2012年1月23日月曜日

羊よ、狼になれ


 電車ではよくiPhoneで新聞や雑誌の記事を読む。ところがしばしば肩を叩かれる。決まっておばあさんだ。優先席の窓の「携帯電話はご遠慮ください」を指差して,ダメという。「これ電話じゃありません。新聞読んでるんです」。時には「カメラですよ」とからかってやる。

 むろん多くは納得しない。にらんだりそっぽを向く。きっといい人たちなんだろう。決まりには従うのが当然だと。決めの当否や背景、機器の進歩までは考えない。まさに日本人。困ったことだ。

 外国人が日本人を評する言葉は「diciplined people(規律正しい人たち)」である。時間も信号もきちんと守る。大地震で電車が止まり,車が渋滞しても、騒ぎを起こす人はいない。略奪ひとつなかった。欧米の記者はこれに驚いて記事を書いていたが、こっちに言わせれば、それがニュースという方が驚きだ。

 日本人がいつもいつも規律正しいわけではないことは、歴史をみれば明らかである。ただ、概して「決まり」には従順だ。なかにはおかしな決まりもあるが、よくよくでないと声はあげない。そのいい例が、東京・千代田区から始まった禁煙条例とJRが始めた「携帯ご遠慮ください」だ。

 禁煙条例の初めはマンガだった。千代田区職員が歩行喫煙者捕まえるのを,テレビカメラが追い回す。ニュースを見ながら、有楽町の中央区側にずらりと並んで、一斉にたばこを吹かしてやろうか,などと考えたものだった。当時は,テレビに顔を出していたので、実際にやるわけにはいかなかったが‥‥。

 まだ評論家だった猪瀬直樹さんがテレビで「空気は千代田区のものじゃないよ」と名言を吐いていたが、その後副知事になってしまったのでどうなったか。条例はいまや地方にまで広がって、喫煙者はおとなしい羊のように、多く町中の喫煙スペースを守っている。

 「携帯ご遠慮」はもっと滑稽だ。携帯電話が出始めた時は、まだ機能も悪かったから大声でしゃべるのが目についた。お調子者がまた電車の中でこれ見よがしにやるものだから、JRが新幹線で、「携帯電話はデッキで」といったのが最初である。

 確かに持っている人も少なかったし、「他の乗客のご迷惑」ではあった。地下鉄や私鉄もこれを援用して、「車内の携帯禁止」が定着した。しかし今や、持っていない人の方が少ないくらいである。機能もよくなってささやくような声でも聞こえる。それでもダメというのは、電車の中ではしゃべるなというに等しい。しかし「そんなバカな」とは誰もいわない。

 機能はさらに進んで、スマートホンは小さなパソコンである。電波がくればどこでも可能だから、いまや電車内はメールやネットニュース、ゲームの場だ。唯一物理的にダメなのが、電波の届かない地下鉄だった。

 その地下鉄車内もついに「圏内」になるという。ソフトバンクの孫社長がツイッターでつぶやいたのが発端。東京都の猪瀬副知事と意見が一致して、まずは都営地下鉄から東京メトロ、名古屋、大阪へと進んだらしい。電波がとどかなかった駅と駅の間にアンテナを設置、通信会社4社が費用を出す。3月には一部をのぞいて実用化するそうだ。

 地下鉄車内でメールがやり取りできれば、ビジネスには大いにプラスだ。そんなことは,だれだってわかっているのに、当の地下鉄が「携帯はご遠慮を」とやってきた手前,消極的だったというから笑ってしまう。15年以上も前の「決め」に縛られる。実態に合わそうともしない。あのおばあさんたちと同じだ。

 こうした意味のない「決め」はまだまだある。ついでだから、カメラの三脚の話をしておこう。江戸東京博物館や恵比寿の東京都写真美術館は三脚禁止だ。守衛に「写真美術館だろう」といってもダメ。東京都の施設では全部そうだった。

 だが,なぜかはわからない。すると知人が、新宿の三井ビルの敷地内でやはり誰何された。黙って引っ込む人ではないので根拠を突っ込んだが,要領をえなかったという。これでようやく見当がついた。

 森ビルだか三井不動産だか知らないが、大規模スペースでの管理マニュアルが「三脚禁止」となっているらしい。それの引き移しで、わけもわからず禁止になったーーそれ以外に考えられない。

 しかも勝手な解釈もある。江戸東京博物館では「三脚は危険物だから」。新宿南口のJR敷地内は、レストランまで並んでいる公共スペースが,三脚はおろか写真撮影まで禁止である。JRの誰かが、三脚禁止を写真禁止と取り違えたに違いない。

 とがめられた人たちは、おそらく素直に従うのだろう。三脚はすたれていたのが、最近は見かけるようになった。デジタルの動画の時代になって、いい絵を撮りたいということらしい。もっと数が増えるといいのだが、羊ではダメだ。狼よ、出よ。へそ曲がりよ集まれ!

2012年1月16日月曜日

脱獄騒ぎで気になったこと



 広島刑務所から脱走した中国人服役囚は,3日目になってようやく捕まった。実のところ、隠れ場所も食い物もなく、寒さの中を刑務所に戻る気だったらしい。まずはめでたしだが、どうにも気になって仕方がない。緊張感のなさは、刑務所だけではなかったからである。

 刑務所は川にはさまれているが、市内にはあと3本の川がある。警察は,橋を封鎖して封じ込める作戦に出て、800人からの捜索態勢をしいた。ところが逃走の足取りを追うと、服役囚は少なくとも2つの橋を渡っている。

 脱走した直後、東の公園まで逃げたが,臭いはそこで消えた。翌朝空き巣に入った家は、刑務所方向へ戻って刑務所を通り過ぎ、川を2つ超えたところだ。そしてさらに西へ進んだ先で目撃されたりした後、空き家で一夜を過ごしたらしい。翌日さらに北の市街地で捕まっている。

 警察官に発砲した殺人未遂の服役囚だから,特別手配になり手配写真が公表された。しかし捕まった男の顔は、写真とはまるで別人だった。白昼の大捕り物に見ていた市民は拍手したというが、その証言は「写真と違う。痩せていた」という。似てない手配写真とは、お笑いもいいところだ。

 結局見つけたのは,児童の登下校を警戒していた私服の女性警官だった。が、その警官は、男が着ていたジャンパーに日本人名があったために一瞬戸惑ったという。彼は、特徴のある毛糸の帽子をかぶっていた。盗まれた衣類の情報が,一線の警官にも通っていなかったのである。

 市民もまた、「凶悪犯だ」「怖い」といいながら、のんびりしていたように見える。白昼下着姿で歩いていた男を、大都市広島で,だれ1人見ていない。そんなことってあるのか? 

 翌日以降はいくつか通報があったようだが、捕まっていない。ということは、通報が遅かったのか。逆に、空き巣や空き家への出入りが騒ぎになると、たちまち目撃者が現れて、「物音がした」「怪しいなと思った」と、テレビカメラに話す。が、多くはそのときは通報していない。

 これは各地で起る他の事件でも実に多い。何年か前、博多で一家四人が殺されて博多湾に沈められた事件があった。犯人が何かを(後に死体とわかる)車に積むのを近所中が見ていた。後で「大勢でわいわいしていた」と証言していたが、だれ1人通報しなかった。

 だれしも覚えがあろう。「悲鳴が聞こえた」「争う物音がした」などの後追い証言をどれだけ見たことか。どうして記者は「なぜすぐ通報しなかったのですか」と聞かないのか。そのひとことで、みな気づくはずだ。

 「空き家に男が出たり入ったりしているので、おかしいなと思った」という若い男性。空き巣に入った家の隣家の男性は、「ミシミシと歩く音がした」。事務所で見かけた男性は、「何してんだ」と怒鳴ったという。だが、しゃべり出すのは騒ぎになってからである。

 この事件では、メディアもひたすら警察発表を追うばかりだった。空き巣に入った。黒いダウンジャケットなどを盗んでいった。飲み食いをして,唾液のDNAが服役囚と一致した。中国に電話をかけていた‥‥これは捜査であって、逃走している危険人物の情報を一刻も早く市民に知らせることとは別だ。

 男は囚人服を脱ぎ捨て、下着姿で逃げた。盗んだ服を着るしかあるまい。なれば、「盗まれた衣類」を絵にして出すべきだろう。捕まったときかぶっていた毛糸の帽子はよく目立つ変わった模様だった。テレビやネットの速報が生きる場面だが、「毛糸の帽子」と文字や言葉で報じてもなんの意味もない。

 男は捕まったとき、10円しか持っていなかった。その金をどうしたのかも不思議だが、逃げる気力を失っていたのが大きい。もし空き巣で現金でも手にして、堂々とコンビニで買い物をして,バスに乗ったらどうだったか。何しろ、手配写真とは顔が違ったのである。

 今回の顛末を、警察がどう総括するかが見ものだ。少なくとも手配写真は問われるだろう。市民の通報ぶりも,広島だけではないから、警察庁レベルで考えることになるだろう。オウムの平田信の「門前払い」やら,緊張感の欠けた話が続いているのだから。

 だが、警察の不手際をつくメディアはなさそうだ。発表をハイハイと聞いているだけのメディアは、結局同罪なのである。発表のアナを見つけて切り込む。市民に伝えるべき情報は何か、警察が出さなければ「出しなさい」「メディアをとことん利用しなさい」と、突っ込まないと警察はわからない。

 警察とはそういうものである。捜査情報はまずは囲い込もうとする。自分たちだけでやろうとする。しかし今回は隠す話ではない。公開の捜索なのだ。市民が一斉に目を光らせる必要がある事態だった。動員した警官の数は800人。対して市民の数は何十万人、目の数のけたが違う。

 これを生かすよう突っついて,仲立ちをするのがメディアの役割だろう。それには、警察とメディアの間に一種の信頼関係が必要なのだが、いまそれがない。どころか、陰の薄いメディアを警察が信用していない。

 ものいわぬメディアは,存在しないも同じだ。ご用聞き取材ばかりの事件報道を見ていると、惨憺たるものだった原発報道も,その延長上にあるのがよくわかる。こんなことを確認させられるのは,悲しいものである。