2012年12月7日金曜日

定点観測で大掃除ってのはどうだ



 結局政党は12になった。4日公示された衆院選は、小選挙区で1294人が届け出て、比例区では未来、維新でかなりの届け出の遅れが出た。どたばた、といっていい状況は、野田首相の仕掛けが当たったといえなくもない。政局という言葉は好きになれないが、今度のは久しぶりに面白い。 

 野田のねらいは、明確に第3極潰し、さらには小沢潰しだった。だれもが年末・年明けと読んでいた解散を早めれば、政策調整やらなにやら混乱を招く。年が明けなければ政党交付金は入らない。民主の離党にも歯止めがかかる‥‥この目算だけはちょっと外れたが、野田という男は相当な策士である。今の民主でここまで腹がくくれる人間はいない。 

 案の定第3極は大混乱になった。橋下徹の日本維新の会と石原慎太郎の太陽の会がくっついて、橋下・石原の個人の好みが優先したことで、政策面ではおかしなことになった。維新と協調のはずだったみんなの党がはじき出され、同じく袖にされた河村たかしの減税日本も、亀井静香とくっついたり。 

 さらに「後出しじゃんけん」で嘉田由紀子・滋賀県知事が「未来の党」で「この指とまれ」とやるとは、誰も予測できなかった。野田にも想定外だったろうが、実は「国民の生活」の小沢一郎が仕掛人だったのだから、これまた相当なものである。しかし第3極は3つないし4つに分断され、結果的に野田の狙いは当たった。 

 勝ち負けはともかく、野田は、敵を自民と思い定めている。今の小選挙区制では小さい政党に芽はない。3極が混乱すれば、あとは自民だ。なんとか踏みとどまれると読んだようだ。 

 解散の時点で何人かの評論家が、選挙での議席数を予想していたが、大方は自民、維新、民主とする中で、田原総一朗だけが「民主は意外に善戦する」と2位にしていたのが面白い。メディアも多くが第3極の混乱を読み切れず、ことの展開でそれに気づくまでに一拍あった。 

 解散でいちばん青くなったのは、小沢一郎だったろう。民主党を抜けて48人を擁していても、中身はチルドレンとがらくただ。「消費税反対」と「脱原発」では支持率もあがらない。新聞からも、しばらく小沢の名前が消えていた。 

 彼は必死だった。動きも素早かった。直談判で嘉田を説き伏せ、嘉田が会見すると即日合流を決めた。しかも、自らは役職に就かない。なりふり構わぬとはこのことだ。 

 メディアは一斉に、「小沢は母屋を乗っ取るのではないか」と書いた。「未来」の国会議員の大半は小沢派だ。候補者選定のメカニズムもない。公示まで1週間。選挙は小沢が仕切ることになる。たしかにいつか来た道だ。 

 ここで民主からも自民からも「(未来は)民主党の二の舞いになる」という声が上がったのが面白い。小池百合子はテレビで、「3年間まざまざと見てきた。また同じことをやるのか」とまでいった。かれらは冷静にみていたのだった。 

 民主党のごたごたの元凶は常に小沢だった。小沢がいなくなれば、民主党はすっきりする。だれもがわかっていたこの構図を、だれも口にせず、メディアも書かなかったのは、数の論理と「小沢待望論」がセットであったからだ。 

 小沢が新人議員に「君らの仕事は次の選挙で当選することだ」といったとき、バカなメディアは反発もしなかった。小沢待望論はメディアにも根強くあったのである。有権者にいわせれば、そんな議員要らない。戻ってこなくていい。小沢もまた要らないはずなのだが‥‥ 

 彼はとりあえず、票になる組織を手に入れた。「卒原発」以外になかった公約に、あれやこれや付け加えたのも、「この指とまった」面々を選挙区・比例区に割り付けたのも、小沢であろう。この辺りはプロだ。あとはいつものドブ板選挙‥‥のはずだった。 

 が、届け出の4日の夕刊を見て驚いた。「未来」は選挙区には107人とあるのに、比例区がゼロ。比例名簿の提出が、締め切りぎりぎりになったのだという。その理由がふるってる。代表代行の飯田哲也が、自分(山口1区の重複)を含めた順位の入れ替えを指示して、大混乱になったのだと。 

 思わず小沢の顔を思い浮かべた。もし間に合わなかったら、小沢も子飼いも「未来」も墓場行きだった。選挙の結果がどうあれ、これが尾をひかないはずはあるまい。嘉田も飯田も小沢が知らない人種である。とりわけ飯田はエネルギー学者で「脱原発」のゴリゴリ。面白いゲームになるだろう。 

 かくて始まった選挙では、消費税と原発とTPPの賛否が入り組んで、まことにわかりにくい。しかし、有権者はバカじゃない。この3年余続いた民主党のごたごたのお陰で、政治の性根がよく見えるようになった。マニフェストが公約に変わろうと、選挙で掲げる政策なんて、おおざっぱな信号みたいなものだ。赤を信用するか、青を選ぶか。 

 それよりも、ここはひとつ視点を変えて、国会に要らない人間を追い出す「大掃除選挙」と考えたらどうだろう。定点観測よろしく、どっかと座って見据えれば、自ずと性根は見えてくる。人間を見よう。素性を見よう。変節を見よう。その方がすっきりして選びやすい。(敬称略) 


2012年11月2日金曜日

写真を取り違えるなんて



 尼崎市の連続死体遺棄事件は、男女8人が死亡または不明という何とも奇怪な話だが、その報道でまた、メディアが脇の甘さをさらけ出した。中心人物として連日名前が出ている角田美代子被告(64=傷害致死などで起訴)とされる写真が別人のものだったのだ。

 読売新聞が最初だったらしいが、共同通信も流したため、ほとんどのテレビ・新聞が使っていた。角田の長男の小学校の入学式で撮った記念写真、という説明だった。長男の年齢からすれば、20年も前の写真ということになるが、角田はすでに40前後だったはずだ。

 そこへ「これは私の写真です」と尼崎市在住の女性(54)が弁護士を通して名乗り出たのである。各社一斉に謝った。面白いのは朝日新聞で、同じ写真を入手していたが、「別人の可能性」があるとして使わなかったという。

 先頃の「iPS細胞移植」の誤報を思い出した。読売が得ダネで報じて、共同も追いかけたが、朝日は取材はしていたが「怪しい」と記事にしなかった。朝日は抜き合いには弱いくせに、疑り深いらしい。それはそれでいいことだが‥‥。

 腑に落ちないのは、同じ写真がどうしていくつものメディアに顔を出したか、である。共同にしても、ヨミからもらうはずはないから、同じ写真をもとに「これが角田だ」と示した人間がいたはず。まずはその人間が確かなのか。さらに、周囲のだれもが「角田だ」と確認したのか。

 そんなはずはあるまい。要するにどこかで取材の手を抜いていたのである。件の女性は、彼女の写真がなぜ「角田」に化けたのかを知りたいといっているそうだ。メディアが誠実なら、遠からず弁護士はそのいきさつを明らかにできるだろう。大いに興味のあるところである。

 一連の報道でさらに腑に落ちないのは、この角田という女の素性が一向に見えないことだ。尼崎出身で4人家族だとか、スナックで働いていたとか、タクシー運転手と結婚したとか、話がとびとびであやふや。近年の女王様暮らしに至るまでが見えてこないのは、実に奇妙だ。

 一昔前なら、市役所へ駆け込んで戸籍謄本から関係者をたどって、芋づる式に素性を割り出すのは、真っ先にやることだった。顔写真なんか、その過程で簡単に手に入ったものである。いま、個人情報保護でその手は使えなくなった。わかっているのは警察だけだ。しかし、その警察から情報がとれない。

 連日伝えられる事件の相関図は、角田被告の縁戚関係と死者・不明者の位置づけだ。8人以外にも事故死や病死者がいて、保険金詐欺を疑われるケースもある。しかし、「戸籍上の妹」だとか、わけのわからない人物が並んで、まるで判じ物だ。

 しかも、肝心の部分——角田から先がない。結婚していたのなら夫はどこへいった、両親や兄弟は、学校は、どんな生き方をしてきたのか‥‥接点のあった人間がいない。警察が知らせたくない、メディアに荒らされたくない部分が、すっぽりと抜け落ちているのではないか。

 事件は今後、死体遺棄の実行犯から殺人の解明へ、さらに金を脅し取ったり、詐取した経緯、保険金にまで伸びていくのだろう。それだけでも前代未聞の出来事だが、警察はもっと先をいっているはず。メディアは小出しの情報で体よく操られているようだ。

 肝心の角田の顔はいまもってわからない。護送される警察車両の後部座席で、カバーの下から片目だけが光っている不鮮明な画像だけだ。そのくせ自宅近くの商店街では、取り巻きを引き連れて歩く姿を大勢が見ている。マンションに招かれた人すらいた。他人の写真と見間違えるはずなぞなかろう。

 写真の取り違えは、取材のイロハを怠ったためだ。だが、情報を一方的に警察に抑えられてしまうようになったのも、メディアが招いたことである。連帯感をなくしてバラバラになったツケといっていい。要するになめられているのである。

 かつては警察でも官庁でも、メディアに受けの悪い役人は絶対に偉くなれないといわれた。ある経済官庁で、会見でよく記者たちに怒鳴られている課長がいた。「なんでボクは叱られるんでしょう」という彼を、特集記事で取りあげた。と、先輩が「君の記事で彼は生き返ったよ」といった。彼はその後とんとんと偉くなって、終いに国会議員になった。

 別にメディアに力があるわけではない。ただ、記者たちの眼を官は無視できなかった。警察でも、各社の警視庁キャップが集まれば、警視総監は耳を傾けざるをえなかった。だからこそ、こっそり情報が漏れてもきた。相互に信頼関係があったからである。

 いま、それが見事になくなった。事件報道の実際を見ていると、メディアはほとんどご用聞き。発表に注文をつけることすらできないらしい。そのくせ、「捜査関係者への取材でわかった」と書く。どんな取材だ。

 ちょうど、警視庁キャップだった先輩の訃報が届いた。メディアも警察も生き生きとしていた時代。古き良きとはいわないが、同じ時代を生きた元キャップは何人もいる。「なんでこうなっちゃったの」と聞いてみたい。彼らも歯ぎしりをしているはずだ。

2012年8月25日土曜日

死んではいけない


 シリアのアレッポでジャーナリストの山本美香さん(45)が死んだ。一報を聞いて「命をかけるほどの報道なんてあるのか」と思った。惜しい。彼女とは昔、衛星放送でわずかながら接点があった。その「美香ちゃん」はその後本物に育っていた。それだけに、ますます惜しい。

 撃たれた場所は、反政府の自由シリア軍と政府軍の民兵が交錯する危険地帯だった。が、残された映像には、赤ちゃんをかごに入れて歩く男性やテラスからのんびりと見下ろす女性や子どもたちの姿があった。通りを普通に人が歩いている。それが突然、銃声とともに途切れる。

 同行していた通信社ジャパンプレス(山本さんが所属)代表の佐藤和孝さん(56)の映像には、通りの反対側を近づいてくる武装した迷彩服の一団がいた。その前方にいた普通の身なりの男が、山本さんらを指して「ヤバーニ(日本人)がいる」と叫んで迷彩服を振り返った。とたんに銃撃が始まった。

 佐藤さんの映像は、通りを走って逃げる。しかし、山本さんはおそらく、映像が止まった最初の一撃で撃たれていた。致命傷は背骨と脊髄への被弾で、防弾チョッキを貫いていたという。至近距離から追い撃ちの可能性もある。

 さらに奇妙なのは、美香ちゃんのカメラにはそのあと、24分にわたって映像が写っていた。拾い上げたおそらく自由シリア軍の兵士が、スイッチをいれてしまい、それと知らずに持ち歩いていたらしい。カメラをのぞき込む男や町の光景があった。また、焦点の定まらない映像には、会話が入っていた。

 「彼女が目を撃たれた」「日本人なのか? 腕を見たか。かわいそうに、すごい傷だ」「見たよ」「やつら(民兵)はひきょうだ。こういう罠は初めてか? 民兵がお前たちの仲間にまぎれていたように見えたが」「仲間のことは全員知っている。そんなことはない」(テレ朝「モーニングバード」)

 中東のテレビ、アルジャジーラは、拘束された民兵の証言から、山本さんの殺害はアレッポの政治治安局の高官の命令だった、と伝えた。シリアでは、今年だけで内外のジャーナリスト27人が命を落としている。外国人記者の殺害は、入国を阻むための脅しだ。数が多いほど効果はあがる。

 そのダシに使われたということだ。相手はだれでもよかった。日本人記者が来るという情報は筒抜けだった。「ヤバーニ」と叫んだ男は、市民にまぎれたスパイだったのだろう。まったく、なんという巡り合わせか。

 シリアに入っている日本人ジャーナリストは少なくない。佐藤さんらも、政府軍の空爆の跡を撮りに入ったのだった。一般市民を無差別に殺している現実を伝えることは、確かに大きな意味がある。

 しかし、酷ないい方になるが、彼らが伝えるニュースのどれひとつをとっても、命をかけるほどのものはない。せいぜいが単発のルポ。大方はニュースのバックに流れるお飾りだ。大手のメディアが、自前の特派員の派遣に慎重なのは、そのためだ。その程度のネタに危険は冒せないと。

 独立系ジャーナリストたちは、いわばその下請けの役を果たしている。アフガン・イラク戦争がその最初だった。彼女と佐藤さんがボーン・上田賞の特別賞を受賞したバグダッドの仕事は、大手がみな逃げ出したあとを撮ったという、皮肉な意味合いもあった。

 しかし、紛争が日常化すれば、空爆も虐殺も自爆テロも、みな日常のものになる。大手メディアは、外電を使って安全なところで記事も写真も揃えられる。が、素材を提供する小メディアは、現場の映像と写真が頼りである。

 その現場での死傷はカメラマンが圧倒的に多い。ファインダーをのぞいていて周囲が見えないからだ。いまは液晶画面が多いが、動画を撮っていれば気配りはおろそかになる。いい絵でなければ使ってはもらえない。ミャンマーで撃たれたカメラマンも、後ろに迫った警官隊に全く気づいていなかった。

 ガンジーが暗殺されたとき、マグナムのアンリ・カルチエ=ブレッソン(HCB)は現場にいた。が、遺体が運ばれた部屋の外からカーテン越しに撮った。そこへ、ライフのマーガレット・バーク=ホワイトが駆けつけて撮り始めた。たちまち取り押さえられて、フィルムを奪われ放り出された。

 殺気立ったなかで、それだけで済んだのはおそらく女性だったからだ。もしHCBだったらそれでは済むまい。直に撮れれば間違いなく歴史に残る写真になる。バーク=ホワイトは正しい。が、身を守るすべを心得ていたHCBもまた正しかったのである。

 美香ちゃんは、「戦場ジャーナリスト」と呼ばれるのは本意ではなかったらしい。「ヒューマンなジャーナリストを目指していた」(父親)という。が、危険を承知で立っていたのは常に悲惨の現場だった。現場より強いものはない。放射能が怖くて福島入りを放棄した大手メディアの記者たちとは大違いだ。

 ただ、それもこれも生きていればこそである。「ヒューマン」だろうと何だろうと、美香ちゃんは手にできたはずなのだ。ジャーナリストは語り続けないといけない。惜しいとはそこなのである。

2012年7月28日土曜日

愛しのストロンチウム


 文科省が、福島第1原発の事故で飛散したストロンチウム90を、福島、宮城以外の10都県で検出したと発表した。検出は当然だろう。問題はその数値である。一番汚染が高かったのが、茨城のひたちなか市という。友人が1人いる。まあ、気の毒なと思ったが、そのあとにあったひとことで安心した。

 朝日新聞の記事の前書きの最後にはこうあった。「これは大気圏内核実験が盛んだった1960年代に国内で観測された最大値の60分の1程度」。私のような70過ぎの人間には、これが一番読みたい部分なのだ。いや、60代、50代だって、知っておかないといけない。

 1960年代は冷戦の最中である。アメリカとソ連は大気圏内の核実験を競い、巻き散らされた核物質が地球を覆っていた。「ストロンチウム90」という名前もしばしば新聞に出た。が、当時は人体への影響を深く報ずるものはなかった。米ソが口をつぐんでいたからである。

 その結果、それと知らずに、世界中が高度の汚染の中に生きていた。福島のあと、日本を逃げ出したお金持ちもいたが、当時はたとえ知ったとしても、どこへも逃げる場所なんぞなかった。世界中がくまなく汚れていたのだから。

 私は20代前半で、大学で山登りをやっていた。北アルプスやらなにやら、3000㍍の山を駆け回っていた。当然、地上よりは濃度が高かろう。その中を、ただ歩くのではなくて登ったり下ったり、ハアハアと目一杯吸い込みながら動き回っていた。

 それからちょうど50年である。どれくらいかはわからないが、私の体に入ったストロンチウム90は、半減期でめでたく半分になったはずだ。この間に、ともにハアハアいっていた仲間たちはどうなったか。バタバタとガンになって死ぬこともなく、大方元気である。

 むろんガンで死んだのもいるが、日本人の平均以上ではあるまい。どころか、平均寿命はどんどん伸びている。まあ、いま60代は当時は10代、50代は幼児期だったから、成人だった私の年代より多少影響が強いかも知れない。が、結果を知るには、まだ10年20年かかる。

 だから、福島の事故のあと真っ先に知りたかったのは、この当時と比べてどの程度の汚染か、だった。しかし、書いている記者たちはずっと若い。50年前がとんでもない時代だったことも知らない。比較した記事も出ない。むしろ、「怖い」「怖い」が表に出ていた。

 被ばくを恐れて記者たちに、原発から30㌔以内立ち入り禁止の指令を出したメディアの幹部は、自分たちが50年前にたっぷりと吸収していたことも知らなかったか。「いまさら遅いんだよ」といってやりたくなったものだ。

 かろうじて、研究機関の汚染データに、当時との比較がちょろっと出たり、汚染の推移を表すグラフがあった。が、このグラフがまた、インチキだ。ケタが上がるごとに指標が10分の1の縮尺になっているので、見た目は一枚の紙に収まっているが、これを等倍に直したら、50年前の数値は天井を突き抜けるのである。

 今回のストロンチウムの記事で、はじめて等倍のグラフが出ていた。チェルノブイリですら小さな山だったので、「まあ、なんという時代だったのか」とあらためて驚いた。ストロンチウムに限らない。セシウムだってヨウ素だって、まんべんなく野に山に、いや世界中に降り積もったのである。

 そこで人はコメを作り麦や野菜を育て、牛や豚、鶏を飼って、何事もなかったように過ごしてきたのだ。これ以上壮大な人体実験はなかろう。あなたも私も、みんなストロンチウム仲間なのである。

 だから、いってやらないといけない。もしアメリカ人が、放射能の汚染を話題にしたら、「お前のじいさんは何てことをしてくれたのか」と。中国の観光客が、東北は怖いといったら、「日本よりも、北京や上海の方がゴビ砂漠に近いんだぜ」と教えてやれ。「雨の降り始めには気をつけろ」といったのは、中国の核実験のときだった。等倍のグラフも忘れずに見せてやろう。

 今回の発表には、「影響はまずない」という解説がついていた。細々した数字があったが、そんなものはどうでもいい。50年前とはケタが違うのだ。気の毒にも、ひたちなか市で一番高い値が出たが、これが最高のはずはない。地震と津波による機器の不具合で、福島と宮城のデータが採れていないからだ。

 その福島では、別の観測ですでにストロンチウム90は検出されている。ひたちなか市で60分の1ならば、原発近くの立ち入り禁止区域では20分の1か、10分の1か。こう考えれば、50年前はにわかに身近になってくる。

 しかしそれでも、「影響はまずない」となるのであろう。解説には言外に「じいさんどもがちゃんと生きてるじゃねぇか」という響きがある。くそったれめ。放射能の次に、高度の環境汚染の中育ったのは、40代のお前さんたちだ。これも進行中の人体実験である。ダイオキシンはストロンチウムより怖いぜ。

2012年7月25日水曜日

オスプレイの「危ない」はどこから?


 米軍の新型輸送機オスプレイが、岩国に着いた。その映像を見ていると、畳んでいた主翼が回転して、ローターがするすると広がる。まるでガンダムか何か、映画でも見ているようだ。つくづく新時代の飛行機だなと思う。

 この問題、市民団体の「反対」はわからないでもないが、肝心のオスプレイが本当に「危険な」「落ちやすい」かどうか、これが一向に定かでない。メディアの論調も、どこか的がはずれているように見える。

 先頃朝日新聞が、「事故原因調査に空軍司令官が圧力」「事故の総数は58回だった」と立て続けに、裏話を引っ張り出した。

 最初の記事は、アフガニスタンでの事故に関する調査で、「エンジンの出力不足」とする調査委の見解を、空軍司令官が黙殺したという話。空軍司令官は「エンジン不調は事故とは無関係」とする公式報告書を作った。しかし、ここがアメリカだ。両論とも公表されて、「異例の対立」と注目されていた。

 米軍のマニュアルでは、機器に不具合があれば、ただちに飛行停止がかかる。実戦配備中の飛行停止は、もろに作戦に響く。司令官の配慮はむしろ、こっちの方だったろう。

 もうひとつは、これまで日本で知られていた事故件数が、事故の重大度でA、B、Cと三段階あるうちの、最も重大なAの4件だけで、B、Cも入れると58件だったという話である。これも実は公表された数字だった。

 Aだけとしていたのは日本の防衛省で、どうも意図的に安全を装っていたふしがある。こういうのを猿知恵という。担当者は、「B、Cまで取りあげたらきりがない」(朝日)というのだからあきれる。メディアもまた、防衛省の数字だけでワーワーいっていたわけだ。

 この問題で腑に落ちないのは、「危険だ」「事故が相次ぐ」という報道の割に事故件数が少ないことだった。これが4件ではなく58件だったとしても、5年間にアフガンでの実戦参加も含む数字で、年間12件弱。B、Cに死者はない。これで事故が多いといえるか? 「危険な」イメージは、どこから来たのか。

 根拠は例の「事故率」しかない。A事故だけの数字なぞあるはずがないから、これだけは全体の数字であろう。これでみると、海兵隊仕様のMV22は、ヘリより少し高いが全海兵隊機の平均事故率よりは低い。高いのは空軍仕様のCV22で、MV22の7倍にもなる。これがおそらく一人歩きしたのだろう。

 ネットにはパイロットの話があふれている。これらを読むと、確かに気難しい機体らしい。突発的な風やパイロットのささいな操縦ミスがコンピュータの制御機能を超えるとか。ローターの風圧が強力で、現行大型ヘリならフットボール場に6機の編隊着陸が可能だが、オスプレイは2機が限度だ、とか。

 面白いのは、「記者は知識がないから、上っ面だけを伝えている」なんてのもあった。アメリカでも似たようなものらしい。日本のメディアも判断できずに、「話が大きい方」に乗っている。「安全だ」といってるのは産経新聞だけだ。

 朝日の続報によると、米側がオスプレイ配備を日本政府に伝えたのは、まだ開発段階の96年で、以後米軍は繰り返し発信していたが、自民党政権は国会でも「聞いていない」と説明を避け続けた。試作段階では事故が大きく伝えられていたから、逃げたのだろう。

 政府が初めて「配備の可能性」に言及したのは政権交代後の2010年、北沢防衛相である。「官僚答弁をなぞりたくなかった」というから、つまりはこれも、防衛省の猿知恵だったのである。

 オスプレイの配備は、安保の事前協議の対象外で、防衛省が勝手に判断を差し挟む余地はない。政府にしても本来、オスプレイの安全を請け合う筋合いではなかろう。端から全部オープンにして、「米軍はこういっている」「安全対策は十分に申し入れる」とやっていれば済んだ話である。

 しかし、この間に高まってしまった不信感は、もはや消しようがない。新聞・テレビも、沖縄や岩国の現状を見れば、うかつには踏み込めない。山口県知事選では、争点のひとつになってしまった。もうだれも「イエス」とはいえない。猿知恵のツケである。

 米政府もさすがに困ったのだろう。急遽来日したカーター国防副長官は、「安全性が確認されるまでは飛行しないと合意した」とまでいった。野田首相も同じ言葉を口にした。米軍が正式採用して、あしかけ7年も実戦配備している機体に「安全性の確認」だぁ? 兵隊の命がかかっているのに? ばかな話ではないか。

 防衛省の調査団が訪米し、事故調査の結果も間もなく出る。これらをもとに、遠からず「安全だ」となるのだろうが、米軍にしても、冷徹な数字以外に頼るものはないはずだ。一方で森本防衛相は、訪米して、オスプレイに試乗するらしいが、そんなことで、どれだけの説得力があるか。カイワレダイコン食うのとは訳が違う。

 岩国到着の朝のテレビは、反対運動を伝えていた。それは現実だ。だがそれと並んで、20年前の試作機の墜落映像を繰り返し流していた。ガンダムはとっくに別ものになっているというのに。そんなだから、お祭りメディアといわれるのだ。まったく困ったものである。

2012年7月17日火曜日

南無モザイク大明神


 テレビのモザイク(網掛け・ぼかし)が気になってしかたがない。オウム真理教の手配犯高橋克也(54)の防犯カメラ映像は、どれも本人の輪郭以外は全面ぼかしがかかっていた。各局とも同じに見えたから、公表した警視庁が入れたのかも知れない。テレビの悪しき慣習に警察までが染まったか。

 しばらく前の、スパイ容疑が伝えられた中国大使館の書記官は、まことに奇妙だった。外交官の身分では認められない外国人登録をしたのだから、立派に違法行為の容疑者なのだが、ニュースの焦点が「スパイ容疑」だったからか、フジテレビ以外はみな顔にモザイクがかかっていた。

 外交官だから公の席での映像も写真もあった。が、新聞でも顔を出したのは産経だけ。名前からいきさつまで全部出ているというのに、いったい何を恐れているのか。「中国だから」「特派員がいるから」と妙な配慮をしたのなら、自由主義国の報道機関としては自殺行為である。

 顔を隠すのは、人権への配慮、少年法の規定、あるいはきわどいルポでの隠し撮りとか、むろん本人が嫌だというのもあろう。何をどこまでつぶし何を残すか、個々に状況は異なるのだから、何らかのマニュアルはあるはず。だが見るところ、「面倒だから」とばかりほとんど機械的になんでもかんでもだ。思考停止にすらみえる。

 その前のお笑いのオセロ・中島知子の騒動は、ひどいものだった。マンションに出入りする占い師の親族とやらをカメラが追う。しかし顔には常にモザイクだ。おまけに、中島の部屋の所有者が俳優の本木雅弘だったからだろう、当の建物はおろか周囲の道路・建物一切。さらには張り込みの報道陣にまでモザイクだ。何が何だかわからない。

 これが1ヶ月以上も毎日続いた。分量からいって、映像をあれほど粗末に扱った例はないだろう。テレビの視聴者は我慢強いのか、どうでもいいのか。多分後者だろう、わざわざ文句をつける人はいなかったようだ。

 埼玉・東松山で強風でマンションの足場が倒れて、幼稚園児が死んだ。父親が撮った卒園式などの映像があって、元気だった子どもの姿が流れた。ところがこれも、当の園児以外はすべてぼかしである。一緒に写っている子どもたちの親からのクレームを恐れたのか。亡くなった子どもがいっそう哀れでならなかった。

 モザイク映像の多くは、穴埋めである。ニュースやスタジオトークのバックで、モザイクだろうが何だろうが何かが動いていさえすればいい。だからだろう。とうとう事件の現場にまでモザイクがかかり始めた。おそらく、グーグルのストリートビューのあおりである。

 事件現場の建物は写っている。が、隣はモザイクだ。報道とバラエティーの区別がつかなくなっているらしい。リポーターがしゃべっている、回りはみんなモザイク、という珍妙もしばしば。リポーターの顔なんかより現場を見たいんだ、こっちは。

 記者会見にモザイクが出てきたのには、本当にびっくりした。性同一性障害で女性から戸籍変更した男性が結婚して、妻が精子提供を受け、体外受精で子どもを得た。ところが、性転換である夫は子の父親になれないとされた。これはおかしいと、堂々たる訴えである。

 夫婦は名前も年齢も出し、カメラを自宅に入れて取材までさせていた。それまでがずっとモザイクなのだ。まあ、子どもは仕方がないとしても、裁判の記者会見にモザイクはなかろう。当人たちがそう望んだのなら、はじめから写してはいけない。むしろ、取材をした記者の偏見ではないのかとすら思った。

 名前は実名、撮った画像は出すのが報道の鉄則だ。取材の過程で、出せるかどうかの判断は当然ある。それをせずに、何でも録っておいてあとでモザイクというのは、話が逆だろう。人権への配慮というのなら、端から撮るべきではない。

 年金基金の運用で、詐欺で逮捕されたAIJ投資顧問の社長らも、はじめはモザイクのところがあった。そのうち国会にまで出てきたので素顔なったが、ことの重大性からいって、顔を隠す必要なんかないはずである。はじめはモザイクで、同じ映像が逮捕されたら素顔に、とはなんといじましいことか。

 最近はまた、気を引く映像の肝心の部分を隠して、CMをまたいで視聴者を引っ張ることも横行している。CMの数が多かったりすると、23度と同じモザイク映像を流したりする。品性下劣としかいいようがない。

 オウムの高橋はマンガ喫茶で捕まった。その店長というのが店の前で質問に答えている映像が、またまたモザイクだった。顔を写していない局もあったから、きっと本人が嫌だといったのだろう。そのくせペラペラとよくしゃべる。しかし顔は出さない‥‥写される方までが妙に心得ている。

 どうも人間が古いのか。無意味に顔を隠されると、いかがわしさを感じてしまう。お前さん、そんなにいかがわしいのかい、と。撮る方も撮る方だ。押せば写る、音も入る。あとは野となれモザイクがあるか。

 大津の中学でいじめ自殺があって、日テレの「とくダネ」が、加害者の名前を出してしまったというので大騒ぎ。画面で黒塗りしたつもりが、実は読めたというのだから、間抜けな話だ。技術の進歩は、人間を堕落させる。

2012年7月12日木曜日

オスプレイは本当に危険なのか?



 米軍の新型輸送機オスプレイの配備問題で、朝日が論説で、森本防衛相に文句をつけていた。「話す相手を間違えている。米政府にこそ『待った』をかけるべきだ」と。それはその通りだろう。だが、オスプレイを「墜落事故が相次ぐ」「危険が大きい」とする論拠が、事故率にあった。 


 オスプレイの事故の件数や死者数は公開されている。その一覧を見ながら、はて、と首を傾げた。事故は確かにあるが、空白の(つまり無事故の)期間がけっこう長い。今年は2度事故があったが、その前は長いこと無事故だ。「本当に事故が多いのか」 


 不具合は当然改良されるのだから、試作段階と実用段階とは区別しないといけない。だがテレビには、20年も前の試作機の最初の墜落映像が繰り返し出る。これで云々されては、開発者もたまるまいが、世論は多分にこれでできている。 
  
 そこへNHKニュースが、軍事評論家小川和久氏のコメントを、都合のいいようにつまみ食いをして、朝日と同様の論旨を展開したらしい。これに小川氏がツイッターで抗議していた。それによると、小川氏の元のコメントは、次のような趣旨だった。 


 ・オスプレイは開発段階の16年間に4回墜落、死者30人(人数が多いのは輸送人員)。実戦配備開始から7年間に4回墜落、死者6人。実戦配備後は他の軍用機と比べて突出した数値ではないと米国内では理解されている。 


 ・現行のCH46ヘリは最終でも1971年製。整備や改修の限界を超えている。米軍は(たとえ話として)車のモデルチェンジと同様に配備を進めている。ただ、政府が住民の不安に応えるには、相当な覚悟で米国と協議する必要がある。 


 理路整然、真っ当な見解である。ところが、ニュースでは「モデルチェンジ」が強調され、政府への言及部分は使われず、安全についてはキャスターが否定していたという。小川氏は、ツイッターで「車と同一視などしていない。ひどい編集に抗議中」と。ま、その後NHKが謝ってきたらしいが‥‥。 


 要は事故率の数字である。同じオスプレイでも海兵隊用(輸送)と空軍用(特殊作戦)では、仕様も使い方も異なり、事故率は海兵隊用の1.93に対して空軍用は13.47と飛び抜けて高い。新聞報道も「高い」「低い」と戸惑っている。沖縄の現実を前に、NHKは小川氏のあげた数字を出しにくかったのだろう。 


 新聞・テレビに限らない。行政から住民運動まで、一人歩きする数字がことを左右する例は多い。数字の発信者が政治的でも、多分にいかがわしくても、そうである。その最たるものが、原子力発電のコストだった。その化けの皮は、この1年ではがれてしまったが、まだまだある。 


 脱原発で再生可能エネルギーへの転換は、日本経済に膨大な負担をかけるという、電力会社と経産省が出した数字にもウソがある。節電の数字だって、十分にインチキである。なのに、15%だ、20%だという数字が出ると、さあ、計画停電だ、原発の再稼働が必要だと、話の進み方がまことに情緒的である。 


 そもそも、電力不足と原発の安全とは、まったく別の話だ。電力が足らなければ、どこまで節電が可能かを、電力会社と社会が一体になってギリギリの可能性を積上げて、さあどうだというのが筋のはず。ところが、政府もメディアも数字を疑わない。そうしてうやむやと大飯原発が再稼働すると、関西電力は火力発電を8基も止めたという。数字は何だったのか。 


 その数字も、さすがに電力料金値上げでは、メディアも政府も自治体までが目を皿のようにして、おかしな点を見つけ出している。いいことだ。数字はもっともらしいが、読める人にはアナも見える。そういう冷静な分析をしつこく発信するのが、メディアの役割である。 


 オスプレイはすでにハワイを発って、岩国などへ向かっている。報道は今度は、国内の7つの訓練飛行ルートの安全の話に移っている。それも、「あんな危険なものが、低空飛行で」といういい方だ。ヘリの後継機なのだから、低空は当たり前だろうに。 


 それよりも、本当に危険なのか安全なのかだ。まずは今年続いた事故の原因で、政府が納得できる説明を、米側からもらわないといけない。納得できなければ突き返す、くらいの覚悟でないと、沖縄や岩国の説得は望めまい。行政協定がどうのこうのなんて、もうだれも耳を貸さないのだから。 


 話は原発と同じだ。大元が安全でないのなら、稼働してはいけない、飛ばせてはいけない。アメリカはマニュアルの国である。事故が起こって、もし部品やシステムに不具合があれば、同じものを使っている飛行機は全世界で一斉に飛行停止がかかる。第二次大戦以来のシステムだ。 


 オスプレイは操縦が難しいといわれる。いまのところ、飛行停止になったという話はない。政府はこの辺りをきっちりと確かめてもらいたいものだ。少なくとも、数字を情緒的に扱ってはいけない。

2012年6月23日土曜日

似てない似顔絵



 なまけていると、あっという間に日が経ってしまう。が、遅くなってもこれだけは書いておかないといけない。警視庁に遠慮してか、テレビも新聞もちゃんと書かないからだ。ほかでもない、地下鉄サリン事件の手配犯の最後の1人、高橋克也(54)の公開画像のことだ。 

 今回、警視庁は異例の早さで公開捜査に踏み切ったとされる。が、多くの場合、警察が公開捜査に切り替えるのは、手詰まりになってからである。記憶にある唯一の例外は、大阪のJR駅で起こった通り魔事件だ。あのときは、即刻防犯カメラの画像を公開して、半日も経たずに犯人の女が特定された。 

 今回も早かったとはいえ、公開までに、つまり警視庁が画像を入手して決断するまでに、丸1日近くがあった。もし即刻公開していれば、人の記憶はさらに鮮明で、もっと早く的確な情報が寄せられたと思う。 

 この件ではもうひとつ、どうにも理解できない不手際があった。次々と公開されたのはいいが、とても同一人物とは思えない何種類もの写真、映像、モンタージュがあったことである。

 17年もの間、交番やコンビニに貼ってあった手配写真が、現在の高橋とは似ても似つかぬものであったことは、捜査にかかって即座にわかったはずだ。だからだろう、真っ先に出てきたのが、信金とスーパーでの動く画像だった。メガネをかけたやせ顔の中年男で、手配写真とはまるで別人である。 

 ところが、これと並んで出てきたのが、会社に提出した証明写真で、これはまたふっくらとして、別人に見えた。さらに、警視庁が作ったモンタージュというのが出てきた。これがまあ、藤田嗣治みたいな芸術的筆致の、どれとも似ていない珍妙なものであった。少なくとも3つの異なる顔が並んだのである。 

 あきれたことに、メディアがまたこの3つをランダムに流した。発表の場で、「どれなんだ」と問い直しもしなかったらしい。まさにご用聞きである。警察はいってやらないとわからない。いえるのはメディアだけだというのに。 

 捜査の連中だって、三種類もの顔をもたされては、どうにもならなかっただろう。それがはっきり出たのが、逮捕につながったマンガ喫茶でのいきさつである。逮捕された15日の午後、日テレのワイド「ミヤネ屋」で宮根誠司が、直に電話で店員に聞いていた。 

 その朝、マンガ喫茶に来ていたという通報があって、蒲田署の捜査員が2人、客のリストを見せてくれといってきた。が、店員は、「似ている人がいま奥の席にいる」と告げた。捜査員はのぞいて顔を見たが、「似てない」という。そこへ高橋が現れてトイレに行き、清算をして出ていった。 

 捜査員はこれを見送っていたのである。姿が見えなくなってから、「職質かけるか」と1人が後を追った。これが逮捕となるのだが、店員は逮捕劇は見ていないと、そういう話だった。

 捜査員ですら、見極められなかったのである。逆に、この店員は「似ている」と直感した。その場にいた友人に話したが、「こんなところへ来るはずがない」ととりあわなかったそうだ。だが、店員はネットで検索して高橋の特徴を確認している。そこへ警察が来た。しかし彼らは「似ていない」とーーこれはまさに“マンガ”というしかない。 

 宮根はさらに、週末のフジ「Mr.サンデー」でもこのいきさつを取り上げていたが、ついぞ「似てない似顔絵」の話にはしなかった。警察の不手際を突っつくという発想がないのか。あるいは、とりあげるのが怖いのか。どっちにしても、「ご用聞き」にはできないことであろう。 

 警察はわかっているはずだ。「似てない似顔絵」は、大変な汚点である。とくにモンタージュだ。毎日顔をつき合わせていた何人もの証言から作り上げた最新の顔は、だれが見ても「アッ」と気づくものでなければならない。それが似ても似つかぬ顔だった。「警視庁の能力はそんな程度か」と、日本中の警察が笑っているだろう。 

 まあ、ミスはだれにでもある。が、それをチェックできるのが、メディアと警察の関係ではなかったのか。メディアはしかし、「捜査員だって困るだろうに」のひとことがいえない。どころか、3つの顔に、さらに似ていないとわかっている手配写真までを並べて報道していたのである。 

 わかってみれば、高橋は川崎駅を中心にした狭い範囲で、ネットカフェやマンガ喫茶で2週間を過ごしていた。メガネ屋でメガネも買っていた。ファミレスで食事もしていた。しかし、だれもその場では気づいていない。 

 この間に何千という情報が寄せられた。そのうちのかなりの部分が「似てない似顔絵」のモノだったはずだ。その一つひとつの確認に捜査員が走り回ったのである。走らされた方こそいい面の皮だ。 

 TBS「情報7daysニュースキャスター」でビートたけしが、「もし(高橋が職質に)違います、といったら?」といっていた。実にきわどい。あらためて、よく捕まったものだと思う。一目で「似ている」と直感した店員がいなかったら、まだ「似てない似顔絵」は、一人歩きをしていたかもしれない。 

2012年5月22日火曜日

問われている本物度

 週刊誌の草分け「サンデー毎日」と「週刊朝日」が、卒寿を迎えたそうだ。毎日の企画を、朝日があわてて追いかけたのだと、天声人語が書いていた。張り合いは、大阪での「大毎」「大朝」以来だから100年以上になる。ライバルあればこそ、互いに磨かれた。

 両社のカラーの違いを、毎日出身でNHK会長だった阿部慎之助が、「朝日の編集局は小学校の職員室。毎日? ああ、あれは飯場だよ」といった(週刊朝日)ことがある。実にうまいいい方だった。それも、地方でも東京でも海外でも、職員室と飯場の違いがあるのだから驚く。

 いってみれば、毎日の記者は油断も隙もならない。なに、向こうも同じことをいうだろうが、少なくとも個性的で「オレが、オレが」が多かった。それが毎日の強みであり、スター記者を育てる風もあった。一方朝日は、全員がすぐ歯車になれる。記事に名前は出さない。スター記者も本多勝一氏以後はいない。自ずとそれがカラーの違いになる。大学を出るまでは一緒なのに、面白いものである。

 同じ一般紙でも違うのだから、媒体が違えば記者はもっと違う。社会部の書き手で、頭も筆もやわらかい男が週刊朝日に移ったら、目一杯やわらかく書いても、「まだ硬い」といわれたそうだ。同じ会社の新聞と週刊誌でそんなに違うのなら、出版社系の週刊誌やスポーツ新聞だったらもっと違うんだろう。

 面白かったのが、ロス保険金疑惑だ。テレビも週刊誌もスポーツ紙もそれでもちきり。日本中が知っているというのに、一般紙には一向に記事が出ない。朝日にはとうとう、「なぜ書かないか」という前代未聞の記事が出た。要するに、いくら取材しても「尻尾がつかめなかった」のである。

 だが、他のメディアは「疑い」「うわさ」だけでも書ける。放送できる。メディアの特性の違いを、これほどはっきりと実感した例はなかった。ただこの事件では、突っ走ったメディアの多くが、手痛いレッスンを受けることになった。

 拘留中の三浦和義氏(故人)が、印刷メディアを徹底的に読んで、片っ端から名誉毀損で訴えたのだ。結果、事件の本筋では「真実と信ずるに足る根拠」で通っても、彼の私生活や生い立ち、事件に直接関係のない記事では軒並みメディアが負けた。皮肉にも裁判が、「どこまで書けるか」を示す結果になった。

 とはいえ、これは名誉や人権の話である。メディアがインチキというわけではない。記者の感覚は大いに異なっても、それぞれに読者、視聴者をもっている、どれも必要なメディアだ。それぞれの特性の違いをはっきりと意識させた事件であった。

 そのメディアはいま、さらに多様化した。とりわけネットは、情報のスピードと利便性で、情報の流れすら変えてしまった。主としてここで活躍するフリーのジャーナリストたちは、既存メディアの記者たちより自由で、思い切った切り込みも可能だ。いわば新しい血である。

 ところが、既存のメディアは彼らを「鬼っ子」扱いだ。記者クラブにいれない。政府や企業が彼らを会見から閉め出しても、異を唱えない。看板や記者クラブに守られて、どうも勘違いをしているらしい。

 ジャーナリストは、どんな組織にいようと価値観が違おうと、最後は個人である。媒体のカラーによる違いはあっても、書くものが「本物」かどうかで決まる。フリーの記者は看板がないだけに、「本物」をかけて厳しい日々を生きている。書いたものを読み、行動や主張をみれば、本物度は一目でわかる。

 むしろこの1年余、それを疑われてきたのは、既存メディアの方である。福島原発報道では、天下に恥をさらした。国の規制を受け入れ、上空を飛ぶことも現地に入ることもしなかった。代わりに防護服を着て突っ込んだのは、フリーの記者たちだ。外国の記者までが入っている。恥を知れ、といいたい。

 政府のバリアも東電のカベも突き崩せなかった。「あの日(311日)何があったか」を書き始めたのが年末である。疑うことを知らないお人好し。ご用聞き。権力と戦うことも知らない。それが「老舗のジャーナリストでござい」とばかりに、フリーを差別してどうする。

 ジャーナリズムをなんだと思っているのか。クラブで発表を聞き、記者会見に出て、ネットで情報集めて上手にまとめて‥‥これではサラリーマンと大差ない。いや、サラリーマンには、儲かった損したと真剣勝負がある。大看板のジャーナリストには、それすらないのだ。

 情報とりはもっといかがわしいワザである。ネタは会見やネットには転がっていない。嫌がる相手に食らいつくのも、籠絡するのも、場合によっては脅すのもワザのうちだ。本当のニュースは人の口からしか出てこない。

 しかし、それを可能にするのは、権力に向き合う姿勢だ。反骨だ。怒りだ。そしてメディアとしての連帯感。もう長いことここにひびが入っている。だから権力は安泰だし、メディアはなめられる。ばかりか、フリーの側からも、不信感を突きつけられている。既存メディアは自ら、敵を増やしているのだ。本当の敵はそっちじゃない。

2012年5月8日火曜日

引退勧告とは痛快な


 小沢一郎氏の無罪判決は、大方の予想通りだった。起訴の根拠になっていた検察調書がインチキだったのだから、理の当然であろう。問われたのも、政治資金報告書の虚偽記載を、小沢氏が知っていたかどうか。いってみれば、どうでもいい話だ。国民が知りたいのはそんなことではない。

 それでも裁判は裁判、無罪は無罪だ。さっそく翌日から小沢氏は元気に野田内閣の攻撃を始め、新聞・テレビもそれを大きく伝える。「今後の政局は」「党員資格停止処分解除」と完全な「小沢ペース」だ。なかでたった1人、ずばり本筋に切り込んだのが、屋山太郎氏(写真)が産経の「正論」に書いた「小沢氏よ『無罪』を引退の花道に」だ。これは痛快だった。

 まずは不動産である。07年に13カ所もの小沢氏名義の不動産所有が問題になった時、「政治団体では登記できないために小沢名義にした。実際は陸山会のものである」という「確認書」を示した。今回裁判で問われた世田谷の土地も含まれる。

 ところが裁判では、「自己資金で買った」とすりかわった。あの「確認書」は何だった。うち6通は、あとから同じ日付で作られたものだ。そもそも13もの不動産をなぜ買いあさったのか、と屋山氏はたたみかけ、師匠の田中角栄氏を真似ているのだと断じた。角栄流は、政治は数、数は選挙、選挙は金、金は不動産から……で、そのまま小沢流である。

 まだある。「角栄氏は党のカネも自分のカネも使ったが、小沢氏は自分のカネを使わず、政党助成金を握って大派閥を形成した」。民主党はむろんのこと、解党した新進党の残り分も私物化した。公金で「党中党」を築いた。「人のふんどしで相撲をとった」とボロクソだ。

 マニフェスト、外交を例にあげて、民主党をつまずかせた「張本人は小沢氏」で、反省もせず野田氏を攻めるのは「恥知らず」ときめつけ、最後に「強く政界引退を勧めたい」と結んでいた。実にすっきり。いまの小沢氏には、これがいちばんふさわしい。

 とはいえ、これらはすでに表に出ている話である。なのになぜ、メディアも国会も押さないのかが解せない。どうせ尻尾はつかめまいということなのか。何か勘違いをしてはいないか。自ら追及して「恐れ入りました」といわせようなんて、とんだ心得違いだ。刑事責任は裁判所にまかせておけばいい。国会やメディアができることは、しゃべらせること、これに尽きる。

 しかし、屋山氏も書いているように、「自分に都合の悪いことは黙る」のが小沢流。国会喚問には、小沢派議員が防波堤になって抵抗する。周到なのだ。「恐れ入りました」がメディアの方では情けない。

 小沢氏をめぐる話の大元が、不動産とカネのいかがわしさにあることは、誰もが知っている。検察は「我こそは正義」とばかりに捜査に入り、いわばとば口の虚偽記載で秘書たちを起訴したが、肝心のカネの動きでは尻尾がつかめなかった。小沢氏本人は「嫌疑不十分」で不起訴になった。

 これを受けた検察審査会が起訴に持ち込むのだが、起訴判断資料になった秘書の証言がでっち上げだったのだから、ひどい話だ。検察はそれを知らん顔して見ていたわけだ。審査会もいい面の皮である。ただ、刑事責任では無罪とした判決も「いかがわしさ」に言及していた。道義的な責任はそのままである。

 なぜ政治資金で土地や建物を買った? 資金はどこから? 「確認書」とは何なのか。この大元こそ、国会が追及すべきことではないのか。道義責任で十分ではないか。内容の重さでいえば、裁判で争われた虚偽記載なぞ、屁みたいなものだ。

 団体では不動産登記できないということは、団体が持ってはいけないということだろう。そんなことをする国会議員はほかにいない。小沢氏がぽっくりいったら、主のいない政治団体の不動産はどうなる? 法的には小沢氏のものだ。税務署はどう見るかな? 国会の追及はこれで十分なのだ。

 アメリカなら、真っ当な説明ができないというだけで、議員は政治生命を絶たれるだろう。小沢流の「だんまり」は通用しない。あらためて、民主主義の深度の違いを感ずる。アメリカの有権者なら、小沢氏の行動を見逃しはしない。メディアだって黙ってはいまい。「臭いの元」にも突っ込めない日本メディアのふがいなさを、あらためて思う。

 いまのメディアにはなお「剛腕待望論」が根強いように見える。氏の実像を知らないのだ。彼の行政実務経験は、わずか8ヶ月の自治大臣だけ。直後に「若くして」自民党幹事長に抜擢され、自民党をおん出て以後は政局の人である。

 民主党のマニフェストだって、選挙目当てのバラマキだ。財務省を締め上げれば財源は出ると豪語していた。が、いざ政権に就いてみたら、そんな単純なものではなかった。これがいまの混乱のもとである。にもかかわらずなお「マニフェスト」と言い続けているおかしさを、メディアは書こうとしない。剛腕は、カネがなくては振るえないのである。

 いまのメディアを象徴する光景が記憶にある。参考人招致を問われた小沢氏が「三権分立をどう思っているの?」と逆襲した。質問した記者はこれで立往生。昔なら、他の記者から「三権分立だからできるんです」「刑事裁判に影響するとは、裁判官に失礼でしょう」「あなたこそ三権分立をどう思っているのか」と、声が飛んだことだろう。
 なぜ切り返せないのか。国民はちゃんと見ている。この方がはるかに怖いぞ。

2012年3月26日月曜日

足りないのは驚きと怒りだ


 菅首相(当時)が東電幹部を怒鳴っている映像があった、というので驚いた。福島原発の事故のあと、そこらじゅうで怒鳴りまくった「いら菅」ぶりは様々に伝えられているが、すべて文字で読むばかりだった。動く絵があったら大ニュースではないか。リーダーの資質を見る材料にもなる。ところが、話はストレートには出てこなかった。

 国会の事故調査委(14日)で、映像を見た委員の1人が、「菅総理が東電の幹部を前に10分以上非常に激しく演説されていた」と話した。東電には、本店と原発などとのテレビ会議の際には、録画するシステムがあったのだ。

 委員によると、原発2号機が危機的状況になった昨年3月15日未明、撤退をいいだした東京電力本社に乗込んだ菅首相(当時)が、幹部を怒鳴っているシーンだった。その最中に4号機の爆発があり、現地が動揺した様も写っていた。だが、奇妙なことに音声は入っていなかった。委員が「演説」という変ないい方をしたのもそのため。なにをいってるのかがわからない。

 東電はこれまで映像の存在を公表しておらず、委員会後の会見でも公表を拒んだ。そのせいか、翌日の新聞は、参考人として出席した武藤栄顧問(当時副社長)の証言を中心に、気のない報道ぶりだった。

 朝日は「事故対策の不備を陳謝」として、記事のあとの方で「無音声映像があったことが判明した」とだけ。読売も、東電が「全員撤退とはいっていない」という部分だけで、映像には触れず。毎日は、映像を中心に書いていながら、焦点は「4号機の爆発」の方においていた。

 問題のシーンについて武藤顧問は、「(菅首相は)大変激しい口調で、全員撤退はありえないと、厳しく叱責をされた」とだけで、言葉にはせず。公表を拒む東電に、記者団が「映像を見せろ」と迫る気迫もなかった。記者に驚きや怒りがなければ、ニュースもニュースにならないという典型である。

 奇妙なことだが、ストレートに「菅前首相の怒鳴り込みビデオあった」と報じたのは、日刊スポーツだった。委員会のやり取りでも、委員が「初動時のビデオがなく、菅氏の場面も音声がないのはなぜか」とただしたのに、武藤氏が「経緯は知らない」と答えたと書いている。何もわからなかったにしても、少なくともニュースのツボはつかんでいた。

 話が動いたのが、2日後だ。枝野経産相が閣議後の会見で、ビデオについて、「なぜ公開しないのか意味不明。東電は公開すべきだ」といってからである。テレビはさっそく、取材したまま眠っていた委員会の映像の中から、ビデオに関するやりとりを拾い出す。冒頭に引いた発言はテレビで見たものだ。それらを見ればだれだって「なぜ公表しない」「なぜ音声がないんだ」と思うのは当たり前だろう。

 少し遅れて業界紙の「電気新聞」が、おそらく東電から取材したのだろう、そのときの様子を伝えていた。それによると、菅首相は東電幹部に「逃げようとしたのは、お前か、お前か」とひとり1人を指差したという。東電はこれを通常通り録音していたが、「(首相の)同行者の1人が録音しないよう働きかけた」と、関係者が証言しているそうだ。

 だれがそんな余計なことをいったんだ? これだって、調べればすぐにわかることだ。それに、音はなくても、顔が写ってさえいれば、唇を読むことだって可能だ。それが明らかになって具合が悪いのは、東電だけではないのかもしれないが、メディアこぞってビデオそのものに関心がないのだから、話にならない。

 東電は公表しない理由を、「社内資料」「プライバシーに関わる」といっている。いまもってあの事故を「社内のこと」だと思っているわけだ。全ての元凶はここにある。

 福島で起こったことは、東電はもちろん政府の対応やその後の経緯も含めて、全ての国に細大漏らさず伝えねばならないものだった。地震や津波は想定外だとしても、電源喪失以降の経緯は、世界中の専門家に知らせるべきものだ。東電はこれがわかっていない。

 先に公表された民間事故調の報告でもっとも重要なのは、日米間で情報の共有ができなかったために、原子炉の状況判断から対処能力、避難区域の設定にまでそごをきたし、誤解さえまねいたとしている部分だ。すべて、東電の情報欠如が元である。ことと次第によっては、刑事告発されてもおかしくない。東電はそれがまったくわかっていない。

 ビデオには意味がある。声は聞こえなくても、一国の首相が凄まじい形相でののしっているのに、平然とデータを小出しにし続ける民間企業とは何なのか、を世界中が実感するだろう。またそれを容認している政府もメディアも理解されまい。この1年の日本がひどく幼い国にみえるに違いない。

 ビデオは突破口になる。おそらく初動のときのビデオがないというのもウソだろう。録画システムがありながら、肝心の時のやり取りだけがないというのは、どう考えても不自然だ。しかし、メディアが疑うことを知らないと、道は開けない。

 メディアの命は率直な驚きと怒りだ。そして疑り深くへそ曲がりでないといけない。ウソをつかれても怒らず、素直なご用聞きメディアなんか、犬に食われちまえ。

2012年3月24日土曜日

球団と新聞の区別もつかないとは


 日本テレビの朝のワイド「とくダネ」で、キャスターの小倉智昭が、「今日(15日)の朝日新聞を見た人は、スポーツ新聞かと思ったかも」といった。たしかに1面トップで、読売巨人軍が6人の選手に計36億円の契約を結んでいて、12球団が申し合わせた最高標準額を超えていたとある。

 いまのルールでは「1億円+出来高払い5000万円」である。04年に横浜と西武が当時の最高標準額(申し合わせ。金額は一緒)を越える契約をしていたことが、07年に明らかになって、大騒ぎの末に2球団はコミッショナーから厳重注意処分を受けて、さらに「最高標準額」もルールになった。

 これをたてに巨人は、朝日の取材に「ルールは07年1月にできた。それまでは球団の申し合わせで、ひとつの目安だった。6選手の話は、97年から04年度の間だ。だからルール違反ではない」と突っぱねていた。ま、モラルに目をつぶればばその通りである。

 ただ、朝日が「内部資料をもとに」と並べた金額は、モラルなんてものではなかった。阿部慎之助(2000年)10億円、野間口貴彦(04年)7億円、高橋由伸(97年)6億5000万円、上原浩治(98年)5億円、二岡智宏(98年)5億円、内海哲也(03年)2億5000万円である。

 巨人と金の話はいまいま始まったことではないし、ドラフトを札束でゆがめてきたことは、日本中が知っている。それでもこの金額には、だれもが絶句した。あらためて、高橋がヤクルト、上原は大リーグ、二岡は広島と報じられていたのが、どたんばでひっくり返ったあたりを、「やっぱり」と思い出す向きもあった。

 しかし面白いもので、怒り方は人それぞれだ。筋金入りの西武ファンである小倉のいいたいことは別のところにあった。
 「04年に横浜や西武があれだけ大きなニュースになって、西武なんか上層部が責任をとった。あれは何なの? 野間口も同じ04年ですよ。その時になんで巨人さん、バックアップしてくれなかったのよ。『ルールじゃないんだよ』と。そう思うじゃないですか」

 わたしの先輩になる朝日のOBは、別のことで怒っていた。「これがどうしてけしからんのか。記事を読む限り、巨人がいうようにルール違反ではない。それがどうして1面トップなんだ。朝日はいつからプロ野球の守護神になった?」

 で、わたしはというと、また別のところでひっかかった。朝日の取材を受けた巨人は、まだ記事も出ていないのに、報道機関に反論書を配った。「朝日はこういう取材をしているが」とご丁寧に朝日の質問書までつけていた。これはルール違反である。

 いや、別にきちっとしたルールがあるわけではないが、報道機関の取材内容を他の報道機関に見せるのは、信義にもとる。たとえあったとしても本来ウラ技であって、ファクスで堂々と流してしまっては、みもふたもない。

 またこれを受けて、読売(こちらは新聞)が巨人の反論と識者の談話などを派手に並べてみせた。朝日の記事と同じ15日の朝刊で反論という珍妙なことになった。報道機関としては、「朝日の記事を見てから」と巨人をたしなめるのが筋だろうに、一緒に熱くなっちゃった。明らかに勇み足である。もし朝日が掲載を遅らせていたら、ヨミの「裸踊り」になるところだ。

 まあこの辺りは、早番を届けるスパイが必ずいるから、お互いさま。わたしが担当だったら、早番でちょろっと顔を出しておいて、途中で引っ込めて、最終版でドカーンと遊んでやるところだが、いまの朝日にはへそ曲がりはいないらしい。

 どっちにしても、読売は新聞と球団の区別もつかないほど動揺していた。巨人は、朝日の取材資料配布で謝罪する一方で、朝日に抗議した。これを伝える読売もまた、資料の入手先や確認方法などを「本紙が朝日新聞にたずねた」などと、恥ずかし気もなく書く。大新聞どころか、政党新聞のレベルである。

 おまけに、朝日の記事の翌日には、先にナベツネこと渡辺恒雄氏とのあつれきで巨人の球団代表を辞めた、清武英利氏の暴露本が出た。これにも読売は、「球界から批判が噴出」などと書き、巨人はこれを伝えた共同通信と産経新聞に抗議する始末。

 文句をつけるにしても、朝日や清武本の内容を説明しないといけないのだから、かえって中身を吹聴する結果になった。なによりも、新聞が新聞に向かって、「ニュースソースを言え」なんて、まるで漫画だ。

 一方ナベツネはといえば、資料流出の犯人を清武氏と決めつけたうえに、「ドブネズミか泥棒ネコか」と警察沙汰にもしかねない口ぶりだ。この問題で世間が見ているのはそんなことじゃあるまいに。

 清武氏が代表になったのは04年。今回の著書はそれ以後の話だから、04年までを書いた朝日の内容とは時期が違う。ただ、なかに「過去の資料」について、「代表室の金庫にあったものを、社長室へもっていった」というくだりがある。これがかえって「怪しい」と見る向きもあるらしい。

 まあ、どっちでもいい。答えは出ているのだ。この大金が払われた8年間に、巨人はリーグ優勝3回、日本一は2回。その後の7年間は2回と1回だ。そのバカバカしさを数字で出しただけで、勝負ありである。

2012年3月13日火曜日

北方領土は人間ごといただこう


 ロシアのプーチン首相の大統領返り咲きが決まった。その選挙直前に行った日欧メディアとの会見では、北方領土問題を「最終決着させたい」といった。柔道になぞらえて、落としどころを「ひきわけ」、交渉には「はじめ」と日本語でいった。日本メディアは、朝日新聞の若宮敬文主筆だけだったから、彼に真っ向からボールを投げてきたわけだ。実に面白い。

 日ロ関係は、2010年11月のメドベージェフ大統領の北方領土訪問に、当時の菅首相が「許しがたい暴挙」とやったために、おかしくなったままだ。次の大統領が、この問題に何らかの腹づもりをもっていることを明らかにしたのだから、日本側もそのつもりになってしかるべきだろう。

 若宮氏は「最悪の関係を元に戻そうとしているのは明らか」「ボタンをかけ直せ」と前向きに受け取っていた。野田首相もプーチン氏へのお祝いの電話で、この問題解決への期待を表明したという。むろん一方で「だまされるな」といった論調も相変わらずある。

 北方領土問題が動かないのは、主として日本側が原則論を繰り返すばかりだからだ。19世紀の条約を持ち出す。終戦直後の占領は不法である。従って4島へのロシアの主権は認めない。返還は4島であるべきだーー理屈はその通りである。

 しかし、現実感覚というものがない。返還されたあとどうするのかのビジョンもない。菅発言はそれを端的に表していた。本気で返してほしいのなら、あのいい方はない。外務省のいう通りに紙でも読んだのだろう。困ったものだ。

 そもそも大統領を辺境の北方領土まで来させてしまったのは、日本側のミスである。戦後60年の歳月を無視して、オウムのように同じことを繰り返しているだけでは、解決の意志なしとみされても仕方がない。

 現に、朝日の「プーチン会見」が出た後でも、関係者のなかには「4島返還の原則を譲るくらいなら、いまのままでいた方がいい」などという発言まであった。要するに筋を通せ、土地を返せというだけだ。本当に北方領土を必要としているのか、と聞きたくなる。

 むしろ、現地の方が冷静だったように見える。菅発言後のぎくしゃくの中で、ビザなし交流20回目になる昨年は、ロシア側は7回で、若い人たちは日本語を勉強していたとか。日本からは9回で、前原元外相もいた。報道陣は、例年より多くが入ったようだ。

 彼らは、建物の建設が進んだり、北朝鮮の労働者がいたなど、明らかに大統領訪問で動き出した現地を伝えた。そして異口同音に「道路が舗装されていた」と驚いていた。それまで舗装道路ひとつなかった、ロシアでもおそらく最も取り残された地である。

 しかしその地でロシア人はすでに、66年の歴史を持つ。ソ連の占領がいかに理不尽であれ、そこで生まれた人にはもう孫がいる。彼らにはかけがえのない故郷だ。ひるがえって、北方領土を「故郷だ」といえる日本人がいまどれだけいるか。この現実を見ずに、「不法占拠だ」「4島が筋だ」と100年叫んだところで、島が還って来るはずがない。

 その頃、朝日のモスクワ特派員が「現島民のことも考えて」と書いた。「実際にいま住んでいるのはロシア人だ。私たちと同じように、生活や人生、家族や仲間がある。大統領の訪問を『暴挙』と切り捨てるだけでは‥‥あんまりな気がする」

 カギのひとつは、宮沢政権が92年にエリツィン政権に伝えたメッセージだと、記者はいう。「北方領土に居住するロシア国民の人権、利益、希望は返還後も十分に尊重していく」というのがそれだ。これは人間の話。「2島だ」「4島だ」は土地の話である。人間の話に日本側がどこまで本気か、ここであろう。

 しばらく前の朝日新聞の投書欄にも、北方領土返還は「暮らす視点から」というのがあった。「日本には復帰のビジョンがない。ロシア人と日本人が共に暮らす形での解決が望ましい」といっていた。この問題で一般の人の意見は珍しいが、的は突いていた。

 一歩踏み込んで、島民に「あなた方はそのままでいいんですよ。在日朝鮮・韓国人と同じです」といったらどうだろう。彼らの生活も歴史もひっくるめて、引き受けますよと。さらに、4島の未来図を見せないといけない。どんな島にするのか。

 2島だっていい。日本人が入れば、彼らの「故郷」は変わる。辺境の地ではなくなる。しかも、ロシア人がロシア国籍のまま、日本の連絡船で釧路から札幌、東京に自由に行けるのだとしたら? あとの2島のロシア人はどう見るか。最後は、現に住んでいるロシア人が決めるだろう。

 プーチン首相がいった「ひきわけ」には、自ら手がけた大ウスリー島などの国境解決が頭にある。「あれだけ時間をかけてもひきわけ」といったらしい。かの地は、中ロ両国を結ぶいわばメインストリートである。利害もイーブンだろう。しかし、北方領土は違う。

 圧倒的に地の利は日本にある。ロシアである限り辺境の辺境だが、日本になれば釧路は目と鼻の先だ。ロシア人にとっても目と鼻である。むろん話は簡単ではないが、少なくともこれまでとは違うボールを投げ返さないと、ことは動かない。「ボタンのかけ直し」どころではない、発想の転換が必要になる。

2012年2月28日火曜日

賞味期限伸ばしに手を貸すな


 いや驚いた。23日の朝日新聞1面に小沢一郎氏の大きな写真と「インタビュー」である。しかもご丁寧に「あすの朝刊に詳報」ときた。その「詳報」は、オピニオン面をドカンと埋めていた。彼が紙面に「囲み」で出るのは、10日余の間に4回である。朝日はどうかしちゃったか?

 小沢氏は、世の中乱れると決まって元気になる。「消費増税」では与野党とも賛否が分かれたから、まさに絶好というのだろう。あちこちで激しく野田政権を攻撃して、「倒閣に動き出した」とまでいわれている。

 また、小沢氏が被告になっている政治資金規制法違反の証拠採否で東京地裁が17日、元秘書で衆院議員の石川知裕氏の調書を証拠採用しなかった。検察官役の指定弁護士にしてみれば、「小沢氏関与」立証の大きな柱を失った。小沢氏には追い風だ。

 さっそく翌18日には鹿児島で、「正しいことを貫く政治家が少ない」などと語っているのだから恐れ入る。この場には鳩山由紀夫元首相もいて、「消費増税」に「ノー」といっていた。選挙が念頭にあるとはいえ、とても同じ政党の人間とは思えない。

 消費税では一昨年の参院選でもそうだった。当時の菅首相が突然「消費税」といい出して党内が困惑しているとき、小沢氏は自分の子飼の選挙区を回っては、「消費税は上げません」とやっていた。それをまた、テレビが流す。そんな政党だれが信用するか。案の定選挙は惨敗で、参院のねじれを作ってしまう。

 するとまた、小沢氏は元気になった。さすがに代表選には出なかったが、ことごとく菅内閣の足を引っ張って、長い長い「菅おろし」を展開する。陸山会の土地取得問題で強制起訴され、さらに東日本大震災が起って、いっときはなりをひそめたが、菅首相の災害対策がまずいと見ると、小沢グループが動き出した。その後のすったもんだはご存知の通り。

 小沢氏の誤算は、代表選で野田氏に破れたことだった。絶対に勝てるはずが、「どじょう」のひとことでひっくり返る。まさに天の配剤だったのだろうが、小沢氏の存在は相変わらず、民主党の機能不全のもとになっている。「消費増税」をテコに今度こそは、と思っているのだろうか。

 まあ、そんなことはどうでもいい。それよりも,これを報ずるメディアの方だ。この間実にていねいに小沢氏の動向を字にしている。最近では「小沢一郎政治塾」(13日)。ほとんど内容もないのに各紙とも格好をつけている。前述の鹿児島も必要のない記事だ。朝日はおまけに単独インタビューときた。

 小沢氏が政局のひとつの目であるのは確かだが,いってることは消費増税反対とマニフェストを守れ、それ以外は政局だ。マニフェストがとても守れないことは,国民の方が知っている。消費税論議でも、有権者はかなり考えたうえでの賛否になっている。

 それ以上に、小沢グループが、民主党混乱の元凶であることもわかっている。ところが,彼らが何をしているのかが全く見えない。未曾有の震災でも、小沢氏をはじめ彼らが知恵を出したり汗を流したという話は皆無だ。

 数では党内最大とはいえ、その大部分はチルドレン。その一年生議員に「君らの仕事は次の選挙で勝つこと」とぶったのが、小沢氏だ。メディアはそれをそのまま伝えて、恥ずかしいとも思わない。有権者に聞けば、「世界一高い歳費をもらっていながら、そんな議員要らない」というだろう。

 派内には人材もいない。送り込む大臣は問題続出で、これまた政府の足を引っ張っているのだが、そんなことは知らん顔。おまけに彼は被告の身だが、裁判でカギとなる証拠が不採用になったことで、またぞろ元気になってきた。

 消費増税法案の提出をめぐっては、「不信任案に同調も」という脅しをちらつかせる。「党を割ったら民主党は終わり」「だから解散はあるまい」という読みである。ところがどっこい「どじょう」宰相の「不退転」は,どうやら本気。「小沢グループを切ってでも」という読みが出てきた。となるとこれは面白いチキンレースだ。

 不信任案に賛成して、グループが除名を食らったところで解散となったら、チルドレンは丸裸で選挙戦に放り出される。実績も名前もない彼らがどうなるかは火を見るより明らかだ。チルドレンだってバカじゃない。どこまで親分についていくか。民主党だって,小沢一派がいなくなったらすっきりする。

 それに選挙となれば、焦点は大阪、名古屋方面の動きになろう。自民党を見限って政権交代をさせた民意は、いまや民主党をも見限っている。「強いリーダーを」という声が求めているのは、小沢流の「剛腕」ではあるまい。小沢氏も彼の政治手法ももはや賞味期限切れなのである。

 にもかかわらず、報道が小沢氏にかくも手厚いのはなぜか。それも朝日がなぜこれほどまでに?

 「いった通りを書け」「質問も論評も要らない」――これが小沢流である。発言垂れ流しの「ニコニコ動画」が大好きなのはそのためだ。朝日が単独インタビューできたのは、「その通り書きます」と約束したからだろう。「ニコニコ動画」になったわけだ。いってみれば、賞味期限伸ばしに手を貸しているようなもの。有権者はバカじゃないぞ。