たちが机に座っている時間が長くなったとよく聞く。人と会う労を惜しんでいては、ウソを見抜くこともできなくなるだろう。最近は紙面の作りも変わって、かっこいい調査報道や解説記事が幅を利かせている。

 しかし、泥臭い事件取材をおろそかにしたら、必ずつけはまわってくる。ストレートに情報をとる能力が衰えれば、いずれどこかできびしいしっぺ返しを食らうだろう。近年よくある誤報や盗用が、将来の姿を映しているような気がしてならない。