2010年11月28日日曜日

尖閣ビデオで思い出した



 尖閣ビデオを流出させた海上保安官が、YouTubeの前に、映像をSDカードでCNN東京支局へ送っていたことがわかった。CNNが放送してくれると期待したものの、なしのつぶてだったために、ネットへ流したのだという。

 封書には差出人も内容についても記載がなく、CNNは得体の知れないカードに、ウイルス感染を恐れて、そのまま廃棄したといっている。もしひと言「尖閣の映像」と書くか、あるいはDVDだったらどうだったか。話は全く違う展開になったことだろう。CNNは大特ダネになり、犯人も永久にわからなかったに違いない。

 CNNも、もし本当にそうしたのだったら、これはメディアとしてはずいぶんと迂闊なことである。情報提供はどんな形でくるかわからない。身分を明かさないもの、得体の知れないものにこそ、なにかが隠されているという可能性は高いものだ。なんであれ貪欲に食いつくのがメディアというものである。

 確かにウイルスの恐れはあるだろうが、専門家に確認させる手はあるし、あるいは独立したパソコン1台のデータを、とりあえず潰すつもりになれば済むことである。

 おそらくCNNは、そうした経験が足らなかったのだろう。いかがわしい情報提供に慣れていなかったのかもしれない。もしこれをつかまえていたら、CNNは久しぶりに世界規模の特ダネになり、東京支局は大手柄で、記者の今後も変わったかもしれない。いまごろ大いにほぞを噛んでいることだろう。

 これで古い話を思い出した。ロッキード事件のとき、社会部にかかってきた1本の電話である。それが「シグ片山」が何者かを教えてくれたのだった。みなさん、覚えているだろうか。

 あの事件の発端は米議会の証言だったが、そこで出てきた「I received 100 peanuts」という訳のわからない領収書が、ロッキード社から日本政府関係者へ金が渡った証拠だとされていた。領収書には妙なサインがあったが、判読不能だった。「だれだこれは? ピーナッツとは何だ?」

 まさに偶然だが、東京駅前の印鑑店が、そのサインのゴム印を作ったことがわかった。頼んだのは、「シグ片山」という人物だという。会社もわかっていたから探したのだが、不在。しかし名前は紙面に載った。電話は、それを見てかかってきたのだった。

 電話の主は、シグ片山がどういう人物で、何をしているかを語ってくれた。が、名前はいわない。そこで、「Aさんということにしましょう。私は○○です。また、電話をください」と話をつないだ。

 翌日から決まった時間に「Aさん」から名指しで電話がくるようになって、シグ片山はいまアメリカにいる、連絡先はこれこれ‥‥などと克明に教えてくれる。裏をとってみると、情報は正確だった。記者が1人アメリカへ飛んだのだが、うまく接触できないというと、接触方法を教えてくれたりもした。

 事件の全容がわかってくると、シグ片山はほんの端役にすぎなかったのだが、一時は疑惑の中心みたいな大騒ぎだった。Aさんのお陰で、わが方は独走。他の新聞はボカンと見ているだけ、という状態が続いた。シグ片山と接触できたあたりで、電話はなくなったが、最後まで何者かはわからず終い。以後も、名乗り出てくることはなかった。

 あの事件では、他にもいくつかそうした話があった。なかにはガセで無為に振り回されたりもしたのだが、ムダな鉄砲はつきもの。なんであれ、メディアの仕事は、タレコミ大歓迎でなければならない。

 その意味で、今回のCNNは、やはりメディアのイロハを踏み外していた。看板を掲げて店を開いている以上、何にでも対応していないと、万にひとつの大ネタがつかまるはずがない。外国特派員協会あたりではどんな話になっているか、聞いてみたいものである。

 当の海上保安官の方は、陸上勤務になったと小さく報じられた。東京地検と警視庁は結局逮捕せず、任意の調べはまだ続いているらしいが、この間に、保安庁内部で相当数が映像を見たりダウンロードしたりしたことがわかった。ようやく映像は国会に提出されたが、もはやニュースではない。

 そもそもが隠すべきものではなかったのである。海保にしてみれば、自分たちの日常活動の記録であって、海の上のことは一般の目にはなかなか触れないから、むしろ見せたいものだ。流出した映像も、本来メディア用に編集したものだったらしい。

 若い頃、神戸海保と5管本部を担当していて、巡視艇にもよく乗せてもらった。船の乗組員たちはみな実直で、こうした政治的な騒ぎからもっとも遠い存在だった。それが、CNNだのYouTubeだのと思わざるをえなかった意味を考える必要がある。

 要するに官邸の判断が間違ったのだ。むろん、組織にたてついたのは確かだから、何らかの処分は必要だろうが、YoiTubeに拍手喝采した世論もある。どういう落としどころになるのかがみものだ。

 人によっては、今回一番傷ついたのは、海保と現場だという。そうかもしれない。私としてはこれに、CNNも加えておきたいところだが‥‥。

2010年11月24日水曜日

権力とハサミは使いよう



 フジの朝のワイド「とくダネ」が、面白いアンケートをやっていた。「いま菅政権にいいたいこと」というのを、日曜日の銀座で100人に聞いたのだと。ただの○×ではなく言葉で書き込むのだから、100人がよくも答えたと思うが、MCの小倉智昭によると、「アッという間に集計できた」そうだ。

 それだけ、関心も高く、いいたいことがいっぱい、というのがよくわかる。スタジオに張り出した様も壮観だった。A4くらいの紙が100枚ずらりである。これをまた、内閣を「支持しない」「支持する」「どちらでもない」に分けたら、53:20:27と圧倒的に不支持だった。

 中野美奈子アナが拾い読みをすると、「不支持」からは、「期待していただけにがっかり」「私たちの一票はどぶに捨てられた」、「支持」からも「しっかりしろ」、「どちらでもない」からは「守れない約束はしないで」と、どれも1年前には「支持」だった人たちの声である。

 何ともストレートな結果で、ただのアンケートよりぐっと響いてくる。能書きをたれるには本来向いていないテレビでも、アイデアひとつで、結構インパクトの強い結果が出せるものだな、とあらためて感心した。

 それよりも、これを民主党がどう受け止めるかである。枝野幸男・幹事長代理が、「政治というものが、野党と与党でこんなにも違うとは」といっていたそうだ。政権に就いて1年も経ってから?と驚くが、まだそれに気がつかないのもいるようだから、長過ぎた野党暮らしのツケとはいえ、つくづく人間の頭の切り替えは容易でないとわかる。

 最近ようやく、「未熟だ」「権力慣れしていない」といういい方が新聞でも当たり前になってきたが、それはもう、昨年の鳩山首相から始まっていた。毎日記者団に取り囲まれるなんてことは、野党時代にはなかったことだから、ついつい口が滑って、「発言がぶれる」などといわれた。

 閣僚も党幹部も、権力があればこそ発言は重い、というイロハがよくわかっていなかった。これに小沢幹事長の横車が入ったりすると、ますます発言がうろうろとおぼつかなくなり、支持率を下げた。

 政治と金の問題から小鳩の退陣で、すっきりしたと思われたのだが、代わって登壇した菅首相がまた、権力の使い方と官僚との距離感がわかっていなかった。参院選で唐突に「消費税」をいい出したのがその典型で、結果は惨敗。以来首相は貝になってしまい、個別の案件は閣僚に丸投げになった。

 不思議なのは、「消費税」をいい出したとき、党内からだれも「菅さん、それはまずいよ」といわなかったことだ。トータルな権力のあり方、党の理念、政策の優先順位での首相のリーダーシップについて、かくあるべしという、確たる姿を思い描いている人がいなかった、心を通わす友もいない、むしろ敵だらけということであろう。

 政権に就けば、政策は日常業務になる。景気対策、雇用、年金・医療、マニフェストの約束、その財源をどうする‥‥おまけに尖閣問題、北方領土。これらを乗り切るのに何よりも必要な、首相の意志が見えない。国会で答弁はしているのだが、何を考えているのかが見えない。

 かつて、野党の代表質問をペーパーなしでやってのけた菅直人は別人か? このところ「いい間違えないように」とメモを読む姿ばかり。先の胡錦涛会談で、目も合わせずにメモを読む菅首相を、胡錦涛が哀れむように見つめていた。「あれがわが総理大臣か」と、これが民の声である。

 官僚との距離感はもっと難しい。野党時代には官僚は敵で、菅直人は追及の急先鋒だったから、いまもって間合いがとれないらしい。財務相時代には逆に取り込まれて、それが「消費税発言」につながったともいわれる。官僚を使いこなすどころか、すっかりなめられている。

 先週終わった事業仕分けで、最後に与党同士のやり合いになったのは皮肉だった。昨年の仕分けで廃止・縮減になった事業が、続々と復活していた。メディアが「ゾンビ」と名付けたやつだ。それを再仕分けしたところが、政務官が「閣議決定してる」と反発していた。それもひとつやふたつではない。

 仕分けられた事業を平気でまた出してくる官僚も官僚だが、本来、それに真っ先に気づくはずの政務三役が、見逃したのか丸め込まれたのか、中には新成長戦略の項目に入っていたものもあるのだから驚く。

 閣議は膨大な予算書の内容までは精査しない。各省と政務三役がちゃんとみているという建前で、予算案を決める。その決定をたてに抵抗するのだから、立派な族議員だ。首相は官僚だけでなく、閣僚にもなめられたことになる。

 メディアは、仕分けと内閣との整合性がとれていない、などと他人事のように伝えているが、そんな話ではないだろう。行政刷新会議は民主党の、いわば基本理念である。そこへ「ゾンビ」を仕立ててくるのは、明らかな造反だ。首相は怒ってみせないといけなかった。閣議をだまくらかしたのだから。

 それよりも事前に「そんなことは絶対に許さない」といっておけば、いかに厚顔無恥な役人でも予算書から削除したはず。そのひとことが、権力なのだ。「俺が後ろから見ているぞ」という重石でもある。

 これがないから、怒りもない。顔も見えない。存在感がない。失言大臣の首ひとつ切るにもうじうじ。そのくせ一兵卒・小沢一郎の首は切れないでいる。支持率は下がって当たり前だろう。(今朝のTVでは21.8%というのがあった)

 政権交代を経験したのは、政治家だけじゃない。いまや国民も、権力を与えたのは自分たちだと実感している。銀座の100人の声は、ただの世論ではない。ある意味「主権宣言」であり、権力の使い方をきびしく問うていた。