2009年4月30日木曜日

ヨーギシャのDNA


 SMAPの草彅剛が、酔っぱらって裸で騒いだというので逮捕された。逮捕だけでも驚きなのに家宅捜索までやったと。それも「公然わいせつ」容疑だという。

 石原都知事が、「裸で騒いだらわいせつなの?」といっていたが、これが普通の感覚だろう。午前3時に人気のない公園である。「薬物使用を疑って」というのがあったにせよ、どうみてもやり過ぎだ。

 ドラマやバラエティー、CMにも出まくっている人気者だから、「逮捕」か「お説教」かの違いは大きい。活動自粛、放送中止などで損害は何億という金額になるのだろう。「なんで逮捕なの‥‥」と嘆き節が聞こえてくるようだ。気の毒としかいいようがない。

 逮捕で変わったことがもうひとつあった。あのさわやかで好感のもてる「草彅くん」は、一夜にして「草彅容疑者」になったのである。ニュースはもちろん、ワイドショーでもなんでも、「草彅」と出ればかならず「容疑者」「容疑者」‥‥活字はまあ仕方がないとしても、耳で聞く「ヨーギシャ」が耳障りでしょうがない。

 「草彅サンでいいだろうに」とあるところでいったら、思わぬ反応が返ってきた。「犯罪者なのに、有名人だから特別扱いするのか」というのである。いやそうじゃない。「あれが犯罪かよ」というのはひとまず置くとして、ことは「容疑者」という呼称そのものについてなのだ。

 お年の方は覚えているだろうが、昔は逮捕されたとたんに、新聞でもなんでもすべて呼び捨てになった。おそらく明治の昔からそうだったのだと思う。お上が逮捕したんだから、悪いやつにきまってる、このやろう、というニュアンスである。

 長年何の疑いもなくそうして記事を書いてきて、あるとき「エッ?」ということにぶつかる。ロッキード事件である。次々に逮捕される丸紅の役員たちを、「伊藤」「大久保」「桧山」と呼び捨てにしてきたあとで、とうとう田中角栄が逮捕された。

 いざ記事に書こうとして筆が止まった。いやしくも元首相である。「おい、田中と呼び捨てでいいのかよ」。政治部、経済部、社会部‥‥みんな一瞬立ち往生した。で、結局「元首相」とつけることで落ち着いた。これが、呼び捨てに疑問を抱いた初めだった。

 このときは新聞、テレビどこも同じような対応だった。しかし、その後も呼び捨ては続いた。人権への配慮から、呼び捨てを何とかしなくては、となったのはずいぶん後の話である。

 おそらく新聞協会あたりで論議があったのだろう。細かいいきさつは知らない。が、いつの間にか「容疑者」という言い方が定着していた。逮捕されたら容疑者、起訴されたら被告、無罪あるいは執行猶予なら「○○さん」、服役したら服役囚(あるいは死刑囚)、刑期を終えたら「○○さん」に戻る。

 まったくごくろうさまなことだ。ロス疑惑事件の三浦和義氏(故人)などは、銃撃事件では二審で無罪になったが、その後別の殴打事件で有罪になって服役しているから、ずいぶんとややこしい使い分けが必要だったことだろう。

 そもそもは、呼び捨てである。「太てぇ野郎だ」と敬称をはずしたところから始まっているから、普通に「○○さん」と呼ぶことがなかなかできない。知恵を絞った末にたどり着いた「容疑者」も警察・裁判用語だ。とても敬称とはいえないし、人権に配慮した結果とはいいながら、「太てぇ野郎」をたっぷり引きずっているのである。

 だから、ニュースが「容疑者」「容疑者」といい始めたときは驚いた。とても日本語とはいえない使い方である。語呂も悪いし何よりも耳障りだ。つまらん区別をするくらいなら、いっそ「○○さん」で通した方がすっきりするではないかと、この考えは今も変わらない。

 欧米のメデイアはそうした区別をしない。かのO・J・シンプソンの事件、妻を殺害した容疑で裁かれている間もその後(刑事では無罪、民事では有罪)も、ずっと「ミスター・シンプソン」である。人権なんか持ち出す必要もない。

 「容疑者」はもう20年にはなるだろう。これだけ長いこと使われ続けると、とくに若い人には全く違和感がないらしい。だから草彅くんの一件でも、「逮捕されたんだから、当然だ」ということになる。微罪だろうと重罪だろうとおかまいなし。いわくを知る、知らないにかかわらず、「太てぇ野郎」のDNAはしっかりと受け継がれているのである。

 しかし、同じテレビ局できのうまで「草彅さん」と一緒に仕事をしていたアナウンサーが、「容疑者」「容疑者」と呼んでいるのは、もうマンガだ。

 あるトーク番組で女子アナが、「草彅さん」といってから「いまは容疑者ですが」といったのには笑った。「ニュースじゃないんだから、草彅さんでいいじゃないか」

 とはいえ、かくいう私も「麻原彰晃さんと呼べるか」と聞かれたら、ぐっと詰まってしまう。裁判中だろうとなんだろうと敬称を付ける気には、とてもなれない。「太てぇ野郎」は健在なのだ。「氏ならまだ我慢できるか?」

 あらためて思ってしまう。つくづく日本語とは微妙な言葉だなと。