2010年3月30日火曜日

政権交代で変わったのはだれ?



 「あれ、エイプリルフールには早いぞ?」。日付は3月27日。それも朝日新聞だ。「鳩山政権 今後を占う」という予測記事に、「5月x日普天間移設に失敗」「6月x日小沢氏に辞任促す」という見出しと、それぞれ短い架空記事がついていた。欧米の新聞ならともかく、日本では珍しい。

 本文はどうってことのない、ああだこうだの観測だが、架空記事の方は、「内閣支持率は2割程度に落ち込んでいた」「首相は小沢氏を官邸に呼んで‥‥『党のために辞任して』」なんていうんだから、なんとも刺激的だ。「週刊朝日かよ」と思った人もいたかもしれない。

 自民党政権時代にはこんな記事は出なかった。あのしっちゃかめっかの麻生首相にも、こういう踏み込み方はしなかった。それが政権交代から半年、事業仕分けから政治とカネの話、普天間の“揺らぎ”を経て、とうとう政治記者までが変わったんだなぁと、ある種の感慨を覚えた。

 同じ紙面にもうひとつ、変化を伝える記事があった。首相の会見にインターネット記者やフリーランスが加わったという話である。120人中40人がこれらの記者で、5人が質問して、中には、平野官房長官の能力不足を指摘して「チェンジしないのか」といったというから面白い。写真には、首相の後ろに平野氏の顔も見える。昔なら、こんな質問は絶対に出なかった。

 新聞、テレビの政治記者ばかりだと、質問することで持っている情報が推し量れるから、デリケートなネタは絶対に突っ込まない。テレビが全部録画してるとなれば、なおさらだ。だから、会見そのものが面白くない。

 しかし、しがらみのない記者たちが入ってくると、会見の空気は間違いなく変わる。メディアの特性が異なるから、何が飛び出すかわからない。爆弾質問だってないとは限らない。聞いている記者たちも即応力が問われるだろうし、いい意味の緊張感が生まれもするだろう。

 本当は記者たちが何を聞いているのかも、聞きたいところである。インタビューだと、質問の仕方で記者の程度がわかるものだが、普通の会見やぶら下がりでは、概ね答えしか伝えられないから、空気がわからない。

 先の記事にも出た平野官房長官なぞは、ニュースの中では、「これこれの問題にこう答えた」とコメント部分しか伝えられないことが多い。が、例えば、例の官房機密費について鳩山首相が「公開する」といったのを受けて、「国益といえるかどうか」といったとき、記者たちがどう切り込んだか。そこが見たいところだ。

 この平野という人、無能かどうかはともかく、官房機密費では当初から後ろ向き発言が多い。しかし、会見場で記者たちと論争になったという話は聞かない。少なくとも、「あなた官房長官でしょ。首相との関係はどうなってる?」「国益とはどういうことだ?」くらいは聞いてもらわないと、「無能はどっちだ」といわれても仕方がなかろう。

 政権交代ではいろんなことがわかった。民主党の幹部には案外権威主義の人が多いなというのがひとつ。まあ、かつて自民党より社会党の方が概してそれが強かったことは、だれもが知っていることだが、野党時代に暴れん坊みたいなイメージだった人までが、「メディアにピリピリしてる」なんていう話を聞くと、やれやれという気にもなる。

 また、与党慣れしていないというのか、権力に酔っているのか、勝手にぺらぺらというのも目立った。首相がまた、それらの食い違いにバンと断を下さないものだから、印象が寄り合い所帯みたいになる。連立の食い違いがこれに輪をかける。

 加えて「政治と金」。鳩山首相の母親資金はずっこけものだが、小沢幹事長のやり口は、自民党そのものである。「政治は数。だから選挙、従って金」というのも、自民党時代から変わらない彼の哲学、というより田中角栄そのものなのだ。ただ、角栄と違って彼には政策がない。

 側近もまた同様なようで、さきに執行部批判をした副幹事長を、「茶坊主」みたいなのが現れて解任にしたかと思うと、一転続投とか、自民党でもやらないようなことまでが起こった。まあ、玉石混淆である。

 これら一つひとつが、すべてオープンに流れるから、メディアも忙しいことだったと思うが、こうした日々から、政治と政治家を見る目が変わって当然だろう。朝日新聞の架空記事が出てきたのも、その結果ではないだろうか。よくいえば、政治を見る目が平たくなったーー政治記者の目線が、社会部や週刊誌記者に少し近くなった?

 ちと読み過ぎかもしれないが、これも政権交代がもたらしたひとつの流れ。メディアの特性の違いはますますはっきりしてきているが、どのメディアだろうと書くのは記者たちだ。こればかりは変わらない。平たい目線の記者がふえて、発する質問が深くなれば、いうことはない。

 このところ、テレビの言葉の拾い方がうまくなってきた。ときどき質問も聞かせる。郵政改革法案での独走を追及された亀井金融・郵政担当相とのやりとりは傑作だった。

 「あなたもうるさいね。どこの社?」「TBSです」「あなた宇宙人じゃなくて、何人だ。了承されたから発表したんでしょ」「総理は了解していないと……」「もう一度聞いてみろよ」「認識が……」「認識じゃない現実だ」「なんでこんなことに?」「君たちが騒いでるだけだ」「修正は必要ない?」「くだらんこと聞くなぁ」

 順番通りではないつなぎあわせだが、実際はずっとやわらかいやりとりだ。新聞では逆立ちしても出せない、ガンコで老かいな狸おやじ、しかし憎めない感じが出ていた。これを文字で読むときつくなって、「この野郎」という気になってしまう。テレビの特性はすばらしい。

 あの記者(女性の声だった)だって、狸おやじに「うるさいねぇ」といわせたらしめたものだ。顔はしっかり覚えてくれているだろうから、「うるさいのが来ましたぁ」と大臣室に遊びにいったら、特ダネのひとつもくれるかもしれない。

 ホントのニュースは人間から出る。民主党幹部から特ダネが出る(もれてくる)ようになったら、与党として一人前になったということなのだが‥‥。

2010年3月22日月曜日

悲しき居酒屋



 補聴器がとうとう寿命になって、長時間の使用ができなくなった。7年以上も使ってきたから、何かがへたってしまったらしい。ちょっと信じられないのだが、物知りによると、補聴器のコアは岩塩なのだそうで、湿気で元へ戻らないところまできてしまったのだと。

 ただ、乾燥剤に入れておくと、1時間半から2時間くらいは何とか機能を回復する。で、限界になると、突然ご臨終だ。雑音になったり聞こえなくなったり。もう半年以上になるが、話をしていて、「あ、申しわけありません。終わりました」と話を切り上げることが多い。

 左はもうほとんど聞こえず、残りの右を頼りに補聴器を使っていた。メーカーに聞いたら、「この型は修理が終わりました」と、マイクロソフトみたいなことをいう。「新しいのを買え」と。しかし、これが結構な値段なのだ。イヌと散歩しているただのおじいさんが、大枚をはたく必要があるかどうか、大いに悩む。補聴器には限界があるからである。

 悲しいかなマイクだから、あらゆる音を均等に拾ってしまう。こちらが必要なのは人の声だけなのに、マイクは町の騒音もテレビの音も隣の人の話声も、何もかも一緒くたに拾って増幅する。

 最初に補聴器を付けたときは、まあ世の中こんなに騒音にあふれていたのか、が実感である。デジタル技術で多少音質を調整したり雑音をカットすることはできるのだが、がやがやわいわいの「居酒屋状態」にはどんな高級機種も対応できない。

 人間の耳は、騒音の中でも自分の聞きたい音を拾い分ける。耳だけではなく、脳で聞いているのだ。難聴はその機能が失われているから、いわば耳自体もマイク化している。そこへ補聴器のマイクを重ねて音量をアップしても、元の耳とはほど遠いものを聞かされることになる。

 その割にはよく使っていた方だと思う。仕事の上でも必要だった。しかし、多人数で重なって飛び交う言葉がつかまえられない。小声の冗談が聞こえない。滑舌の悪い人が聞きとれない。空調の音や小さなテレビの音が邪魔‥‥必要な音の40%もつかまえられただろうか。おそらくそれ以下である。

 そんな風だから、いまたとえ新しい補聴器を仕入れても、結果の見当がついてしまう。効果の割には高すぎるよ、それなら、必要なときだけ時限装置つきの補聴器でいいやと、そういうことなのである。テレビは直接イヤホンで聴く。パソコン見るのに音は要らない。

 ただ、家族との会話はほとんどできなくなった。車も運転できないから、免許証も捨てた。平衡感覚もおかしいから、山登りやスキーはできない。かくて、音の少ない静かな生活は、ひょっとしてぼけるんじゃないか‥‥これはあまりいい気分のものではない。

 ところが、ひょんなことから新兵器が見つかった。前から気になっていたICレコーダーというヤツである。以前はインタビューのときMDを使っていたが、録音状態をモニターすると、補聴器よりはるかに有効だった。そのMDがぶっ壊れたのだ。

 さて最新の機器はどの程度の聞こえなのか。イヤホンをもってヨドバシへいって、片っ端から聞き較べてみた。これが実によく聞こえる。補聴器とくらべても遜色がない。係のお兄さんに「補聴器より音がいいねぇ」といったら、「そりゃそうですよ。マイクが違います」だと。なるほど、補聴器のマイクなんて哀れなほど小さい。

 それでいて、お値段は補聴器の10分の1よりはるかに安い。イヤホンをつけていても、音楽を聴いてるように見えるだろう。これこれ、というので仕入れてきた。デジカメ用のネックストラップで首からぶら下げたり、胸のポケットへ入れたりして、目下テスト中だ。少しづつ不都合もわかってきたが、いざとなったら、相手の目の前に本体を突き出すか、外付けマイクを使えばいい。これで時間切れというのはなくなりそうである。

 現に昨夜、知り合いと食事をしたのだが、「居酒屋状態」の中で、テーブルに本体を放り出しておいたら、なんとかなった。科学技術の進歩はすごいものだ。

 ICレコーダーは、オモチャみたいなメモリチップに音が記録される。しかも12時間とか連続でOKなのだそうだ。かつて国連の記者会見などで、記者たちが弁当箱みたいな録音機を一斉に突き出していた光景を思い出す。小さな新型は決まって日本人だった。それがマイクロテープになりMDになり、いまはだれもがICなのだろう。

 パソコンや携帯電話にしてもそうだ。これらがなかった時代、みんなどうしていたんだろう。あらためて、昔のお年寄りを思う。父も聞こえが悪かった。母は最後まで聞こえていたが、目がダメだった。ふたりとも静かにこたつにすわって、テレビを観たり居眠りしていた。どんな思いで老いに耐えていたのか。

 わたしのいまの聞こえは両親よりはるかにひどいものだが、科学技術のおかげで、まだなんとか健常者(嫌な言葉)の中に入っていくことができる。パソコンのおかげで、文章でのやりとりやブログの発信は普通にできる。遅く生まれた幸せというものなのかなと、つい遠い目になる。

2010年3月16日火曜日

ネットのあちらとこちら

 このページにはカウンターもなし、書き込みもないから、読んでくれてる人がいるのか、ちゃんと見えているのかと心配になって、管理者にメールしてみた。すると、「正常です」という返事があった。まずはひと安心。

 ところがメールの書き方を間違えて、タイトルにメッセージを書いてしまったために、読んだひとがわざわざこのページをのぞいて、ご親切にアドバイスをくれた。これ自体驚きだったが、その内容もまた、目を見張るようなものだった。

 まずは「記事数が少なすぎる」「内容も面白くない」「これではだれも読まない」「読む必要がない」とぼろくそである。この方はブログで「新聞記事の掲載アーカイブ」をやっているのだそうで、1日の書き込みが200から400という。そうなるためにはこれこれと、そのやり方を説いてくれていた。それはいい。

 驚いたのは、なかに「絶対に意見を書いてはいけない」とあったことだった。このブログは、メディアのありようで気になったことを書き留めている個人のつぶやき。だからこそ「メディア日記」なので、つまりは、意見そのものである。だから、これをいけないといわれると困ってしまう。

 どうやら、自分のニュース発信サイトと同じだと勘違いしたらしい。「写真を載せると見てくれる」「動画も面白い」などという。新聞などのニュースサイトか役所のHPから、記事やスピーチを転載しているようで、「アメリカ大統領の声明の原文、訳文を載せたら、云々」などとも書いてあったから、つまりはコピペ。写真もコピペ。ごていねいに「著作権」の注意までしてくれていた。

 yahooやgoogle、既存のメディア以外にもさまざまなニュースサイトがあることは知っていたが、「掲載アーカイブ」というものはまだ見たことがない。しかし、その意味合いはわかる。普通のサイトでは、ニュースの形のものばかりになるが、それらの元になる、声明や覚え書き、判決の全文とかが並んだら、それはたしかに便利だろう。

 日の書き込みが何百というから、PV(ページビュー)は相当な数になるに違いない。驚いた。そういうサイトはいったいどれくらいあるのだろう。

 新聞やテレビが形作っている情報世界とは別に、その何倍ものスピードで情報を拡散しているネットワークが存在している。その世界、つまりあちらの世界に通じている人たちは、こちらの世界の人間でもあるのだが、こちらの世界の大半の人たちは、あちらの存在すらほとんど知らない。そんな2つの世界が併存している。まるでSFだ。

 かつてホリエモンが、「新聞なんか要らない。ニュースはネットを見れば出ている」といったことがあった。「この男はニュースというものをわかってないな」と思ったものだ。ネットだろうと何だろうと、だれかが書いているんだということを、彼はきれいに忘れていたからである。

 いまあるネットのニュースサイトのコアとなるニュースは、既存のメディアが支えている。新聞、通信、放送が作るニュースが配信されて、その先は多少の編集を加えるか、コピペとなるか。それがまた、意見ばかりの2ちゃんねるのようなサイトを経て、はね返っても来る。その中に新しいニュースが加わっていることもあれば、玉石混淆の石だって時には意味を持つだろう。

 ここまではわかる。ネット情報が大きな力をもっていることもわかる。しかしその実像となると、こちらの世界の人間にはまずお手上げである。たとえば異常な注目を集めた事柄では、ニュースサイトへの書き込みが、日に一万を超えることもあるのだそうだ。そんなものだれが読むのか。

 昨年春だったか、当時の麻生首相を応援して「著書を買おう」というネットの呼びかけ(「まつり」というらしい)で、ベストセラーになったことがあった。呼びかけはあちらの世界だが、本が売れるのはこちらの現実である。

 これがもし政治の世界に応用されたら?と、懸念したのはこちらの人たちだったが、あとの選挙で、麻生さんが勝つことはなかった。あちらの人たちも、こちらで投票するときは、使い分けをしていたのだろうか。

 いえるのは、ネットの世界の実像や力を測る物差しを、まだだれも持っていないということである。これは実に不気味だ。力があることはわかる。新聞、テレビがおたおたするくらいなのだから。

 彼我のカベを破ってその力がこちらに及ぶとしたら、どんなときにどんな形になるのだろう。アメリカや韓国の大統領選挙ではすでに、ネットが大きな役割を果たしたといわれる。それが果たしてひな形になるのか。

 おそらくはコピペやリンクの闘いになるのだろうが、そんなものにひきずりまわされてたまるか。そのための方策は、ちょっとへそ曲がりになることである。付和雷同せず大きな声に流されないためには、意地悪じいさん、ばあさんになろう。なに、乗り遅れたって、別に失うものなんかない。