2010年11月28日日曜日

尖閣ビデオで思い出した



 尖閣ビデオを流出させた海上保安官が、YouTubeの前に、映像をSDカードでCNN東京支局へ送っていたことがわかった。CNNが放送してくれると期待したものの、なしのつぶてだったために、ネットへ流したのだという。

 封書には差出人も内容についても記載がなく、CNNは得体の知れないカードに、ウイルス感染を恐れて、そのまま廃棄したといっている。もしひと言「尖閣の映像」と書くか、あるいはDVDだったらどうだったか。話は全く違う展開になったことだろう。CNNは大特ダネになり、犯人も永久にわからなかったに違いない。

 CNNも、もし本当にそうしたのだったら、これはメディアとしてはずいぶんと迂闊なことである。情報提供はどんな形でくるかわからない。身分を明かさないもの、得体の知れないものにこそ、なにかが隠されているという可能性は高いものだ。なんであれ貪欲に食いつくのがメディアというものである。

 確かにウイルスの恐れはあるだろうが、専門家に確認させる手はあるし、あるいは独立したパソコン1台のデータを、とりあえず潰すつもりになれば済むことである。

 おそらくCNNは、そうした経験が足らなかったのだろう。いかがわしい情報提供に慣れていなかったのかもしれない。もしこれをつかまえていたら、CNNは久しぶりに世界規模の特ダネになり、東京支局は大手柄で、記者の今後も変わったかもしれない。いまごろ大いにほぞを噛んでいることだろう。

 これで古い話を思い出した。ロッキード事件のとき、社会部にかかってきた1本の電話である。それが「シグ片山」が何者かを教えてくれたのだった。みなさん、覚えているだろうか。

 あの事件の発端は米議会の証言だったが、そこで出てきた「I received 100 peanuts」という訳のわからない領収書が、ロッキード社から日本政府関係者へ金が渡った証拠だとされていた。領収書には妙なサインがあったが、判読不能だった。「だれだこれは? ピーナッツとは何だ?」

 まさに偶然だが、東京駅前の印鑑店が、そのサインのゴム印を作ったことがわかった。頼んだのは、「シグ片山」という人物だという。会社もわかっていたから探したのだが、不在。しかし名前は紙面に載った。電話は、それを見てかかってきたのだった。

 電話の主は、シグ片山がどういう人物で、何をしているかを語ってくれた。が、名前はいわない。そこで、「Aさんということにしましょう。私は○○です。また、電話をください」と話をつないだ。

 翌日から決まった時間に「Aさん」から名指しで電話がくるようになって、シグ片山はいまアメリカにいる、連絡先はこれこれ‥‥などと克明に教えてくれる。裏をとってみると、情報は正確だった。記者が1人アメリカへ飛んだのだが、うまく接触できないというと、接触方法を教えてくれたりもした。

 事件の全容がわかってくると、シグ片山はほんの端役にすぎなかったのだが、一時は疑惑の中心みたいな大騒ぎだった。Aさんのお陰で、わが方は独走。他の新聞はボカンと見ているだけ、という状態が続いた。シグ片山と接触できたあたりで、電話はなくなったが、最後まで何者かはわからず終い。以後も、名乗り出てくることはなかった。

 あの事件では、他にもいくつかそうした話があった。なかにはガセで無為に振り回されたりもしたのだが、ムダな鉄砲はつきもの。なんであれ、メディアの仕事は、タレコミ大歓迎でなければならない。

 その意味で、今回のCNNは、やはりメディアのイロハを踏み外していた。看板を掲げて店を開いている以上、何にでも対応していないと、万にひとつの大ネタがつかまるはずがない。外国特派員協会あたりではどんな話になっているか、聞いてみたいものである。

 当の海上保安官の方は、陸上勤務になったと小さく報じられた。東京地検と警視庁は結局逮捕せず、任意の調べはまだ続いているらしいが、この間に、保安庁内部で相当数が映像を見たりダウンロードしたりしたことがわかった。ようやく映像は国会に提出されたが、もはやニュースではない。

 そもそもが隠すべきものではなかったのである。海保にしてみれば、自分たちの日常活動の記録であって、海の上のことは一般の目にはなかなか触れないから、むしろ見せたいものだ。流出した映像も、本来メディア用に編集したものだったらしい。

 若い頃、神戸海保と5管本部を担当していて、巡視艇にもよく乗せてもらった。船の乗組員たちはみな実直で、こうした政治的な騒ぎからもっとも遠い存在だった。それが、CNNだのYouTubeだのと思わざるをえなかった意味を考える必要がある。

 要するに官邸の判断が間違ったのだ。むろん、組織にたてついたのは確かだから、何らかの処分は必要だろうが、YoiTubeに拍手喝采した世論もある。どういう落としどころになるのかがみものだ。

 人によっては、今回一番傷ついたのは、海保と現場だという。そうかもしれない。私としてはこれに、CNNも加えておきたいところだが‥‥。

2010年11月24日水曜日

権力とハサミは使いよう



 フジの朝のワイド「とくダネ」が、面白いアンケートをやっていた。「いま菅政権にいいたいこと」というのを、日曜日の銀座で100人に聞いたのだと。ただの○×ではなく言葉で書き込むのだから、100人がよくも答えたと思うが、MCの小倉智昭によると、「アッという間に集計できた」そうだ。

 それだけ、関心も高く、いいたいことがいっぱい、というのがよくわかる。スタジオに張り出した様も壮観だった。A4くらいの紙が100枚ずらりである。これをまた、内閣を「支持しない」「支持する」「どちらでもない」に分けたら、53:20:27と圧倒的に不支持だった。

 中野美奈子アナが拾い読みをすると、「不支持」からは、「期待していただけにがっかり」「私たちの一票はどぶに捨てられた」、「支持」からも「しっかりしろ」、「どちらでもない」からは「守れない約束はしないで」と、どれも1年前には「支持」だった人たちの声である。

 何ともストレートな結果で、ただのアンケートよりぐっと響いてくる。能書きをたれるには本来向いていないテレビでも、アイデアひとつで、結構インパクトの強い結果が出せるものだな、とあらためて感心した。

 それよりも、これを民主党がどう受け止めるかである。枝野幸男・幹事長代理が、「政治というものが、野党と与党でこんなにも違うとは」といっていたそうだ。政権に就いて1年も経ってから?と驚くが、まだそれに気がつかないのもいるようだから、長過ぎた野党暮らしのツケとはいえ、つくづく人間の頭の切り替えは容易でないとわかる。

 最近ようやく、「未熟だ」「権力慣れしていない」といういい方が新聞でも当たり前になってきたが、それはもう、昨年の鳩山首相から始まっていた。毎日記者団に取り囲まれるなんてことは、野党時代にはなかったことだから、ついつい口が滑って、「発言がぶれる」などといわれた。

 閣僚も党幹部も、権力があればこそ発言は重い、というイロハがよくわかっていなかった。これに小沢幹事長の横車が入ったりすると、ますます発言がうろうろとおぼつかなくなり、支持率を下げた。

 政治と金の問題から小鳩の退陣で、すっきりしたと思われたのだが、代わって登壇した菅首相がまた、権力の使い方と官僚との距離感がわかっていなかった。参院選で唐突に「消費税」をいい出したのがその典型で、結果は惨敗。以来首相は貝になってしまい、個別の案件は閣僚に丸投げになった。

 不思議なのは、「消費税」をいい出したとき、党内からだれも「菅さん、それはまずいよ」といわなかったことだ。トータルな権力のあり方、党の理念、政策の優先順位での首相のリーダーシップについて、かくあるべしという、確たる姿を思い描いている人がいなかった、心を通わす友もいない、むしろ敵だらけということであろう。

 政権に就けば、政策は日常業務になる。景気対策、雇用、年金・医療、マニフェストの約束、その財源をどうする‥‥おまけに尖閣問題、北方領土。これらを乗り切るのに何よりも必要な、首相の意志が見えない。国会で答弁はしているのだが、何を考えているのかが見えない。

 かつて、野党の代表質問をペーパーなしでやってのけた菅直人は別人か? このところ「いい間違えないように」とメモを読む姿ばかり。先の胡錦涛会談で、目も合わせずにメモを読む菅首相を、胡錦涛が哀れむように見つめていた。「あれがわが総理大臣か」と、これが民の声である。

 官僚との距離感はもっと難しい。野党時代には官僚は敵で、菅直人は追及の急先鋒だったから、いまもって間合いがとれないらしい。財務相時代には逆に取り込まれて、それが「消費税発言」につながったともいわれる。官僚を使いこなすどころか、すっかりなめられている。

 先週終わった事業仕分けで、最後に与党同士のやり合いになったのは皮肉だった。昨年の仕分けで廃止・縮減になった事業が、続々と復活していた。メディアが「ゾンビ」と名付けたやつだ。それを再仕分けしたところが、政務官が「閣議決定してる」と反発していた。それもひとつやふたつではない。

 仕分けられた事業を平気でまた出してくる官僚も官僚だが、本来、それに真っ先に気づくはずの政務三役が、見逃したのか丸め込まれたのか、中には新成長戦略の項目に入っていたものもあるのだから驚く。

 閣議は膨大な予算書の内容までは精査しない。各省と政務三役がちゃんとみているという建前で、予算案を決める。その決定をたてに抵抗するのだから、立派な族議員だ。首相は官僚だけでなく、閣僚にもなめられたことになる。

 メディアは、仕分けと内閣との整合性がとれていない、などと他人事のように伝えているが、そんな話ではないだろう。行政刷新会議は民主党の、いわば基本理念である。そこへ「ゾンビ」を仕立ててくるのは、明らかな造反だ。首相は怒ってみせないといけなかった。閣議をだまくらかしたのだから。

 それよりも事前に「そんなことは絶対に許さない」といっておけば、いかに厚顔無恥な役人でも予算書から削除したはず。そのひとことが、権力なのだ。「俺が後ろから見ているぞ」という重石でもある。

 これがないから、怒りもない。顔も見えない。存在感がない。失言大臣の首ひとつ切るにもうじうじ。そのくせ一兵卒・小沢一郎の首は切れないでいる。支持率は下がって当たり前だろう。(今朝のTVでは21.8%というのがあった)

 政権交代を経験したのは、政治家だけじゃない。いまや国民も、権力を与えたのは自分たちだと実感している。銀座の100人の声は、ただの世論ではない。ある意味「主権宣言」であり、権力の使い方をきびしく問うていた。

2010年10月3日日曜日

羊の国ニッポン


 中国政府の女性報道官の発表を見るといつも、「だれかが突っつかないかな」と思ってしまう。取りつく島がないというか、いつも自信たっぷりで何事にも動じない。だからこそ、ちょっとからかって見たくなる。

 尖閣諸島での漁船問題でも、「逮捕は不当、釣魚島は中国の領土だ」から始まって、フジタ社員3人の解放でも、残る1人は「なお調べが必要」と、異論は許さないといわんばかり。

 そこで、「尖閣は昔から日本の領土ですよ」「中国の教科書もそうなってた」「(1人を残したのは)報復ですか」「なにを調べてるんですか」くらいいってやりたくなる。彼らはアドリブには弱い。なにしろ、公式発表文は何十というハンコがついているのだそうで、臨機応変とはいかないそうだから、面白い表情が見られるかもしれない。

 あの手の国ではかつて、そういういたずらには危険が伴った。気に入らない記事を書いただけで、取材上のいやがらせは当たり前。町中でいきなりなぐられたり、自転車にぶつけられたり。さすがに近年はそういうことはないようだが、特派員たちは相変わらず波風を立てないようにしているらしい。

 しかし、フジタの社員が拘束された後、ようやく日本の領事が接見したときの記事はひどかった。彼らがどんな状態におかれているかだけで、肝心の彼らが何をしたのかが1行もなかった。

 この拘束が、尖閣での船長逮捕の報復なのかどうか(ことは明白だが)が当面の焦点で、フジタの側は「旧日本軍の遺棄兵器の関連調査」と目的ははっきりしているのだから、あとは彼らが現地でどんなドジを踏んだか、だけである。

 読者も政府もそこがいちばん知りたいことなのに、言及なし。領事が聞かなかったのか、聞いたけどいえないのか、どっちにしてもそう書くべきである。それがないのは、領事にただしてないということだ。各社の特派員が雁首そろえていながら、領事の説明をハイハイと聞いただけだったらしい。

 そもそもこの事件では、なによりも肝心の、漁船が巡視船に体当たりしているというビデオテープが消えてしまった。前原国交相(当時)が見て、「間違いない」といっていたのだが、それっきり。船長の取り調べの証拠として、那覇地検にいってしまったんだと。

 この手の映像は、まずはプレスに公表して、法手続きはそれから、というのが常識だ。海上保安庁だって出したかったはずだが、それが止まったのは、相手が中国漁船だからと、外務省あたりの入れ知恵に官房長官が(あるいは首相が)びびったとみていい。

 このテープ、いまになって公表するとかいっているが、中国が観光客を止め、レアアースを止め、温家宝が国連で吠えているときにぶつけなくては意味がない。必要なら地検に提出させる手続きを踏めばいいことだし、コピーがないはずはなかろう。

 この件では菅首相がただの木偶の坊になってしまった。自ら事件を指揮している風にはとても見えない。先の国会審議で、まだテープを見ていないことが明らかになったのには、あいた口がふさがらなかった。それでなくてもこのところ、首相は会見でもほとんど紙を読んでいる。かつて、野党の代表質問をペーパーなしてやってのけた菅直人はどこへいった? 参院選で消費税を口走ったのに懲りて、なますを吹いているのだろうか。

 そして話はやっぱりプレスに戻る。「テープを出せ」と声高にいうメディアがなかったのがどうしても気になる。社説などでお上品に「出すべきだ」というのはあった。そうではなくて、官邸や国交省の現場で、「何で出さないんだ」「そうだそうだ」と喚き立てる騒々しさが必要なのである。プレスとはそういうもの、ガラが悪いものなのだ。

 日本国中が、またアメリカもアジアの国々も見たがっていて、何より中国人に見せたいテープだ。ひとたび公開されれば、You Tubeに載って、国連総会の空気だって変えることができたかもしれない。その意味合いを、政府がわからなければ、突っついてやるのがメディアではないか。政府も従順、メディアも従順、日本はヒツジばかりということになる。

 いまの中国のありようをみていると、かつての日本陸軍を思い出す。力でごりごりと中国の支配地を広げていった、あの「世界の田舎者」の姿である。ただし、現代の田舎者はとてつもなくでかい。

 東シナ海から南シナ海へと中国が引いた第1列島線とやらは、大東亜共栄圏などよりももっと生々しい。南沙諸島(スプラトリー)なんて、フィリピンよりはるか南、もうボルネオの鼻先だ。これを中国領というのだから、日本陸軍も真っ青だろう。

 まあ、こんな国を相手にする以上、政府もそのつもりになってもらわないと困るが、メディアだって、従順な傍観者ではいられまい。もっとガラが悪く主張していい。

 別に政府の足を引っ張る必要はないが、まずは首相と官房長官にいってやれ。「下向いてペーパー読むのはやめなさい。中国は報道官ですら、記者団を睥睨しながらしゃべってるぞ」って。(文中敬称略)

2010年9月19日日曜日

なぜメディアは小沢にかぶれたか



 民主党の玄葉光一郎政調会長が、代表選報道で「信頼していたベテラン政治記者が、意外にも小沢神話に引きずられていた」と失望しているそうだ。「小沢氏のことだから、何か秘策があるはず」という思い込みだという。

 朝日新聞の星浩編集委員がコラムで伝えた。仲間の政治記者が「小沢が政策を語るのが新鮮だった。政策の中身より小沢の対応に興味があった」といっていたと。確かに、小沢は10年分くらいニコニコしたのだから、記者たちがびっくりしたのも、わからないではない。

 星自身は、終始小沢には批判的だったが、こうした空気はとっくに感じていたはず。それをいまになって玄葉の口を借りて、というのはちょっといただけない。まあ、同僚をナマで批判しにくいのはわかるが‥‥。

 ともかく、この「思い込み」で「根拠もなく小沢優勢と思い込んだ」(玄葉)結果、「国会議員は小沢優勢」という報道が投票前日くらいまで続いたのだった。終始変わらなかったのは、「圧倒的な菅支持」という世論である。これが党員・サポーター票にどれだけ反映されるか、も焦点だった。

 結果はご存知の通り「菅圧勝」だったが、集計の仕方が小選挙区制と同じ(多数を獲った方が1ポイント)だから、実は票差でみるとポイントほどの差にはなっていない。6:4だった地方議員の結果とほぼ同じなのだそうだ。世論ともかなりずれている。党員・サポーターにも、「小沢神話」は浸透していたということである。

 驚いたのは、ネットの人気投票の類いが、「世論」として一般メディアで報じられたことだった。ここでは、小沢が菅を逆転していたから、面白いと伝えたのかもしれないが、ネットの危うさ以上に、メディアよどうした、といいたくなる話だった。

 ネットの声が極めて保守的であることは、以前からわかっている。パソコンを操る世代は30-40代がコアで、一般世論とは著しく異なる集団だ。社会の閉塞感への不満も強いが、その解決に「強い指導者」を求める傾向も強い(世論調査)。昨年の衆院選のときでも、ネットの声は麻生太郎が優勢だった。

 実態はごく一部の声にすぎないものを、一般メディアがストレートに伝えたのだから驚く。「小沢かぶれ」の記者たちが、味方を見つけたような気分になったのかどうか。小沢もさっそく「ネットでは私を支持してくれている」と遊説先でぶっていたらしい。

 問題は「小沢神話」の中身だろう。彼の語った政策をよくよく聞けば、詰まるところは「首相の強権」で予算配分を決めていく、「役人にはできないことだ」というに尽きる。あとは「数合わせ」の手練手管、ねじれを何とかするのではないかという期待感である。

 具体的な話では、例えば「高速道路整備を無利子国債で」というのは、自民党時代の発想そのものだ。しかし、だれもがわかっているこの点を、はっきり書いたメディアはなかった。ご用聞きよろしく、言葉を伝えるだけだった。

 前出の星によると、玄葉は「(無利子国債は)10年前に決着している。政治記者は政策がわかってない」といっていたという。星は続けて、例の軽井沢での会合についても、「もっと突き放した切り口のレポートがあってもよかった。代表選はメディアにも苦い教訓だった」とまとめているが、なにをいまさら。

 避暑地での優雅な、しかし十分に生臭い会合を伝えるテレビ映像に、「160人も集まれる別荘かよ」とつぶやいた人がどれだけいたか。ジャーナリストはたとえ片足は永田町に踏み入れても、片足はこちらの側に置いておかないといけないのだ。それができないと、ご用聞きになってしまう。

 御厨貴・東大教授が朝日新聞のインタビューで、戦前の軍部と政党の結びつきなどの話の脈絡で、「現在、政党外の勢力は?」と問われて、「メディアだろう」と答えていたので驚いた。エッ? こんな頼りないメディアが?

 ところが御厨は「メディアが、『政権交代には意味がなかった』というキャンペーンを張ったら、国民はみんなそう思う。メディアは政権交代を否定せず、育てるようにしてもらいたい」といっていた。

 なるほど、確かにメディアにはその力がある。世論調査をみていても、あの報道がこういう反応になるんだな、と思うものは多い。「小沢神話」もそのひとつだし、逆に「菅は頼りない」というのもそうだ。これがテレビのワイドショーにはね返ると、いっそうステレオタイプになり、影響力はさらに増す。

 例えば「自民党時代と変わらないじゃないか」とよくいう。とんでもない、実際は大きく変わっている。正しくは、「変わらない連中もいる」「足を引っ張っている連中がいる」なのだが、これが簡単にお題目になって、政権交代そのものまで否定しかねない。出所はみな報道、評論なのだから嫌になる。

 彼らはまたぞろ、「次は予算がかかる3月がヤマ場。小沢の巻き返しがあるか」なんていっている。日本の将来のために、そうさせないのがメディアの役割だろうに。もっと泥臭く、単純であれ。プロ風を吹かすな。

 以前、政権交代にいちばん順応できないのはメディアではないか、と書いた覚えがあるが、それが現実になるのはやっぱり見たくない。(文中敬称略)

2010年8月30日月曜日

お前らただのご用聞きか



 だんだん腹が立ってきた。むろん民主党の代表選のことだが、当の民主党員たちの動きよりも、それを伝えるメディアに対してである。「お前らいったい何なんだ。ただのご用聞きか。頭と口はないのか」

 鳩山が、小沢を支持するのは「大義だ」といった。「わたしが小沢さんを民主党に入れたのだから」と。さらにモスクワでは、「わたしを総理にしてくれた恩義に応えるんだ」といったそうだ。言葉がそのまま記事になっている。記者たちは質問をしなかったらしい。

 「そんな個人的な話を持ち込むときか」「政権党の責任は? 日本の明日を考えるべき立場だろうに」「小沢が代表になったら、民主党そのものが沈没するとは考えないのか」

 もし、これらの質問をして答えさせていたら、答えがどうあれ記事はふたまわりくらい大きくなっていただろう。読者が知りたいのはその答えなのだから。それを聞きもしない記者とは何なのだ? 読者の後ろを走っている新聞なんかいらない。

 とにかくこうした話ばかりである。昨年選挙で勝ったあと、小沢が「チルドレン」を集めていいもいったり、「君らの仕事は次の選挙で当選することだ」と。これもそのまま記事になった。

 議員の本音であることはだれでも知っている。が、堂々と口にするとは、どういう神経だ。「そんな議員いらない」「4年間国の金をいただいて、その間選挙運動やれだぁ?」と思った有権者は多かったはず。なのになぜ、記者たちはその場でバシッと書かないのか。

 小沢は選挙に強いという神話がある。しかしその実態は、自民伝統の「ドブ板選挙」である。新人議員にひとりづつ小沢の秘書がついた。いったい何人いたのか。その費用は? 新人たちは「小沢先生が」と思ってるかもしれないが、全部民主党の金のはずだ。それを「小沢チルドレン」などとはやし立てたのはだれなんだ。

 そもそもチルドレンといっても、中には行政経験豊富な首長もいる。特定の問題で深い活動してきた人もいる。役人と戦ってきた人もいる。行政実務ではたった一度、半年間の自治大臣だけ(あと政務次官を2度)という小沢より、実態を深く知っている人は多いのではないか。それを国政は初めて、というだけで、「辻立ち」最優先だと? 事業仕分けで、実体験をもとに鋭い切り込みでも見せたら、その方がよほどいい選挙効果を生んだだろうに。

 先の軽井沢でのパフォーマンスに出たのは160人だった。「気合いだぁ」とわめいたお調子者までいたが、鳩山・小沢派の総数からいうと、20人くらいは出ていない。骨のあるチルドレンもいるということだろう。

 話を戻すと、記者たちの鈍感には、どうやら理由がある。記者会見の様子をみると、会見ではまずICレコーダーで録音をしておいて、発言はメモをとる代わりにパソコンで打っているようだ。たいしたもんである。キーパンチャーの役割までこなしているのだから。

 もともとメモだって、なかなかとりきれるものではない。小沢とか安倍晋三みたいに、ひと言発するごとに「アー」「エー」とやってくれると、大いに助かるのだが、頭のいいヤツにすらすらやられると結構苦労する。

 しかしメモをとりながら、「これは見出しになるな」「これはニュースじゃない」「ここは要約して」「あれと関連するな」と、すでに記事を書き始めているものだ。だから終わったとたんに、メモのポイントだけを頼りに組み立てられるのである。(森喜朗みたいに、最後まで見出しがみつからないなんてのがいちばん困る。彼の場合、いちばんのニュースは失言だった)

 ところが、パソコンだとメモより早いらしい。「その全文を送ってくるのがいるんだ」と嘆いていたデスクがいた。つまりはご用聞き。内容を判断していないということだ。それでは、言葉尻をつかまえて丁々発止なんて望むべくもない。なめられるわけである。

 これは必ずしも政治ニュースに限らない。警察ダネも含めて、このところ取材する側、される側の力関係がおかしいと感ずるのは、結局記者の側がまいたタネ、ということのようだ。

 調査報道では結構いいものが出てはいる。目のいい記者も少なくない。しかし瞬発力を欠いたら、半分手に入っているニュースですら逃がしかねない。とくにいまはテレビやネットの中継がそのまま流れることが多いから、取材のアナまでが見えてしまう。

 「なんでそこを突っ込まないんだ」と思われたらお終いだ。そのあと、どんな立派な記事を書いたって、だれも読んじゃくれまい。取材過程がさらされるのは、厳しいものなのである。記者たちがこれをどれだけ自覚しているか。

 今回新聞論調は概ね「小沢に大義名分はない」「筋が通らない」といいながら、分裂の危機だの政界再編だの、と先読みに忙しい。ところがここへきて、菅首相は再選後は挙党一致に、なんていい出した。小沢の動きはかけひきだったのか。メディアはまたまた振り回されそうだ。

 そもそも最初にバシッとかましておかないからこうなる。「ご用聞き」は即ち傍観者。自分の国の政治だというのに、怒りが足らないのだ。だからこっちはますます熱くなる。それでなくてもくそ暑いのに、いい迷惑である。(文中軽重略)

2010年8月28日土曜日

どのツラ下げて代表選



 民主党の代表選にとうとう小沢一郎が出ることになった。「脱小沢」をやめろという鳩山の仲介を、菅が蹴っ飛ばしたのは痛快だったが、なぜ小沢が出るのか、なぜ鳩山が小沢支持になるのかがよくわからない。

 これで真っ先に思い出したのが、もう10年になるか、小泉純一郎が勝った自民党の総裁選である。もう忘れてしまったのか、テレビでもだれも触れないが、あれは実に奇妙な選挙だった。

 党員・党友だけの選挙なのに、一般有権者の視線に押されて、必ずしも意に沿わない小泉に票が集まったのだ。「ここで橋本龍太郎を選んだら、次の選挙で自民党は見放される」という強迫観念からだった。小泉の「自民党をぶっ潰す」というひと言が、流れを決めたのである。

 今回も状況は似ている。もし民主党員が小沢を選んだら、次の選挙で民主党は見放されるだろうーー現に町の声でも、これが少なくなかった。ところが、民主党員でもそう思わないのがいるらしい。まあ、菅には小泉のような厚かましさがない、というのはあろう。しかし、それ以上に「小沢の剛腕」、強いリーダーへの期待ばかりがいわれる。

 小沢派はもう「政治と金」なんてだれもいわない。一度は引退みたいなことをいっていた鳩山までが元気になった。かつての自民党でも、ここまで厚顔無恥ではなかった。さらに新聞、テレビまでが、「多少悪いことをしても力のある人が‥‥ということか」なんていいながら、票読みに懸命だ。

 おいおい、メディアはいったいどうなっちゃったんだ、と思っていたら、朝日新聞に歴代の小沢担当記者6人の座談会というのが載った。これを読んで、初めてわかった。「あ、時代が違うんだ」と。

 出馬表明の前日だったが、「出る」「出ない」と意見が分かれるなかで、「出るべきでない。1回休みというのがたしなみだ」「いや出るべきだ。議論してほしい」というのがあった。それぞれ理由はあるのだが、驚いたのは、小沢がトップに立ったときの危うさを、だれも疑っていないことだった。どころか、彼に期待しているようにすらみえる。

 記者たちが小沢を担当したのは、自自連立あたりからである。それより7、8年前の、小沢が自民党の実質ナンバー2だった頃を知らないのだ。いちばん年かさの記者でもまだ駆け出し、政治部員にはなっていない。

 古い世代にとっての小沢は、剛腕は即ち独断専行であり、「数の政治」の信奉者だから、選挙のためなら何でもあり。新聞記者が大嫌いで、そのくせ NYTだのW・ポストにはホイホイと会う。「自国の記者が嫌いな政治家なんて信用できるか」。これだけでも、小沢を好きな記者はいなかったはずである。

 実質ナンバー2でありながら、首相にという声が高まらなかったのも、身辺が身ぎれいでなかったからだ。健康上の問題もあった。これでよく海外へ診療に出た。出先支局ではパパラッチを雇って彼の追跡をしたが、とうとうしっぽを出さなかった。雲隠れが得意なやつを、信用しろというのは無理だ。

 自民を飛び出したあと唱えた「2大政党論」は、論理としては矛盾している。選挙制度をいじる(小選挙区制)のは本末転倒なのだが、これが通ってしまう。しかし結果は、小党を作っては壊しの10年。描いていたのは、もうひとつの自民党を作ることだった。

 政治手法にしても、政治資金集めから選挙のやり方まで、自民党時代そのまま。新聞には「一致団結箱弁当」なんて懐かしい言葉も出てきた。自民党が箱弁当でなくなって20年になるというのに。

 小沢のイメージで忘れられないのが、湾岸戦争だ。イラクがクウェートに侵攻した90年夏、小沢が突然「現行憲法でも自衛隊の海外派遣は可能」といい出し、秋の国会に「PKO法案」を出す。寝耳に水だった。自民党内も野党も国民も、意見がまっぷたつになった。「そんな重大問題まで、選挙で付託した覚えはないぞ」と大論争になり、法案は結局廃案になった。

 実は、小沢がいい出す直前、駐日米大使のアマコストが小沢を訪ねて、自衛隊の派遣を打診していたのだった。これに、海部首相を差し置いてホイホイと応える幹事長とは何なのか。

 この1年間をみれば、彼の権力感覚が、20年経っても変わっていないことは明らかだ。鳩山政権の節目で起こったぎくしゃくの数々‥‥事業仕分け要員の引き上げ、政策調査会の廃止と幹事長への権限集中、高速道路整備の圧力、暫定税率廃止見送り、蔵相辞任も?‥‥大勢でゾロゾロと官邸へ押しかけたこともあった。

 小沢の行動基準はただひとつ、票になるかならないか。いってみれば、これで足を引っ張り続けていたのである。しかし、鳩山は文句もいわず、政治と金についてもみな沈黙した。泣く子と地頭には‥‥とはこのことだろう。だが、今回は正真正銘の首相を選ぶ選挙だ。そんな下世話な基準で選ばれては困る。

 しょせん小沢は政局の人であって、政策の人ではない。いさめる人は遠ざけるから、有能な人材は去っていくばかり。党内最大グループといっても、小沢チルドレンをのぞけば少数派、しかもろくなのがいない。要するに、人を育て組織を築きあげるリーダーの器ではないのだ。

 風を読む能力には長けているとされる。今回の読みは確かなのか。鳩山は、小沢支持を「大義だ」といった。自分が民主党に引き入れたからだと。そんな大昔のことで、現に動いている政権の明日を決めるのか。もし小沢が勝ったらどうなるか、百も承知だろうに。困った人たちである。  (文中敬称略)

2010年8月21日土曜日

懲りない男の懲りない笑顔



 まあ、長いこと見せたことのない笑顔で、小沢一郎が上機嫌だった。19日、鳩山前首相の軽井沢の別荘で開かれた懇親会だ。なにしろ、100人くらいとみられていた出席が160人だったから、小沢・鳩山支持派の大半が出たということ。代表選を左右できると、ほくそ笑んだか。

 これに舞い上がったか鳩山先生、「小沢一郎先生にわが家までお出ましいただき」とやったから、これにはびっくりした。「お出まし」というのは、皇族にしか使わない言葉ではなかったか? 小沢もとうとう天皇になったか。

 聞くところによると、小沢ははじめ出席を渋っていたらしい。そりゃそうだ。先の両院議員総会もそうだったが、どのツラ下げて、という状況は変わっちゃいない。それが、数が揃うと見たのだろう。この辺りの見切りはたいしたものである。

 符合するように、取り巻きの茶坊主どもからしきりに「小沢出馬」がいわれている。菅代表への圧力であると同時に、いちはやく「菅支持」を表明した鳩山への圧力でもある。小沢チルドレンの1人は懇親会のあと、「鳩山さんには、菅支持を取り消してもらいたい」と、まことにストレートだった。

 テレビ朝日の三反園訓は、「小沢さんが出る確立は3割」といっていた。「負けたら政治生命も終わるから、絶対に勝てる状況でないと出ない」というのだが、たとえ3割でも、その読みがあるというのは驚くべきことだ。

 これについて21日朝のテレビ番組で、渡部“黄門さま”がさらに驚くべきことをいった。小沢が急に出馬に動いているのは、検察に起訴されないため。首相になれば‥‥ということなのだと。

 “黄門さま”はまた、「多少悪いことをしていても、力のある人が‥‥という声があるのが悲しい」といっていた。これに、菅体制になれば干される小沢グループの思惑がからむ。とりあえずは、人事で小沢派を排除するな、だろうが、小沢本人が出てくるとなると、話は全く違ったものになる。

 もし小沢が代表になるようだったら、いまはまだ残っている民主党への支持そのものが瓦解するだろう。しかし、それよりも自分の起訴を逃れる方が重要というのか。そんな政治家は要らない。

 軽井沢の騒ぎを伝える朝日新聞のオピニオン面に、山田紳のマンガが出ていた。これには笑った。満身創痍の小沢親分が、菅とおぼしき子分にいさめられている図である。いまの状況にはこちらの方がぴったりだ。しかし、軽井沢の小沢親分は満面の笑みだった。

 この落差の可笑しさを、有権者はわかっている。野党だってわかってる。では民主党は? 少なくとも3割はわかってない?というのが、何ともかんとも。そしてメディアだ。わかっているはずなのに、相変わらず騒ぎを追い続けていて、“黄門さま”までが、「メディアのみなさん、どうして小沢党になっちゃったのかな」というほどなのだ。

 民主党の代表選は、首相を選ぶ選挙だ。これに満身創痍の小沢が出ることが、日本の政治にとって、国民生活にとってどうなのか。ああだこうだはいうのだが、もうあなたの時代じゃない、とまで踏み込むものはない。やっぱり、何割かは小沢がいいと思っている? そんな新聞要らねえよ。(文中敬称略)

2010年7月25日日曜日

政界の非常識は報道の常識?


 参院選で負けて、民主党内でいちばん元気になったのが小沢一郎だ。しばらく姿をくらましていたのは、検察審査会の動きかららしいが、出てきたと思ったら、自派の候補者(当落)に会ったり鳩山に会ったり、と大車輪だ。

 毎日・論説の与良正男がテレビで「(鳩山と)2人が元気になっちゃって、おかしいなとみなさん思いません? また、代表選の主導権を握るかどうかなんて、報道する方もする方だけど、変ですよ」といっていた。

 「あんたもメディアの人間だろう」といいたくなるが、確かにこのところメディアの小沢一郎の扱いは気になる。「お前の常識は世間の非常識」は相撲の世界だったが、政界では小沢にとどめを刺すだろう。

 なにしろ、政治と金の話(土地取引疑惑)では、「検察が不起訴で潔白を証明した」とうそぶいて恥じない。証拠不足の「嫌疑不十分」を「潔白」だと。8日に遊説先から自宅にも帰らずこつ然と消えたが、これが不思議。投票日まで2日を残してなぜ?

 あとでわかるのだが、この日東京第一検察審査会が「不起訴不当」と議決していた。発表は15日だったが、その日のうちにいち早く内容をつかんでいたとすれば、消えた理由にはなる。審査会の周辺に、手のものがいたのか? だとすれば、これはこれで問題だろう。

 「小沢遊説」なるものも実に不思議だった。党執行部の戦略とは無関係に、勝手に自派の候補者のところに現れては、菅首相の「消費税」を批判して歩いていた。テレビ・新聞はまた、その「批判部分」だけを流す。まともな有権者なら、これを聞いただけで民主党に投票する気をなくしただろう。

 そして、菅首相には会わない。首相がまた,「お詫びしてでも」なんて女々しいことをいうから、喜ぶのはメディアばかり。いやしくも、党の代表を袖にするというだけでも異常なのに、理屈にもならない小沢側の消息をそのまま書いて一向に恥じない。

 会わない理由は、むろん菅発言にある。代表選のあと「(小沢さんは)しばらく静かにしていただいた方がいい」といった、アレだ。ご丁寧に「ご本人のためにも、民主党のためにも、日本の政治のためにも」といったのは強烈だった。

 小沢のかつての盟友、渡部恒三“黄門さま”がテレビで、「菅君のあのスピーチは、これまで聞いた中で最高だった」といっていた。同時にまた「(小沢は)都合の悪い時は出てこないんだ」とも。いつものことだと。

 小沢にしてみれば、民主党も手段にすぎないのかもしれないが、まあ、だだっ子みたいなものである。にもかかわらず、メディアの筆は小沢に甘い。同じことを他のだれか、例えば鳩山、菅がやったら、馬に食わせるほど書きまくるだろう。報道の常識はどうなっているんだといいたくなる。

 まあ民主党自体が、小沢をまるで腫れ物に触るような扱いだから、仕方がないのかもしれない。しかし、メディアは小沢がどんな男か知り抜いているはず。いま小沢が視界からスッと消えたら、日本の政治がどんなにスッキリするかもわかっていよう。ところが、話は代表選がどうのこうの。小沢派は勢いづいているとメディアは大忙しだ。

 その代表選の日程自体が、もうひとつの小沢疑惑、東京第五検察審査会の日程に左右されているという不思議。この審査会は1回目に「起訴相当」としたから、9月といわれる2回目に同じ議決が出たら、小沢はたちまち被告席に座ることになるのだ。冒頭の与良ではないが、「変ですよ」といわざるをえない。

 小鳩が退陣したとき朝日新聞の調査で、鳩山退陣を「よかった」といったのは60%だったが、小沢退陣を「よかった」としたのは85%だった。「そんな政治家は要らない」という、これ以上ない意思表示である。

 小沢の行動を解くキーワードは「数」だ。論拠は、法案を一言一句変えずに、粛々と衆参両院を通すこと。だから、「ねじれ」は困る。数が足らなければ連立を、となる。日本の政治は長年これでやってきた。だから国会論議は退屈で、国民は無関心。国民の無関心は自民党に好都合だったのである。

 民主党の前回のマニフェストがバラマキ型だったのも、政権交代後に、小沢が出したいくつかの横やりも、全ては参院選で数を得るためだった。新人議員を集めて「君らの仕事は、次の選挙で当選することだ」とぶった。「そんな議員は要らない」というのが民意だったはず。小沢の頭の中は、自民党時代から何も変わっていない。

 だが、法案を修正するとなれば、話はがらりと変わる。民主党は、それにカジを切るようだ。また今回のねじれはそうせざるをえない状況にある。修正協議の中身が日々伝えられ、与野党が合意した法案が上程される。有権者が望んだのはそれだろう。

 民主主義は時間がかかって当たり前。即ち数の論理の終焉。小沢時代の終わりである。なのに、相変わらずテレビは無愛想な小沢を追い回す。いっぺん追いかけるのをやめてみたらどうだ。いつまでも「ねじれが」なんて寝ぼけてると、「お前の常識は‥‥」といわれちまうぞ。 (文中敬称略)

2010年7月15日木曜日

情報がなぜ化ける?


 どうも腑に落ちない。参院選での民主の敗因は、菅首相の「消費税10%」発言だという。現場は思いもかけぬ逆風にさらされ、その風をうまくつかんだ自民が1人区で圧勝し、みんなの党が漁夫の利を得た。それに違いはないだろうが、腑に落ちないのは、菅発言の伝わり方である。

 菅首相本人も言う通り、消費税への言及は「唐突」だった。参院選公示の第一声で、「財政再建の必要がある。超党派で税制論議を始めよう」と訴えた。それ自体は立派な見識だが、「自民党が消費税10%といっている。これは参考になる」と余計なことをいった。これが一人歩きを始める。

 野党は一斉に、「消費税10%」「4年間あげないというマニフェスト違反」と攻撃し始めた。政治家はこの程度の言い換えは日常茶飯事だが、メディアまでが「10%増税」と書き始める。首相はさらに、「論議を始めようというのはマニフェストと考えていい」といったために、「増税はマニフェスト」になる。

 「選挙後に論議を」というのが、「すぐにも増税」にすり替わり、おまけに党内論議抜きだったから、党執行部も候補者も立往生した。すると小沢前幹事長が、遊説先で勝手に「マニフェストにはずれてる」と首相批判を始めた。なんとも最悪、最低である。

 一般の有権者でも、テレビの街頭インタビューなどで見るかぎり、この辺りを正確に理解している人はけっこういた。にもかかわらず、メディアの伝え方が、「すぐにも増税」という印象を増幅させていくのには、開いた口がふさがらなかった。とくにテレビのワイドショーなどでは、話が単純化されて語られた。

 菅首相は、「増税前には民意を問う」といっているのだから、元々のマニフェストにははずれていない。ところが当の首相は、ストレートに訂正するのではなく、「低所得者には負担を軽く」などと言い訳めいたいい方をするものだから、もう増税は既定の事実になってしまった。実におかしな情報の伝わり方だった。

 ひとことでいえば、バッカじゃなかろか、である。首相もそうだし、それをきちんと修正できない民主党執行部も、平気で事実を曲げて攻撃材料にする野党も、もひとつマスコミも、みんなバカになったとしかいいようがない。これじゃ、ツイッター以上に危ないのは、人の口だということになる。

 菅首相の念頭にはおそらくサミットがあった。財政再建策がメーンテーマである。その場で、日本はこれこれをやる、という必要があった。財務相になってから、この問題では危機感をもっていた。だから公示の第一声でそれを口にし、その足でカナダへ飛んだ。

 しかし、党内でそんな意識をもってる人間はいなかった。むしろ自民党に、それはあった。先に「10%」とマニフェストでいっていた。首相には、これに対抗する気持ちもあったのだろう。

 事実、首相発言に石破・自民党政調会長がいった「抱きつきお化け」といういい方には、とりこまれることへの危機感が感じられた。しかし、「増税」で攻撃する方がはるかに有効だ。首相は墓穴を掘ったのである。

 幻の情報に影響された有権者がどれくらいいたかは、測りようがない。しかし、結果は現実だ。自民の大勝もみんなの党の躍進も、動かない現実である。

 朝のテレビでみのもんたが、「菅さんが、『自民は消費税をいうが、われわれはまずムダを省いて、国会議員自ら血を流して、それからですよ』と言ってたら、全然違ってたでしょうね」といっていた。コメント陣は一斉にうなずいていたが、どう違ったかは、これまた測りようがない。

 既存のメディア、とりわけ一般紙が選挙の報道に慎重なのは、情報が選挙結果を左右するからである。メディアは中立、これが日本の建前で、長年これでやってきた。ところが今回は、そもそもの基礎データが、数字のつまみ食いに走ってしまった。誤解を招くような情報を流して、それが広まっても平気なメディアとは、いったい何なのか。

 朝日新聞の座談会で古川貞二郎・元官房副長官が、「メディアは事柄の軽重にもっと洞察力をもつべきだ。‥‥何が本質なのか、メリハリをつけてほしい」といっていた。意味はわかるが、今回のはそれ以前の話だから気が滅入る。

 民主党が負けたのは、鳩山・小沢の迷走の方がはるかに大きいだろう。バレーボールの三屋裕子がうまいいい方をしていた。「ノーアウト満塁にしたのは誰なんだ。菅さん、枝野さんに自責点はあるのか?」と。菅投手はそこで、消費税という大暴投をやったのだが、さて自責点は?というわけである。

 民主党内には、「総括が必要だ」という声があがっているそうだが、本当に総括が必要なのはメディアの方であろう。鳩山・小沢が迷走していたとき、「事柄の軽重に洞察力」を欠き、「本質」を見誤ったのは間違いないのだから。

2010年7月4日日曜日

ネットのリテラシー


 参院選の選挙期間が半分過ぎたが、新聞・テレビの報道は、ワールドカップのせいもあってか、低調なように見える。討論会に党首が9人も並ぶなんて有様では、有権者の方も手がかりがつかみにくい。

 いまのところ、世論調査で「投票にいく(必ず、多分)」が9割近いというのだけが、変化を予感させる材料だ。去年の衆院選より面白いことになるかもしれない? ここにネットがどう関わってくるかに注目している。

 せっかく一部解禁の流れだったネットでの選挙運動が、小鳩退陣のあおりで法案審議が間に合わず、今回は見送りになった。といっても、公選法はあくまで選挙運動に関する規制だから、運動ではない勝手なブログの書き込みはまったく自由だし、ツイッターに至ってはアミのかけようもない。ネットの政治的発言は、けっこう盛んである。

 驚いたのは、菅首相誕生と同時に、首相を騙るツイッターがいくつも出現したことだった。本物だと思って、フォロワーが1万を超えたものもあったというから、はめられた人は腹も立とう。何百万人が善人でも、ワルは1人2人で効果を出せる。それがネット。

 例えば、「あの候補に投票するな」と書いたら、現行法でも選挙妨害になるかもしれないが、個人のつぶやきで「あいつは嫌いだ」「過去にこんなことをやったやつだ」と書くのは自由だ。内容が事実なら、どうにもならない。そこへまた、巧みにウソや思い込みを織り込まれたりしたら、完全にアウトである。

 「ニセ菅」にしても、投票日の前々日くらいに出現して、あることないこと書かれたら、どうなっただろう。当事者が発見して、警察に通報して、それからネット管理者をたどって‥‥なんてやってるうちに、投票日だ。たとえふん捕まえたとしても後の祭り。どんな影響が出るかは、神のみぞ知るだ。

 だいいち、これが罪になるのか、ならないのかすらよくわからない。ネットの世界は、法律のはるか先をゆく。現行の公選法は、候補者は放っておくと何をするかわからない、という性悪説の上に、あれもいかんこれもいかんと、がんじがらめにした「べからず集」である。

 だから、「選挙のアルバイトに報酬を払ってはいけない」なんていうバカな条項が残っている。最近の選挙で摘発される違反の大部分がこれである。いまどき、無報酬で選挙の手伝いがいるはずがない。みんな払っているのに、不慣れな陣営が証拠を残したりすると、パクリとやられる。

 こんな時代遅れの公選法が、ネットに対応しきれるわけがない。ブログやツイッターの「勝手連」とか「まつり」みたいなこと、逆に貶めるものもが現れてもおかしくはない。とりあえずは、悪意のあるデマ、中傷の類いをすばやく追跡するような手だてを講ずるしかあるまい。しかし、おそらく警察ができるのはそこまでだ。

 ネットの対応は、ネット人がやるしかないのだろう。「ネットのリテラシー」とでもいったらいいか。ウソとホントを見分ける目である。携帯も含めて、ネットに慣れている若い人たちは、相当な目をもっているようだが、危ないのは私のような世代だ。ネットでも活字を見るとまずは信用してしまう。

 面白いもので、純然たる意見を除けば、ネットを流れている情報のほとんどは正確、あるいはバランスされている。ニュースサイトでもチャットでも、内容がおかしいとたちまち突っ込みが入るから、絶えず修正・訂正されていく。結果として、正しい情報がネット上に残る。既存のメディアでは逆立ちしてもできない柔軟性だ。

 ネット百科のウイキペディアがいい例で、論争になるテーマでも、いろんな人が書き込み、訂正していくと、自ずと落ち着くところへ落ち着く、あるいは異論が併記されていく。これはある意味、驚くべきネットの機能である。ただ、スピードのあるネット情報がどう展開するか、これがわからない。

 ひところしきりに、「情報格差」ということがいわれた。ネットを知る、知らないで大きな格差ができるというのだ。それはその通りだろう。

 しかし、ネットを知らない人たちが大いに不利益を被っているかといえば、そんなことはない。ネットで知りうることの大部分は、知らなくてもどうってことないもの。どうしても知ってないといけないものは、少し遅れて普通のメディアに必ず出てくるものである。

 選挙という短い時間の中で起こりうる格差、それに、悪意が重なったらどうなるかだ。ツイッターが暴走したときに、「リテラシー」が働くかどうか。答えはまだ誰も知らない。杞憂であればいい。が、杞憂で終わったら逆に、日本人は何と平和なと、首を傾げるべきかもしれない。

 朝日新聞に気になる記事が出ていた。ネット人への調査で、若い世代ほど他人を信じやすくなっているという。数字の上では、歳をとると見事に疑り深い。ふと、「これは日本だけの現象ではないのか?」と心配になった。

2010年6月5日土曜日

iPadは老人に福音か?


 別にマックのユーザーだからというわけではないが、iPhoneとiPadには気が動く。ひとつは、指一本、画面上での操作性だ。マウスでアイコンを突っつくのはもともとマックのお家芸だが、そのマウスもいらない。モバイルだから、面倒な配線もいらない。

 しばらく前、友人がアメリカで初めてiPadに触ってみたときの印象を、「今後のコンピュータと人間の接点を定義するものになるような気がする」とブログに書いていたのが、ずっと頭に残っている。

 iPhoneを見せてもらったことがあるので、およその見当はつく。あるとき、カメラ仲間でお茶を飲んでいた。1人が黙ってiPhoneをにらんでいたと思ったら、「レンズを手に入れました」という。ネットオークションで札をいれていたのだった。

 「エーッ、それじゃパソコンじゃないか」「そうです」

 以来、アップルストアへ行っては、「iPhoneにキーボードをつけろ」などと店員を困らせていたのだが、それが形になったのがiPadというわけだ(書籍端末というのが予想外だったが)。パソコンとの接し方が変わる? 年寄りにやさしい? という予感である。

 しばらく前、元通産官僚の岸博幸・慶大教授が、朝日新聞のインタビューで「米国発のネット帝国主義を許すな」と危機感を訴えていた。彼は、官僚時代はIT化推進の急先鋒だった、と自ら認める。それがいまや、グーグルだクラウドだと、政府機能まで左右されかねないと。なんだ、今頃気がついたのか。

 その彼も、もうひとつの失敗には気がついていないようだった。マイクロソフトの支配に手を貸したことである。OSももちろんだが、ナビゲーターのInternet Explorerが、政府機関から全国の自治体、学校にいたるまで行き渡っている。ひところ官民をあげて、商売人にすぎないビル・ゲイツを、あたかも先駆者みたいにありがたがった結果だ。

 その一方で、日本製の優れたOS「トロン」を通産省は無視した。日本の産業育成を司る役所として失格である。もし役所だけでもトロンにしていれば、少なくともサイバー攻撃やウイルスの被害を被ることはなかったろう。まあ、トロンはパソコン以外の分野では大いに使われているというが‥‥。

 先頃、フランスとドイツは、政府がInternet Explorerを使わないと宣言したそうだ。不具合が政府の業務の支障になるということらしい。が、日本のお役所はまだ、それに気づいてもいないようだ。他のソフトを知らなければ、そういうものだと思ってしまう。むろん、OSにしてもしかり。

 GMがおかしくなったとき、友人が面白いやりとりを見せてくれた。
 ビル・ゲイツが「コンピューター業界のような競争にさらされていたら、車は25ドルになっていて、燃費はガロン1000マイルになっていただろう」とうそぶいたのだそうだ。これに対してGMが「マイクロソフトの技術があったらこんな車になる」と反論したものだった。これには笑った。

 少し長くなるが、いくつかを抜き出してみると‥‥
 1.特に理由がなくても,2日に1回はクラッシュする。
 2.道路のラインが引き直されるたびに新しい車を買わなくてはならない。
 3.車に乗れるのは,1台に1人だけ。座席は人数分買う必要がある。
 4.エアバッグ動作には「本当に動作して良いか?」という確認がある。
 5.運転操作は,ニューモデル毎に覚え直す。以前の車とは共通性がないから。
 6.エンジンを止めるときは「スタート」ボタンを押す‥‥などなど。
 みんな覚えがあるから、これに書き込みが延々と続いた。ウインドウズの使いにくさとMSの傲岸不遜を皮肉ったらきりがない。

 そもそもソフトで金をとるなんて発想は、草創期の混乱の中だから通用したものだろう。どさくさで大もうけしたビル・ゲイツの商才はたいしたものだが、ソフトの使い勝手を改良しているだけでは、iPod、iPhone、iPadといった発想は生まれてこない。

 シェアを10%に落としながら、頑固にハードとソフトをひとつのものとして抱え込んできたアップルだからこそ、できたのだろう。意地なのか哲学なのか。面白いものである。

 で、いざiPadを手にすれば、もうOSやナビゲーターが何であるか、なんて考える必要もない。用途に応じたソフトだって、よっぽど特殊なものは別として、どんどん無料でダウンロードできるようになるだろう。

 iPadを発売初日に手にした人の感想に、「文字入力はパソコンの方が上」というのがあった。平らな画面上の仮想キーボードは、確かに使いにくそうだ。アップルもわかっていて別売のキーボードがあるらしい。

 うん、それなら当方の望むものに近くなるか? いやいや、そうでもない。老人にゲームはいらない。余命が少ないのにそんなヒマはない。余分なナビも要らない。耳が聞こえないんだから、音楽も要らない。もっとシンプルな端末がほしい。

 友人にそういったら、「使わないもソフトは捨てればいい」といわれてしまった。なるほど、そりゃそうだ。前出の別の友人はすでにiPadを手にしたというから、そのうち感想を聞かせてくれるだろう。それをまた、老人風に翻訳しないといけない。難儀なことだがちょっと楽しみである。

2010年5月14日金曜日

ツイッターがわからねぇ



 メールは普通に使っている。mixiにも参加して、ブツブツいったり、写真を載せたり、ついにはブログとやらにも手を染めることになった。必要から You Tubeにも関わった‥‥まあ、年寄りとしては精一杯やってるつもりなのだが、最近しきりに出てくる「ツィッター」というヤツ。これがよくわからない。

 英語の「さえずり」という意味なのだそうだ。「いま何をしてるんだ」「こんなことがあったよ」といった個人のつぶやき。そんな、どこの何者かもわからない人間のさえずりに目を通すなんて、それでなくても老い先短い身には時間は貴重なのだ‥‥まずはこれだった。

 ところが現実は大いに違うらしい。短いつぶやきに、実に多くの人が目を通していて、反応する。それがまた、次々に伝搬していって、しばしば「こちらの世界」の動きになっているのだと。「世の中、そんなにヒマ人が多いのか」というのは、どうやら「置いてかれた世代」のたわごとであるらしい。

 鳩山首相がツィッターを始めた、と聞いて、「何をまた、お調子者が」と思ったものだが、その書き込みを読んでいる人間(フォロワーというのだそうだ)が60万人と聞くと、あらためてただ事でないと思ってしまう。そんなメディア、いままでなかった。

 例の事業仕分けで、You Tubeの画像と一緒にナマ中継したのがいる。むろんツィッターの方は細切れだろうが、全ては生データだから、重ね書き全体を見れば立派な「記録」プラス「世論調査」である。また、政府の審議会かなにかで、刻々と書き続けた例もある。これは、会議が終わったとたんに、非公式議事録になってだれでも読める。

 とにかくリアルタイムで双方向、伝搬のスピード‥‥どれをとっても、既存のメディアでは、逆立ちしてもできないことだ。これがいまや、政治家、自治体、地域の商店街から吉本興業の芸人たちにまで及ぶらしい。新聞までが始めていて、ツィッターの試行の結果を紙面に載せたりもするという。いったいどうなってるんだ。

 ツィッターは「140文字以内」という制限がある。これがいいという。たしかにネットでは、800字を超えると「長い」という感じになると聞いたことがある。にしても、140字では短かすぎないか? いや、だから気軽に書き込めるんだという。話が煮詰まれば、短くても中身の濃いやり取りは可能だと。なるほど。

 もうひとつは「バケツリレー」だという。「こういうことがあったよ」「だれかがこんなことをいってる」と、情報を右から左へ転送、あるいは引用する。すると、とんでもないところで、ひっかかりが出てくるというのだ。

 衛星テレビが蓮舫議員の声をとりたいと思ったが。秘書と連絡がとれない。そこでツィッターに書き込んだ。するとフォロワーからフォロワーを経て 2時間後に、九州かどこかにいた当人から連絡が入ったそうだ。従来は、探しまくるしかなかった。それが、ツイッターに書きっぱなしで、他の仕事をしていられる。考えられないことだ。

 この右から左というのは、ブログにもあるらしい。それを聞いた時むしろ「何のためにそんなことを?」「だれが読むんだ?」といぶかったものだ。これがツィッターだと、そういうメディアなのだという受け止めにはなる。ただ、なんとなく腑に落ちない。

 南海キャンディーズの山ちゃんこと山里亮太が、レギュラーの番組を休んだとき、放送を観ながらツィッターで突っ込みを入れた、という話があった。メディアの新たな使い方として注目されたというのだが、いったいだれが、テレビを観ながらツィッターを読むんだ? アブナイもいいところ‥‥。

 それ以上に、危うさに慄然とした。お笑いの突っ込みなら毒にも薬にもならないが、これがネガティブな、あるいは悪意のあるニセ情報だったらどうなるか。ウソでも大勢がくり返し叫んだら本当になりかねない。

 今度の参院選では、ネットでの選挙運動が認められるという。が、ブログとHPの書き換えができるだけで、ツイッターはだめだという。まあその方が無難だろう。しかし、個人のつぶやきは選挙運動ではないのだから、もともと規制のしようがない。

 勝手連にもなるだろうし、アンチにもなりうる。もし投票の1日、2日前に妙な「つぶやき」が流れたら‥‥それが本物かどうかの判断もできず修正も追いつかないまま投票になっても、結果は動かせない現実のものになる。これはおそろしい。

 現に、昨年の衆院選で民主党のサイトに無関係な書き込みが集中してサバーがダウンしたそうだ。ある種の「意図」が感じられる。まだツィッターは使われなかったが、ツィッターならもっと大きな力を発揮するだろう。

 全国の選挙区・比例区で、これが起こったらと思うとぞっとする。影響を推し量ることすらできない。たとえ事前の世論調査と投票結果とが大きくズレても、検証すらできまい。

 先頃、福岡の複数の高校が「ツィッター禁止の校則をつくった」という偽情報がツィッターを駆け巡った。メディアが問い合わせて、1日で「ニセ」とわかったが、これが問い合わせできない類いの情報だったらどうなる?

 次の参院選が、「悪しきツイッター元年」として歴史に残らないよう祈るしかない。ツイッターはまだまだ要注意だ。

2010年4月22日木曜日

また集団ヒステリー



 だれもおかしいと思わないんだろうか? 子どものライター遊びによる火災が増えているというので、ライターにストッパーをつけろとか、なんだかんだ‥‥。またいつものヒステリーが始まった。

 たしかにこのところ、子どもがライターで遊んでいたためと見られる火災が続く。アパートで子どもと父親が死んだり、車の中で子ども4人が‥‥とか、悲惨な話だ。これを伝える新聞、テレビの記事は、どれも同じ組み立てである。

 まず東京消防庁のデータで、過去10年間に12歳以下の火遊びによる火災が700件、うちライターによるものが500件。ライターに限ると、5 歳未満の死傷者発生率は79.6%。住宅火災の死者のうち、出火者の年齢では、3歳が飛び抜けて多く、次いで2歳、4歳、5歳だと。

 ライターの販売数は年間約6億個だが、安全基準はない。そこでまた、アメリカだ。1994年に安全基準を設けて、レバーを重くしたり、ストッパーやロック機構をつけたりしたら、ライターが原因の死亡事故(5歳以下)が4分の1以下に減ったと(当たり前だ)。だから、ライターを何とかしないといけないと。

 哀れライターの業界団体、日本喫煙具協会は、ひたすら「やれることから1日も早くやる」と答えるばかりだった。経産省も5月には安全基準を出すという。これでおさまりのいい記事が、一丁あがりである。

 だが、ちょっと待ってもらいたい。ことの大前提がおかしくはないか。ライターは昔からある。子どもだっていつもいるものだ。何も変わっちゃいない。そもそも最近増えているというのは本当か?

 上の数字は、よく見ると実は何もわからない数字なのだ。火をつけた子どもの死亡率が高いのは、当たり前だろう。このところ連続したのを、増えていると勘違いしてはいないか。数字で、ことをあおってはいないか。

 またもし増えているとしたら、何が変わったのか。タバコを吸う人が減った。子どもの数も少し減った。これは間違いない。あと考えられるのは、子どもがバカになったか? それはなかろう。では親がバカになったか。うん、これはありうる?

 その昔はマッチだった。子どもにはマッチのほうがずっと面白い。親もそれはわかっていたから、十分注意深かったはずだ。火は本来危険なもの、恐ろしいものだが、その火をちゃんと使えるからこそ人間なのであって、ぼんくらでも火事を起こさないライターを、なんてのは話が逆だろう。

 いま起こっていることは、集団ヒステリーの典型のように見える。その結果かわいそうに、メーカーが余分なコストアップを強いられる。いまわが家にあるライターは、ほとんどが景品の中国製だが、中国のメーカーを泣かせればいいとでも思っているのだろうか?

 わたしは18、9からタバコを吸っているから、布団を焦がしたり、畳や絨毯、スボンの焼けこげはしょっちゅうだ。親の代から家中にライターが転がっている家だった。2人の子どもは3歳だったことも、2歳も4歳も5歳のときもあった。しかし、家の中で火をつけたことはない。

 火は危ないもの、お湯は熱いもの、これは体感させるからわかる。ちょっとやけどしそうになったり、「アッチッチ」の実感が必要なのだ。知らずに育てば、火を怖いと思わない人間ができるだろう。

 雨や雪でもスリップしない車を作るのはけっこうだが、車とはそういうものだと思う世代が、やがて出てくる。絶対ぶつからない車ができれば、よそ見をしながら運転するヤツが出てくるだろう。人間とはそういうものではないのか。

 安全といえば聞こえはいいが、いってみれば「便利」の話である。便利のためにコストの高いものを作るのが本当にいいのだろうか。ましてそれが「規制」になってしまえば、それ以外のものは、存在しなくなるのである。

 メディアも、もう少し思考の幅を広げてもらわないと困る。取材で数字にまどわされることは、ままある。しかし、10人に1人くらい、「おかしいぞ」といい出すヤツがいてもいいはず。それがいないらしい。その方がライターよりずっと怖い。

 集団ヒステリーでは、アメリカは先進国だ。なにしろ禁酒法を作った国である。戦後のマッカーシー旋風、近年では9.11‥‥禁煙もそれにあたるだろう。

 そのアメリカで、ライターが問題になったのは94年。EUでは06年、日本では今年である。この差は何なのか? この意味を考えることで、問題の本当の所在がわかってくるのではないか。そんな気がするのだが、どうだろう。

2010年3月30日火曜日

政権交代で変わったのはだれ?



 「あれ、エイプリルフールには早いぞ?」。日付は3月27日。それも朝日新聞だ。「鳩山政権 今後を占う」という予測記事に、「5月x日普天間移設に失敗」「6月x日小沢氏に辞任促す」という見出しと、それぞれ短い架空記事がついていた。欧米の新聞ならともかく、日本では珍しい。

 本文はどうってことのない、ああだこうだの観測だが、架空記事の方は、「内閣支持率は2割程度に落ち込んでいた」「首相は小沢氏を官邸に呼んで‥‥『党のために辞任して』」なんていうんだから、なんとも刺激的だ。「週刊朝日かよ」と思った人もいたかもしれない。

 自民党政権時代にはこんな記事は出なかった。あのしっちゃかめっかの麻生首相にも、こういう踏み込み方はしなかった。それが政権交代から半年、事業仕分けから政治とカネの話、普天間の“揺らぎ”を経て、とうとう政治記者までが変わったんだなぁと、ある種の感慨を覚えた。

 同じ紙面にもうひとつ、変化を伝える記事があった。首相の会見にインターネット記者やフリーランスが加わったという話である。120人中40人がこれらの記者で、5人が質問して、中には、平野官房長官の能力不足を指摘して「チェンジしないのか」といったというから面白い。写真には、首相の後ろに平野氏の顔も見える。昔なら、こんな質問は絶対に出なかった。

 新聞、テレビの政治記者ばかりだと、質問することで持っている情報が推し量れるから、デリケートなネタは絶対に突っ込まない。テレビが全部録画してるとなれば、なおさらだ。だから、会見そのものが面白くない。

 しかし、しがらみのない記者たちが入ってくると、会見の空気は間違いなく変わる。メディアの特性が異なるから、何が飛び出すかわからない。爆弾質問だってないとは限らない。聞いている記者たちも即応力が問われるだろうし、いい意味の緊張感が生まれもするだろう。

 本当は記者たちが何を聞いているのかも、聞きたいところである。インタビューだと、質問の仕方で記者の程度がわかるものだが、普通の会見やぶら下がりでは、概ね答えしか伝えられないから、空気がわからない。

 先の記事にも出た平野官房長官なぞは、ニュースの中では、「これこれの問題にこう答えた」とコメント部分しか伝えられないことが多い。が、例えば、例の官房機密費について鳩山首相が「公開する」といったのを受けて、「国益といえるかどうか」といったとき、記者たちがどう切り込んだか。そこが見たいところだ。

 この平野という人、無能かどうかはともかく、官房機密費では当初から後ろ向き発言が多い。しかし、会見場で記者たちと論争になったという話は聞かない。少なくとも、「あなた官房長官でしょ。首相との関係はどうなってる?」「国益とはどういうことだ?」くらいは聞いてもらわないと、「無能はどっちだ」といわれても仕方がなかろう。

 政権交代ではいろんなことがわかった。民主党の幹部には案外権威主義の人が多いなというのがひとつ。まあ、かつて自民党より社会党の方が概してそれが強かったことは、だれもが知っていることだが、野党時代に暴れん坊みたいなイメージだった人までが、「メディアにピリピリしてる」なんていう話を聞くと、やれやれという気にもなる。

 また、与党慣れしていないというのか、権力に酔っているのか、勝手にぺらぺらというのも目立った。首相がまた、それらの食い違いにバンと断を下さないものだから、印象が寄り合い所帯みたいになる。連立の食い違いがこれに輪をかける。

 加えて「政治と金」。鳩山首相の母親資金はずっこけものだが、小沢幹事長のやり口は、自民党そのものである。「政治は数。だから選挙、従って金」というのも、自民党時代から変わらない彼の哲学、というより田中角栄そのものなのだ。ただ、角栄と違って彼には政策がない。

 側近もまた同様なようで、さきに執行部批判をした副幹事長を、「茶坊主」みたいなのが現れて解任にしたかと思うと、一転続投とか、自民党でもやらないようなことまでが起こった。まあ、玉石混淆である。

 これら一つひとつが、すべてオープンに流れるから、メディアも忙しいことだったと思うが、こうした日々から、政治と政治家を見る目が変わって当然だろう。朝日新聞の架空記事が出てきたのも、その結果ではないだろうか。よくいえば、政治を見る目が平たくなったーー政治記者の目線が、社会部や週刊誌記者に少し近くなった?

 ちと読み過ぎかもしれないが、これも政権交代がもたらしたひとつの流れ。メディアの特性の違いはますますはっきりしてきているが、どのメディアだろうと書くのは記者たちだ。こればかりは変わらない。平たい目線の記者がふえて、発する質問が深くなれば、いうことはない。

 このところ、テレビの言葉の拾い方がうまくなってきた。ときどき質問も聞かせる。郵政改革法案での独走を追及された亀井金融・郵政担当相とのやりとりは傑作だった。

 「あなたもうるさいね。どこの社?」「TBSです」「あなた宇宙人じゃなくて、何人だ。了承されたから発表したんでしょ」「総理は了解していないと……」「もう一度聞いてみろよ」「認識が……」「認識じゃない現実だ」「なんでこんなことに?」「君たちが騒いでるだけだ」「修正は必要ない?」「くだらんこと聞くなぁ」

 順番通りではないつなぎあわせだが、実際はずっとやわらかいやりとりだ。新聞では逆立ちしても出せない、ガンコで老かいな狸おやじ、しかし憎めない感じが出ていた。これを文字で読むときつくなって、「この野郎」という気になってしまう。テレビの特性はすばらしい。

 あの記者(女性の声だった)だって、狸おやじに「うるさいねぇ」といわせたらしめたものだ。顔はしっかり覚えてくれているだろうから、「うるさいのが来ましたぁ」と大臣室に遊びにいったら、特ダネのひとつもくれるかもしれない。

 ホントのニュースは人間から出る。民主党幹部から特ダネが出る(もれてくる)ようになったら、与党として一人前になったということなのだが‥‥。

2010年3月22日月曜日

悲しき居酒屋



 補聴器がとうとう寿命になって、長時間の使用ができなくなった。7年以上も使ってきたから、何かがへたってしまったらしい。ちょっと信じられないのだが、物知りによると、補聴器のコアは岩塩なのだそうで、湿気で元へ戻らないところまできてしまったのだと。

 ただ、乾燥剤に入れておくと、1時間半から2時間くらいは何とか機能を回復する。で、限界になると、突然ご臨終だ。雑音になったり聞こえなくなったり。もう半年以上になるが、話をしていて、「あ、申しわけありません。終わりました」と話を切り上げることが多い。

 左はもうほとんど聞こえず、残りの右を頼りに補聴器を使っていた。メーカーに聞いたら、「この型は修理が終わりました」と、マイクロソフトみたいなことをいう。「新しいのを買え」と。しかし、これが結構な値段なのだ。イヌと散歩しているただのおじいさんが、大枚をはたく必要があるかどうか、大いに悩む。補聴器には限界があるからである。

 悲しいかなマイクだから、あらゆる音を均等に拾ってしまう。こちらが必要なのは人の声だけなのに、マイクは町の騒音もテレビの音も隣の人の話声も、何もかも一緒くたに拾って増幅する。

 最初に補聴器を付けたときは、まあ世の中こんなに騒音にあふれていたのか、が実感である。デジタル技術で多少音質を調整したり雑音をカットすることはできるのだが、がやがやわいわいの「居酒屋状態」にはどんな高級機種も対応できない。

 人間の耳は、騒音の中でも自分の聞きたい音を拾い分ける。耳だけではなく、脳で聞いているのだ。難聴はその機能が失われているから、いわば耳自体もマイク化している。そこへ補聴器のマイクを重ねて音量をアップしても、元の耳とはほど遠いものを聞かされることになる。

 その割にはよく使っていた方だと思う。仕事の上でも必要だった。しかし、多人数で重なって飛び交う言葉がつかまえられない。小声の冗談が聞こえない。滑舌の悪い人が聞きとれない。空調の音や小さなテレビの音が邪魔‥‥必要な音の40%もつかまえられただろうか。おそらくそれ以下である。

 そんな風だから、いまたとえ新しい補聴器を仕入れても、結果の見当がついてしまう。効果の割には高すぎるよ、それなら、必要なときだけ時限装置つきの補聴器でいいやと、そういうことなのである。テレビは直接イヤホンで聴く。パソコン見るのに音は要らない。

 ただ、家族との会話はほとんどできなくなった。車も運転できないから、免許証も捨てた。平衡感覚もおかしいから、山登りやスキーはできない。かくて、音の少ない静かな生活は、ひょっとしてぼけるんじゃないか‥‥これはあまりいい気分のものではない。

 ところが、ひょんなことから新兵器が見つかった。前から気になっていたICレコーダーというヤツである。以前はインタビューのときMDを使っていたが、録音状態をモニターすると、補聴器よりはるかに有効だった。そのMDがぶっ壊れたのだ。

 さて最新の機器はどの程度の聞こえなのか。イヤホンをもってヨドバシへいって、片っ端から聞き較べてみた。これが実によく聞こえる。補聴器とくらべても遜色がない。係のお兄さんに「補聴器より音がいいねぇ」といったら、「そりゃそうですよ。マイクが違います」だと。なるほど、補聴器のマイクなんて哀れなほど小さい。

 それでいて、お値段は補聴器の10分の1よりはるかに安い。イヤホンをつけていても、音楽を聴いてるように見えるだろう。これこれ、というので仕入れてきた。デジカメ用のネックストラップで首からぶら下げたり、胸のポケットへ入れたりして、目下テスト中だ。少しづつ不都合もわかってきたが、いざとなったら、相手の目の前に本体を突き出すか、外付けマイクを使えばいい。これで時間切れというのはなくなりそうである。

 現に昨夜、知り合いと食事をしたのだが、「居酒屋状態」の中で、テーブルに本体を放り出しておいたら、なんとかなった。科学技術の進歩はすごいものだ。

 ICレコーダーは、オモチャみたいなメモリチップに音が記録される。しかも12時間とか連続でOKなのだそうだ。かつて国連の記者会見などで、記者たちが弁当箱みたいな録音機を一斉に突き出していた光景を思い出す。小さな新型は決まって日本人だった。それがマイクロテープになりMDになり、いまはだれもがICなのだろう。

 パソコンや携帯電話にしてもそうだ。これらがなかった時代、みんなどうしていたんだろう。あらためて、昔のお年寄りを思う。父も聞こえが悪かった。母は最後まで聞こえていたが、目がダメだった。ふたりとも静かにこたつにすわって、テレビを観たり居眠りしていた。どんな思いで老いに耐えていたのか。

 わたしのいまの聞こえは両親よりはるかにひどいものだが、科学技術のおかげで、まだなんとか健常者(嫌な言葉)の中に入っていくことができる。パソコンのおかげで、文章でのやりとりやブログの発信は普通にできる。遅く生まれた幸せというものなのかなと、つい遠い目になる。

2010年3月16日火曜日

ネットのあちらとこちら

 このページにはカウンターもなし、書き込みもないから、読んでくれてる人がいるのか、ちゃんと見えているのかと心配になって、管理者にメールしてみた。すると、「正常です」という返事があった。まずはひと安心。

 ところがメールの書き方を間違えて、タイトルにメッセージを書いてしまったために、読んだひとがわざわざこのページをのぞいて、ご親切にアドバイスをくれた。これ自体驚きだったが、その内容もまた、目を見張るようなものだった。

 まずは「記事数が少なすぎる」「内容も面白くない」「これではだれも読まない」「読む必要がない」とぼろくそである。この方はブログで「新聞記事の掲載アーカイブ」をやっているのだそうで、1日の書き込みが200から400という。そうなるためにはこれこれと、そのやり方を説いてくれていた。それはいい。

 驚いたのは、なかに「絶対に意見を書いてはいけない」とあったことだった。このブログは、メディアのありようで気になったことを書き留めている個人のつぶやき。だからこそ「メディア日記」なので、つまりは、意見そのものである。だから、これをいけないといわれると困ってしまう。

 どうやら、自分のニュース発信サイトと同じだと勘違いしたらしい。「写真を載せると見てくれる」「動画も面白い」などという。新聞などのニュースサイトか役所のHPから、記事やスピーチを転載しているようで、「アメリカ大統領の声明の原文、訳文を載せたら、云々」などとも書いてあったから、つまりはコピペ。写真もコピペ。ごていねいに「著作権」の注意までしてくれていた。

 yahooやgoogle、既存のメディア以外にもさまざまなニュースサイトがあることは知っていたが、「掲載アーカイブ」というものはまだ見たことがない。しかし、その意味合いはわかる。普通のサイトでは、ニュースの形のものばかりになるが、それらの元になる、声明や覚え書き、判決の全文とかが並んだら、それはたしかに便利だろう。

 日の書き込みが何百というから、PV(ページビュー)は相当な数になるに違いない。驚いた。そういうサイトはいったいどれくらいあるのだろう。

 新聞やテレビが形作っている情報世界とは別に、その何倍ものスピードで情報を拡散しているネットワークが存在している。その世界、つまりあちらの世界に通じている人たちは、こちらの世界の人間でもあるのだが、こちらの世界の大半の人たちは、あちらの存在すらほとんど知らない。そんな2つの世界が併存している。まるでSFだ。

 かつてホリエモンが、「新聞なんか要らない。ニュースはネットを見れば出ている」といったことがあった。「この男はニュースというものをわかってないな」と思ったものだ。ネットだろうと何だろうと、だれかが書いているんだということを、彼はきれいに忘れていたからである。

 いまあるネットのニュースサイトのコアとなるニュースは、既存のメディアが支えている。新聞、通信、放送が作るニュースが配信されて、その先は多少の編集を加えるか、コピペとなるか。それがまた、意見ばかりの2ちゃんねるのようなサイトを経て、はね返っても来る。その中に新しいニュースが加わっていることもあれば、玉石混淆の石だって時には意味を持つだろう。

 ここまではわかる。ネット情報が大きな力をもっていることもわかる。しかしその実像となると、こちらの世界の人間にはまずお手上げである。たとえば異常な注目を集めた事柄では、ニュースサイトへの書き込みが、日に一万を超えることもあるのだそうだ。そんなものだれが読むのか。

 昨年春だったか、当時の麻生首相を応援して「著書を買おう」というネットの呼びかけ(「まつり」というらしい)で、ベストセラーになったことがあった。呼びかけはあちらの世界だが、本が売れるのはこちらの現実である。

 これがもし政治の世界に応用されたら?と、懸念したのはこちらの人たちだったが、あとの選挙で、麻生さんが勝つことはなかった。あちらの人たちも、こちらで投票するときは、使い分けをしていたのだろうか。

 いえるのは、ネットの世界の実像や力を測る物差しを、まだだれも持っていないということである。これは実に不気味だ。力があることはわかる。新聞、テレビがおたおたするくらいなのだから。

 彼我のカベを破ってその力がこちらに及ぶとしたら、どんなときにどんな形になるのだろう。アメリカや韓国の大統領選挙ではすでに、ネットが大きな役割を果たしたといわれる。それが果たしてひな形になるのか。

 おそらくはコピペやリンクの闘いになるのだろうが、そんなものにひきずりまわされてたまるか。そのための方策は、ちょっとへそ曲がりになることである。付和雷同せず大きな声に流されないためには、意地悪じいさん、ばあさんになろう。なに、乗り遅れたって、別に失うものなんかない。

2010年1月27日水曜日

政治家に不動産?


 「民主党がこんなに早く崩れるとは思わなかった」と小泉前首相がいっていた。そしてこう続けた。「政治家が土地やマンション買うなんて聞いたことがない」と。この人の感覚はたしかに鋭い。まさしくそこが核心なのだ。

 小沢幹事長の資金管理団体「陸山会」が世田谷に買った土地の代金をめぐって、国会も肝心の予算審議が脇へいっちゃうような騒ぎ。また、鳩山首相が余分なことをいうものだから、メディアも忙しいことだが、報道もひとつピントがはずれているような気がしてならない。

 この事件では3人の元秘書が逮捕されているが、容疑は政治資金収支報告書への虚偽記載。土地取得をなぜか次の年に記していた。単なる間違いなら修正ですむのが普通だが、今回はその意図が問われている。

 もうひとつは、土地購入代金3億5000万円だかの出所だ。検察は、ダム建設にからむ建設業界のヤミ献金とのからみを疑っているようで、いわば贈収賄の線である。が、職務権限のない野党の人間だったときの話。いかに小沢氏が「天の声」といわれていようと、ゼネコンからとんでもない暴露でもないかぎり、絵に描いたような結果は予想しにくい。

 現に、マスコミの大騒ぎの中で行われた事情聴取のあと、小沢氏は予定になかった会見までして、「事務には関わってない」「金は父の遺産と家族の金だ。不正なことは一切ない」といいきった。どころか「幕引き?」という声も出るほどの落ち着きぶりである。

 過去19年分だか20年分だかの銀行口座を検察に押えられてもなお、「何も出てこない」という自信の表れであろう。検察が3人を逮捕したのは、当然何かを握っているとみるのが常識だが、小沢氏は平然と各地を飛び回って、「幹事長職を全うする」と言い続けている。

 法律でいかに攻められても大丈夫という自信とみていい。多分そうなのだ。むしろ目を向けるべきは、合法の中で彼が何をしてきたか、ではないのか。とくに政治家が不動産を買う意味である。

 自民党の追及チームが、都内の小沢不動産を見て歩いた。バス2台を列ね、それをメディアが追うというばか騒ぎだった。しかし、自宅以外に、いま問題の土地が世田谷に、9カ所のマンション・事務所は都心の一等地というのには驚いた。ほかに地元や沖縄にまで持っている。日本中が「何で?」と思ったことだろう。

 ツアーに参加した平沢勝栄氏も、「驚いた。あるところにはあるもんだ」といっていた。平沢氏はテレビで給与を公開して、「私ですら年間5、6千万円はかかる。だから献金は必要」といっていたが、小沢不動産はそろばんを入れると10億とかいうのだから、そりゃぁびっくりする。

 おまけに、家族ぐるみで3億だ4億だという金が長年金庫に眠っているとはどういうことか? 献金なしには不可能であろう。その実態は? 国民がいま目を向けているのは、そこだ。虚偽記載なんかじゃない。

 テレ朝の「スパモニ」が、政党助成金で面白い絵解きをやっていた。総額319億円が、議員数プラス得票率で配分され、得票率が高いと沢山行く(共産党はもらっていない)。議員一人あたり4千万から5千万円になる。

 助成金は、余ったり、解党しても返す必要はない。また、A党100人が分裂して、A党50人、B党50人になったとする。お金はA党が100人分をとり、B党はゼロ(翌年からになる)。使途については「制限してはならない」(政党助成法4条)とある。ただし「借金の返済」と「貸す(投機)」ことはいけない。

 合法であるかぎり、検察は手を出さない。しかし、資料はすべて検察の手の中にあるのだから、立件できない部分についても、とりわけ金の流れは入念に追うはずだ。そこで何が出てくるか。これは面白い。

 小沢氏でいま問題になっているのが、自由党が解党したときの、助成金の行方である。金に色はついていないから、水掛け論になる可能性はあるにしても、トータルだけでも読めるものはあるはず。

 そこであらためて、なぜ虚偽記載をしたか、複雑な預金の移し替えなどをしたか。それが不動産取得の十分な説明にならなかったら? 合法だろうとなんだろうと国民は黙っていない。それでも幹事長のイスに座っていたら、選挙はもつまい。

 むろん検察は、ヤミ献金の線を追い続けている。小沢幹事長の聴取のあと、元特捜幹部は「隠し玉があっても、あそこでぶつけるようなことはしない」といっていた。政権党の幹事長にまで手を伸ばした以上、真剣勝負だろう。隠し玉は本当にあるのか。3人を逮捕した攻めの根拠は?

 事情聴取のあとも、検察の情報リークは続いている。しかしだんだん話が細かくなってきた。メディアはその袋小路に入り込まない方がいい。

2010年1月6日水曜日

象徴がひとり歩き


 暮れの朝日新聞を見て驚いた。例の天皇と中国・副主席の会見のことだ。記事の書き出しが、「ポイントはルールの妥当性でも天皇の健康でもない」とあったので、「じゃあ何なんだ」と読み進んだら、民主党のごり押しが「象徴天皇制を犯した」という書生論である。あきれた。

 民主党の対応はたしかに生煮えだった。与党慣れしていないから、おそらくは、天皇制なんぞわれわれの手の内だ、というのがもろに出てしまった結果だろう。小沢幹事長の言葉はきつかったが、「たかが役人の分際で」と、ポイントははずしていない。

 問題は「1ヶ月ルール」という訳の分からない決めにある。天皇のご健康からというが、日数の算定に根拠などあろうはずがない。朝日はそこを全部すっ飛ばしているから、話があらぬ方へいってしまう。

 まずは、小沢のいった「国事行為」ではなく「公的行為」だと長々と論証(そんなことはどうでもいい)したあとで、「象徴天皇制」の意味合いをい う。曰く「内閣が責任を負うとは‥‥天皇を意のままに動かしていいわけではない」「象徴天皇にふさわしい非政治性、中立性・公平性を損なわないよう責任を もつのが本来の趣旨だ」と。

 当たり前すぎて異を唱える人間なんかいまい。しかし、「本来の趣旨」とはいいもいったり。後段はそれ自体が解釈であろう。憲法に象徴の意味なん か書いてない。では今回のことで、天皇の「非政治性、中立性・公平性」は損なわれたか。とんでもない。損なわれたのは「1ヶ月ルール」だけなのだ。

 そもそも「象徴天皇制」は、「国体の護持」、即ち天皇制を存続させるための最後の条件であった。きわめて政治的な駆け引きの結果だ。「天皇に実権がなければそれでいい」と、それがマッカーサーの趣旨である。それ以外はすべて後付けの理屈にすぎない。

 ところがその理屈が、いつの間にやら一人歩き。象徴という普通名詞までが、非政治性、中立性などという衣をまとい、絶対的なものであるかのよう にいう。国連、国連とありがたがっている書生論を見るようで、ちゃんちゃらおかしい。要するに、国内の事情だけで天皇制を見ているからそうなるのである。

 一歩日本を出てみるがいい。天皇が「象徴」だなんて、誰も信じまい。アメリカ大統領ですら、1ヶ月前に申し込まないと会見できない人物が、ただの象徴? わかれという方が無理だ。

 70年代の半ば、シンガポールで結婚式に夫婦で招かれたことがある。と、1人の老婆が「日本人は出ていけ」とわめき出した。周囲がとりおさえた のだが、老婆は最後まで憎悪に燃える目でわれわれをにらみつけていた。華僑系のシンガポール人は家系をたどれば必ず1人や2人、日本軍に殺されているとさえいわれ る。

 文科省は近代史を教えないから、若い日本人はほとんど何も知らないが、戦渦を受けた国では、少なくとも悪い話はしっかりと後の世代に伝えている。韓国・朝鮮、中国、台湾、フィリピン‥‥アジアだけではない。

 80年代の半ば、オランダの田舎町で行われた「スリーデーマーチ」を日本人グループは日の丸を掲げて歩いた。取材の帰りにヒッチハイクで乗せて くれた女性に国籍を聞かれ、「日本だ」といったとたん、「まあ、なんということ。私はきのう、40年ぶりに日本人を見たというのに」と絶句した。

 「オランダ」「日本人」「40年ぶり(その時点で)」とくれば、答えはひとつしかない。「インドネシアにいたのか?」「イエス」。彼女は私と同い年だった。終戦時小学2年生である。「私は子どもだったが……母はひどい目にあった」とだけいって、それ以上語らなかった。

 この人たちにとって、天皇は依然として「あのひどい日本人」の象徴(憲法のとは違う)なのである。これらにけりをつけることができたたったひとりの人、昭和天皇は何も語らずに逝った。語らせなかったのは、歴代首相と宮内庁長官である。これ以上政治的な配慮はあるまい。

 昭和天皇にキズをつけまいとしたのは浅知恵だった。結果、お気の毒にもいまの天皇が、自らはあずかり知らぬ重荷を背負わされているのだから。それに口を拭って、象徴だなどときれいごとで通る話ではないはずである。

 宮内庁長官は天上がりの頂点だ。認証官でもあり、歴代内閣もある種特別の扱いをしてきた。それを勘違いしてはいないか。現代版「家令」のつもり かもしれないが、皇太子に「子どもをつくれ」とは思い上がりもいいところ。「1ヶ月ルール」だって、めのこでつくった決めにすぎまい。

 しかも、それを盾に政府に異を唱えるとなると、ある種の権力を形作っているとすら思えてくる。まして「天皇の象徴性」を盾に、政府や外交の業務に妙な物差しを強いるなんて、トンチンカンもいいところだ。そんな「非政治」「中立」など、現実にはありえないのだから。

 政府が責任を持つ以上、ルールの妥当性は調べ直してしかるべきであろう。朝日はこれを「杓子定規こそ中立性の防波堤」などと書いていた。狂った物差しをありがたがってどうする。