2011年5月25日水曜日

メディアは劣化した?


 東電が19日、福島第1原発が津波に襲われた写真17枚を公表した。会見では当然、「なぜ今頃?」と質問が出た。東電は「資料を整理していたら、あることがわかったので」。細野首相補佐官は、「協力会社の人が撮っていたということで」。何にしても、2ヶ月以上である。

 新聞は夕刊で、テレビは午後の時間帯に一斉に写真を伝えたが、大方は何枚かを並べて見せただけ。説明も東電の発表通り。毎日がウェブで17枚全部を見せていたが、「なんで2ヶ月も経って」とかみついたのは、見たかぎりでは報道ステーションの古館伊知郎だけだった。

 テレ朝は、写真の意味をわかっていた。CGで描いた原発に撮影場所とアングルを合わせて、連続写真を見事に動く絵にして見せた。水の来た方向もわかる。4号機わきの高さ5mの重油タンクが水没して、乗用車がカベにひっかかり、津波が海面から14-15mの高さに達していた状況が実によくわかった。凄まじい破壊力だ。

 画像はひと目で「これじゃぁ、タービン建屋も外部電源も保つわけがない」とわからせるものだった。だからこそ、写真は津波の直後に公表すべきだった。世界に向かって発信すべきだったのである。

 これで気がついたのか、朝日が朝刊でもう一度写真を載せて、詳しく説明を書いていた。夕刊の扱いでは不十分でした、といっているようなもの。みっともない話だが、新聞がわからないのでは、東電にその意味をわからせるのは無理だろう。

 事故直後は「ベント」だ「注水」だと追われてはいただろうが、人はいくらもいたはず。しかし「被害の全容把握」という、イロハを怠った。作業員からの聞き取りもしていなかったのであろう。というより、外へ出るのが怖かったのだと思う。放射能汚染マップですら、米軍のロボット頼みだったのだから。

 東電は17日にも、最近の原発内の状況を撮った動画を公表していた。免震重要棟の様子や19日の写真にあったひしゃげたタンクなど、多くは東電としては初めて出す映像だった。

 なかに、多数の真新しい仮設タンクが並んでいる絵があった。汚染水の処理のためであろう。また、パイプが原子炉によって色違いだとか、作業がかなり進んでいることをうかがわせた。「こんなことをやっていたのか、何も発表しないで」

 しかし、これを伝えたテレビはなかった。仮設タンクなんて絵として面白くないからカットして、放送したのは防護服ばかり。ではどこで見たかというと、おかしな話だが、読売のネットサイトだ。新聞は動画を載せられないから、たいしたニュースではないという判断で、そこに置いたのだろう。

 メディアがこんなだと、見る方が判断しないといけない。さらに、メディアが伝える内容が食い違うと、読者は途方にくれるしかない。1号機が爆発したあとの海水注入をめぐるすったもんだがそれだ。

 産経や読売は、3月12日夜東電が始めた海水注入を、菅首相が「聞いてない」と怒って一時止めさせた、と伝えた。コラム「産経抄」は、「海水注入は首相指示だったはず」、それを「止めていた?」と、薄田泣菫まで引き合いにだして、嘘つき呼ばわりまでしている。が、その後の発表では、首相は注水自体を知らなかったという。

 どっちが本当かはいずれわかることだが、元はといえば情報がすっきりと出てこないからである。東電もあるし政府もある。しかし、元はといえばメディアが蒔いた種。完全になめられているのだ。みなバラバラで、肝心のことをきちんと追及しないからこうなる。

 この話では意外や、原子力安全委の班目春樹委員長が登場した。海水注入の指示を出す際に、首相が気にしたのは再臨界の可能性だった。これを問われて班目氏は「危険がある」と答えたと、統合対策室が説明していた。

 これに班目氏が、「危険があるとはいってない。可能性はゼロではないといったのだ」と反論した。さらに、「だれが注水を止めたのか、追及する必要がある」とまでいう。そんな話今となってはどうでもいいのだが、ちょっと驚いた。この人はKYな人だと思っていたが、ふりかかった火の粉には敏感だった。

 ま、それはともかく、気になったのは記者団である。委員長の話をおとなしく聞いて、その通りを報じてそれでおしまい。せっかく出てきた当事者に、そのときの官邸の様子を聞きもしない。報道の食い違いをただしもしない。

 海千山千の政治家と違って会見慣れしていない、ましてKYの学者とくれば狙い目である。しかも、問題の夜のやりとりがテーマだ。そのときあなたは、首相は、東電幹部は何をしていたかと、それこそ根掘り葉掘り聞く絶好のチャンスだった。しかし聞いた形跡はない。むろん記事にも出ない。

 メディアはもう長いこと一枚岩ではない。主張の違いではなく、権力との距離である。この亀裂は、行政や権力に対するメディアの存在感を薄め、互いの連帯感を失わせた。結果、総体としてメディアが劣化したのではないか? 原発報道では、その思いがずっと続いている。

2011年5月17日火曜日

「原子力は安い」はホントか?


 テレ朝の「モーニングバード」が面白い切り込みをやった。「原子力発電は安い」という「常識」で、日本のエネルギー政策は成り立っている。「それはホントか?」と検証を試みたのだ。

 ナビの玉川徹は、官の無駄遣いなどをしつこく追及してきた硬派のリポーターだが、今回もインタビューとデータをうまくパネルに組み立てて、説得力のあるお話を展開した。

 国や電力会社がいう数字は、電気事業連合会が出している発電コストの比較で、1kwh当たり原子力5.3円、火力6.2円、水力11,9円となっている。

 だが、これに異を唱える人はいた。まず京大原子炉実験所の小出裕章助教。原子力の専門家でありながら、原発に反対している。その理由を「原子力に夢を託してこの道に入ったが、事実に反する」。電事連の数字は、「通産省がモデルを作って出したイカサマ計算だ。原子力は安くない」という。

 独自にコスト計算をしたのが立命館大の大島堅一教授だ。政府の審議会は、発電所がいくら、何十年使う、燃料はいくらなどを仮定して、モデル計算をする。すると、原子力が一番安いと出る。

 しかし大島教授は「私のは、仮定ではなく実績をもとにした計算。国民が負担した費用はいくらだったか。それを得られた発電量で割った」という。40年間の実績(有価証券報告書)から割り出したら、水力7.08円、原子力8.64円、火力9.8円。原子力は2番目になった。

 教授はさらに、国民負担という観点から「税金負担分」をこれに加えた。原子力には税金が多く使われているので、「2円くらい高くなる」。すると、水力7.26円、火力9.9円、原子力10.68円で、とうとう一番高くなった。

 この税金というのが電源開発促進税で、1kwhにつき37.5銭。東電管内の一般家庭で、毎月約108円が上乗せ徴収されているのだという。これが何に使われたか、と玉川は例を2つあげた。「青森・六ヶ所村の文化交流プラザ」と「福井・敦賀市のきらめき温泉リラポート」で、交付金が31億円と24億円だと。たいそうなアメ玉だ。

 大島教授は「再処理をいれると高コスト事業なんです。国民の合意がえられるかどうかは微妙だ」という。そう、再処理はいまだに動き出していない。これまでいくら使われたか、この先どれだけかかるのか。アメリカと組んで、モンゴルへという話まで出ている。

 そして登場した自民党の河野太郎が面白かった。
 「通産省にバックデータを出せというと、黒塗りになったものを出してくる。これは何だというと、電力会社の企業秘密なので出せませんという。3月11日の後に請求しても同じだった」。この期に及んでも、経産省はなお、企業の問題だというのか。まったくひとつアナの何とやらだ。

 河野はさらに「都合が悪い数字なんでしょう。これまで原発を進めてきた経産省、電力会社、利権団体には。でなければ堂々と出すでしょう。(それを隠して)安いですよ、CO2は出しません、でやってきた。しかし歴代経産大臣は、資料を見ることができた。何をしてたのか」といっていた。その責任の大半は自民党にあるが、いま、海江田大臣はこれを見てどういうか。

 玉川は、「メディアの責任もある。ただ、信じてきたんだから」といって終わった。まさにその通り。こと原子力に関しては、メディアは電力会社の筋書きに従い、異論に耳を貸さなかった。安全性しかり。エネルギー政策での位置づけしかり。コスト計算もそうだったのか。

 その従順さはいまも続いている。東電が会見で出す状況説明や数字を素直に伝えるばかり。先週東電は、福島1-3号機のメルトダウンと、格納容器の底にアナがあいていることを認めた。すると「深刻な事態だ」と書く。

 だがそんなことは、ことの初めからさまざまなデータが示していたことだ。ただ、東電が「メルトダウン」という言葉を嫌っていただけのこと。最初の会見でこの言葉を使った原子力安全・保安院の担当者は、以後姿を消してしまった。誰かの逆鱗にふれたのだろう。

 しかも、1号機の建屋の地下に3000トンもの水がたまっていることがわかったと。ばかばかしい。ことは単純な引き算ではないか。これまで1万トンからの水を注入していながら、格納容器内の水位があがらない。それも何週間も続いているのだ。小学生だって「底が抜けてる」と答えるだろう。しかしメディアはこの間、これをつつき出すことすらしなかった。

 発端は、格納容器を水で満たして「水棺」にする作業だ。注水でいったん上がった内部の圧力がなぜか下がり始め、「酸素が流入する恐れ」から注水を止めた。理屈に合わない経緯だった。そのとき東電は、理由はわからないといった。わからないはずはあるまい。が、このときもメディアはその通り書いた。

 これとていま、小学生に聞いてみるがいい。「注水の途中で底が抜けたから」と明快に答えるだろう。本来想定していない水の重量に、格納容器下部の配管などが耐えられるものか‥‥「水棺」作戦がアナを開けた? 今回東電はこれに言及しなかった。メディアも書かない。気がついてもいない。

 原子力は専門家の世界。とりわけ放射能となると、測定結果と専門家の見解がすべてである。しかし人体への影響となると、まだ未知の分野なのだ。異論も多々ある。面白い見解もある。いつになったら、こうした話を読ませてくれるのだろうか。従順な羊たちよ‥‥。

2011年5月12日木曜日

原発写真がないとは


 有楽町の朝日ギャラリーで、「東日本大震災・報道写真展」を見た。テレビの動く絵とは違う、一瞬を切り取った悲劇や人間ドラマの迫力はさすが。スチルにはスチルの良さがある。

 連休中だったが大変な人で、声援のカードの花が沢山並んでいた。会場の中程に置かれたテーブルには、震災から1週間分の新聞が置いてあって、感想ノートがあった。のぞいてみると福島から首都圏に避難してきた人の「原発は人災です」なんてのもあった。

 だが、会場を一巡して出口に向かったところで、「エッ」となった。福島原発の写真がないではないか。見事に1枚もない。周辺市町村の写真もない。朝日の写真展だから、自前の写真は撮っていないということだ。テーブルの上の紙面は13日から18日の朝刊まで、朝夕刊ずっと原発が一面トップだというのに。

 政府は最初の爆発後、航空法で「原発上空飛行禁止」の網をかけた。旅客機も外気を吸い込む、との理由だ。しかし、報道用は目的が違う。また、同心円で20キロ、30キロ圏内は、避難、待機など立ち入りが制限されたが、これも住民の健康のためであって、報道は埒外のはず。

 メディアに取材する意志があれば、安全は、記者、操縦士とメディアが考えることだ。政府がとやかくいうことではない。にもかかわらず、原発や規制区域内の写真もなければナマの記事もなかった。ということは、メディアの意思であろう。

 知り合いに聞いてみると、これは朝日だけではなかった。放射能汚染地域への立ち入りを、新聞・テレビ各社とも業務命令で禁じていた。では何を拠り所に? それが、どうやら政府の規制――航空法と同心円なのであった。なんということだ。

 これまでにも、たとえばベトナム戦争でのサイゴン陥落、イラク戦争の米軍の攻撃では、その直前に新聞・テレビ各社とも記者を退避させている。今回も、考え方としてはそれと同じだという。たしかに、いたずらに記者の身を危険にさらす必要はない。記者が残るといっても、ダメだという判断はありうる。首脳陣の責任もあろうし、組合との問題もある。

 だが、今回は戦場ではない。放射線が相手だ。線量計でわかるのだから、危なければ退避すればいい。なによりも、規制区域の中でもまだ一部住民が生活していた。牛のエサやり・搾乳に、避難所から通う人もあった。福島原発では現に人が働いているのだ。

 放置されて餓死した牛や豚、町をさまよう牛やイヌの姿は、この災害でもある意味もっとも悲惨なものだったが、それを伝えたのは、動物愛護団体のボランティアやフリーのカメラマンである。そして、防護服の警察官が原発近接地区の遺体捜索を始め、警察庁長官も防護服で視察したが、入ったメディアは限られた。

 そしてつい先頃、民間シンクタンク独立総研の青山繁晴氏が、防護服で第1原発に入り現状を初めて伝えた。おそらくはデジカメによる不鮮明な動画だったが、内容は衝撃的だった。

 津波の被害は想像をはるかに超えていた。巨大なクレーンが倒れ、トレーラーが逆立ち、建物の骨組みも配管の類いもグチャグチャ、一面がれきの山だ。もう、発電所の体をなしていない。

 指揮所になっている免震重要棟の入り口は二重の扉で、同時に開かないように防護服の2人が立つ。出かける作業員たちと行き交う。入ると汚染されたものを脱ぎ、除染する。2階は緊急時対策本部で、24時間態勢。原発の指揮官吉田昌郎所長の姿も初めてみた。

 東電はこうした一切を公表しない。もう梁山泊か関東軍である。発表は、原子炉の状態、給水の方策、汚染水の処理‥‥そんな話ばかり。全容を公表しないために、どれだけムダな時間と労力が費やされたことか。ひとつの例が放水だ。

 自衛隊や東京消防庁が必死の放水作業をしているとき、建設業界の人たちは「コンクリートポンプ車があるのに」と思いながらニュースを見ていたという。いま3、4号機に張り付いているのがそれで、四日市の建設会社がわざわざ申し出て提供したものだが、話が通るまでに5日もかかっている。

 こんな中でこそメディアの役割がある。放射線量が下がったところで海側からヘリを飛ばせば、近接しなくても発電所の現状がわかる。容易ならざる事態であることは一目瞭然だ。40日以上もそれを知らなかった、伝えられなかったとはーーメディアとして恥ずべきであろう。

 かつて朝日は、チェルノブイリの放射線量がまだ高いときに、あえて突っ込んで、すばらしい写真ルポをやった。あれに較べれば、今回の汚染はとるに足らない。

 8日、原発から4.5キロ地点に入った岡田幹事長に、一部テレビが同行した。幹事長は完全防護姿で、20キロ圏内の南相馬市の工場でもフードとマスクはしていた。が、説明する市長も社長も顔を丸出しだった。幹事長とメディアに誇示してるようにも見えた。このとき記者とカメラも顔をさらしていただろうか。

 毎日新聞は先頃、写真部長が汚染地域に踏み込んだと聞く。これで他社に動揺が走ったそうだ。現場に突っ込まなくても恥ずかしいと思わないようでは、メディアの名が泣く。

2011年5月2日月曜日

知ってないといけないこと


 ようやく読みたい記事が紙面に出た。産経の29日付一面トップ、「いまの東京の土壌の放射線量は、60年代初めと同じ」というヤツだ。年配の人たちはみな知っている(が、忘れている?)こと、統計数字もずっと残っているものなのに、いまごろである。

 データは「気象研究所」(つくば市)のもので、過去最高は63年6月の東京で、放射性セシウム137が1ヶ月間で1㎡当たり550ベクレルだった。福島原発事故後の都健康安全研究センターの測定では、4月11日の同170ベクレルが最高で、単純計算で月間数百ベクレル。まさに同レベルである。

 気象研究所のグラフを見ると、60年代から数値はどんどんさがって、近年では最高時の1万分の1の水準だった。途中でポンと高くなっているのが、96年のチェルノブイリ事故で、次は今回の事故、とはっきりしている。

 60年代は、米ソが大気圏内での核実験を繰り返した結果で、遅れて中国なども加わっている。当時子どもたちは、「とくに雨の降り始めには、濡れないように」と注意を受けたものだったが、パニックになることはなかった。騒いだところで、どうにもならない。また、日本にはすでに、広島、長崎も第5福竜丸もあった。

 わたしはこのころ大学で山登りをしていたから、散々雨に濡れて、しかもハアハアと放射性物質をたっぷり吸い込みながら歩き回っていたものだ。といって、その後仲間がパタパタとがんで死ぬなんてこともなかった。

 記事は、「それでも健康被害が生じたというデータはなく、専門家も『過度な心配は不要』といっている」となっていたが、これは因果関係がわからないというだけのこと。実際は影響があったかもしれない。が、そんなことよりも、この事実だけは日本中が、いや世界中が知っておかないといけない。汚染は地球全域に及んでいたのだから。

 事故の直後、一部のテレビの解説で、このグラフを見せて「心配することはない」という専門家もいた。それが大きな声にならなかったのは、東電に味方すると受け取られかねなかったからだろう。また一部週刊誌も報じていたようだが、いま産経が出した。他の新聞は知らなかったのか。知っていて出さなかったのか、ここが気になる。

 年配者の実感からいうと、アメリカの外交官が逃げ出したり、中国の観光客が一斉に来なくなったりなんぞ、笑止千万である。彼らにいってやらないといけない。「お前らの親父やじいさんが何をしたか、知ってるのか」と。アメリカは爆弾まで落としている。

 もっともこれらの国では、とりわけ放射能の人体への影響は民衆には知らされなかった。中国は「軍事機密」ですむから話は簡単だが、アメリカの場合は手がこんでいた。広島、長崎での結果について、軍が報道管制と強烈なネガティブキャンペーンを張って、押さえ込みに「成功」したのである。

 東京湾の戦艦ミズーリで行われた日本の降伏調印式(1945年9月2日)をすっぽかして、2人の従軍記者が、夜行列車を乗り継いで広島へ乗り込んでいた。オーストラリア人のW・バーチェットとNYタイムズのW・H・ローレンスだ。「新型爆弾の威力」ルポは、セレモニーなんかよりはるかに値打ちだった。

 しかし、彼らが衝撃を受けたのは、1発で広島を灰燼に帰した爆発の威力よりも、被爆者の白血球の減少、出血、発熱、毛髪の抜け落ち‥‥一見無傷の人間が、バタバタと死んでいく不気味さだった。

 バーチェットは英紙デーリー・エクスプレス(9月5日)に、「アトムの疫病」を載せ、「未知の異変を、世界に警告する」と書いた。ローレンスも同じ日、NYタイムズに「日に100人もが死んでいる。残留放射能だ」と書いた。

 米軍はただちに動いた。翌6日東京での記者会見で、放射線障害を完全否定しただけでなく、19日にはプレス・コード(検閲)を発して、原爆についての不穏当な記事を全て握りつぶす。

 同時に本国の科学記者たちをニューメキシコの核実験場へ招いて、ありとあらゆる偽のデータを示して、「原爆は安全」というキャンペーン記事を書かせた。あげくにNYタイムズの記者は、これでピュリッツァー賞までとってしまう。(先頃、これを取り消すという報道があったようだが‥‥)

 その後、たったひとり米軍の規制をかいくぐった記者がいた。米人ジョン・ハーシーで、「ニューヨーカー」は丸々一冊の原爆特集(46年8月31日号)を組んで、即日完売という大反響だった。が、高まる米ソの核軍拡競争のなかで世論にはならなかった。

 だからこそ、その後の核実験時代にも、冷戦の論理がすべてに優先できた。そして核実験停止、核不拡散の動きを経て、冷戦体制が集結したころには、世界中が忘れてしまったのである。

 ちょうど80年代の初め、「デイアフター(原爆の翌日)」という映画が西欧諸国で大きな反響を巻き起こしたことがあった。作り物の映画だというのに、「あまりにも悲惨だ」と。こちらにいわせれば「バカヤロウ、何をいまごろ」であった。欧米の原爆理解はその程度だったのだ。まして目に見えない放射能なんて、実感できるはずがない。米のキャンペーンの効果が40年も持続したとは、実に驚くべきことである。

 そのしばらく後のチェルノブイリで、世界はようやく気がつく。それもまた、四半世紀を経て忘れかけていたところだった。その意味でも福島は、貴重な「覚せい剤」でなければならないのだが‥‥当の日本人までが風評で踊るとは、まさに世も末としかいいようがない。