2011年7月27日水曜日

地デジがいまもってわからない


 とうとう慣れ親しんだアナログテレビが消えて、地上波デジタルに移行した。例の「2000年問題」と同じで、過ぎてしまえば何のことはない。20万人ほどが、しばらくテレビが見られなくなったそうだが、テレビがなくてもそれほど困らないことが確認できて、かえっていいかもしれない。

 わが家は恥ずかしながら、家電量販店の安売り宣伝に乗った家人が、受像機だけは早くに地デジ対応にしてしまったので、スリルを味わうこともなかった。ただ、ひとつだけ頭を悩ませたのは、録画装置だった。ブルーレイだの何だのは、決して安くはない。そんなものまで強制されてたまるか。

 画像は素晴らしいというが、もともとメガネをかけてようやく見えているような目だから、たいした違いはない。ところがこれもJCOMが、当分はアナログ変換の画像を流してくれるとわかって問題解消。こんなことなら、テレビも古いままでよかったのに、と思ったが後の祭りである。

 この地デジというやつ、いまもってよくわからない。電波の有効利用のための国策で、総務相が2000億円、NHKと民放が中継局や機器の導入に1兆5000億円を投じたというが、それ以上に全国民に「テレビを買い替えろ」と強いたのだから、とんでもないことである。

 そもそもは、NHKと総務省の筋書きである。民放なぞは嫌々だった。そりゃあそうだ。投資額が半端じゃない。そのころNHKの研究所でデジタルの実験を見たことがある。民放からも来ていて、いろいろメリットを並べていた。「双方向になりますから、番組に視聴者が参加できます」という。

 「例えば?」「クイズに応募できます」「こんな大金をかけてクイズかよ」「‥‥」。その後地デジ化がどんどん進行しても、発想が深まることはなかった。肝心の電波の有効利用の方は、まだこれからなのだという。そのメリットとやらを、早いとこ見せてもらおうじゃないか。

 たしかに画像は鮮明で、データ放送だとかマルチ編成だとか、可能性がいろいろあるとはいう。しかし、大方の視聴者は「いまのままでいい」といっていたのだし、現に地デジになっても放送内容に大差はない。夜なんぞはどこを見てもバラエティーばかりで、大枚をはたいたメリットが見えてこない。現に、テレビの平均視聴時間は減っているというではないか。

 こんなものを訳もなく強制されて、よくまあ暴動を起こさないものだと、日本人の従順さにあらためて驚く。買い替えのために減税だの何だのと「国策」を振り回して、またそれに応えて家電量販店に人々は群がった。何と御しやすい国民だろう。

 新聞はみな社説で、「地デジ時代」に触れた。しかし、その内容を見ると、混乱を最小限にしたいとか、「電波の全体利用計画をわかりやすく」とか、新聞自体が地デジ化をよくわかっていないのがありありだ。

 また、地デジの楽しみ方の解説もあった。誰もが見てわかるのが画質だからこれはいいとして、データ放送はたしかに便利なものだが、はたして使える人がどれだけいるか。マルチ編成で3つの番組まで同時に見えるといったところで、聖徳太子じゃあるまいし。みんなテレビにそこまでを求めちゃいまい。

 多チャンネル化もひとつの売りだが、これは有料番組が増えるというお話だ。ほとんどが映画、スポーツ、娯楽だろう。代わりの手段はいくらでもある。さらにインターネットとの連動となると、わざわざテレビがやることか、といいたくなる。そのうちテレビにキーボードを、てなことになるのだろうか。そんなものだれが使うか。

 それよりも、アナログ停止で空いた電波をどう使うかだ。携帯端末向けのマルチメディア放送が来春スタートするという。が、それはもはやテレビの話ではあるまい。携帯の方が進歩しているのだ。その携帯用の周波数帯を広げるのが本来の目的であろう。

 そちらが公平に広がらないようだったら、みんなしてテレビを買い替えた意味がない。視聴者は口を出す権利を買ったようなものである。双方向性は、ここでこそ確保しないといけない。

 地デジ切り替えの前日や当日になって、家電の店にやってきた人たちが相当数あった。「最後は安くなるだろう」という思惑は、残念ながらはずれたらしい。また画面が見えなくなったあと、総務相のコールセンターに問い合わせが10万件もあった。こちらの多くはお年寄りだという。

 テレビニュースは、「間抜けな人たち」といった口調で伝えていたが、とんでもない、最後まで政府に踊らされなかった立派な人たちである。彼らがそこでひと騒動起こせば完璧だったのだが、惜しむらくは、騒ぎとは無縁な善良な日本人ばかりだったらしい。

2011年7月24日日曜日

週刊誌の機転が冴える


 肉牛の放射性セシウム汚染は、とうとう松阪牛にまで及んだ。宮城県の稲わらを食べさせていたためだという。あらためて日本は狭いと思う。牛の移動だけでなく、エサも何百キロも離れたところへ送られていた。これでは防ぎようがない。

 農家にしても、原発からはるか80キロも100キロも離れたところで、稲わらからかくも高い放射線量が出るとは思っていなかった。原発事故の後に刈り取った草や稲わらは牛に与えないようにと、お触れは出ていたというが、牛乳であれだけ大騒ぎをしながら、肉牛に目配りを欠くとは、農水省もお粗末極まる。

 追跡調査で、残っていた肉から一部で国の規制値500ベクレル/キロを上回る数値が出た。が、規制値以下のものもある。すでに食べちゃった人たちは、どっちだったかわからない。追跡調査をしても、こればかりはどうにもなるまい。

 知りたいのは、この規制値500ベクレルが何ほどのものかだ。松阪牛では規制値よりかなり低かった。が、出荷自粛だという。じゃあその肉はどうなるのか。また、多少規制値より高くても大丈夫という専門家もいる。むろん、すでに食べちゃった人へのコメントだ。じゃあお前さん、ひとつ食べてみるか?

 要するに500という数値自体がよくわからないのだ。これが一向に新聞には出てこない。目にしたのは週刊誌である。「週刊ダイヤモンド」が専門家のインタビューを載せていた。崎山比早子さんという、元放射線医学総合研究所主任研究員である。

 話のポイントは2つ。放射線被曝の長期にわたる人体への影響を判断するのは、広島・長崎の生存者9万人の生涯追跡調査が元であること。もうひとつは、どれだけ以下なら安全かという「しきい値」はないということだ。

 広島・長崎の生存者は、平均で200㍉シーベルト(半数以上は50mSv)という高濃度汚染だったが、現行の規制値は、これを直線的に低線量に置き換えて、国際放射線防護委員会(ICRP)が出した勧告が元になっている。他にチェルノブイリの周辺調査も25年の積み重ねがあるが、しきい値がないという以上、500という数字ですら安全とは言い切れないことになる。

 しかし一方で、低線量の領域になると、日常さらされている医療や自然放射能と大差ない。だから、大丈夫だという人もいる。事実60年代には、各国の核実験によって地球全体が相当な高濃度汚染にさらされていた。これが福島と較べてどの程度の汚染であったのか。知りたいのはここだ。

 現状から逃げることは出来ない以上、少なくとも、いまがどの程度の「地獄」なのかが知りたい。だが、新聞・テレビは、この程度の基礎的なことすら、わかりやすい形では伝えていない。視点が定まらない。機転もない。規制値を上回った、下回ったという話ばかりで、右往左往する役人や政治家の後ろを走っている。

 いま焦点の「西日本の電力不足」を、独自の試算から「ウソ」と断じたのも同誌だった。電力各社の発表をもとに、安定供給の目安となる「供給予備率」から最大出力と供給力との差に切り込み、「隠しだま」を洗い出して、西日本で最大1500万キロワットの余力があるとはじき出した。余力はまだ他にもあって、「原発停止=電力不足はウソだ」という分析は説得力があった。

 表の数字ではたしかに電力不足が懸念される。しかし、節電の呼びかけには、原発停止に対する電力業界の巻き返しの臭いがする。「このままでは企業が海外に逃げてしまう」「経済的打撃が大きすぎる」と、経団連までが声高に政府を攻撃する。同誌は、これに切りこんだのだ。

 これを読んで、いま新聞にこれをやる能力があるだろうかと心配になった。むろんできないことはないだろうが、なによりも発想である。思いつかなければ、何も出てこない。

 案の定だが、22日の朝日の社説は、「西日本も、さあ節電だ」だった。まあ、お人好しというかなんというか、「電力不足に陥りそうだという」「当面は節電でしのぐしかない」と。さすがに「もっと根拠のある数字と説明を」と書いていたが、要は旗ふりそのものである。電力業界はほくそ笑んでいたことだろう。

 日頃発表の場からは外されていることが多い週刊誌は、まさに発想が勝負だ。「週刊ダイヤモンド」は時に意表をつく特集や切り込みが売りである。だが、発行部数は15万部ちょっとだ。朝日の論説も読んでいなかった。もし読んでいたら、ああまで素直な社説にはならなかっただろう。

 先週の週刊ポストがやった、ガイガーカウンターの能力較べは傑作だった。5万円のカウンターは50万円のものの倍の値が出た、というのだ。安い方のカウンターは、一般市民がいま大いに使っている。その高い数字をもとに、ああだこうだいっている新聞・テレビへの痛烈な一撃だった。

 週刊誌の目配りが冴えている。ひるがえって大手のもディアは、相変わらず表の発表を素直に伝えるばかり。ツイッターのコピペと変わらない。いや、ツイッターは裏の情報があふれているから、刺激としては上かもしれない。

2011年7月12日火曜日

やらせメールのどこがおかしい?


 玄海原発の再稼働をめぐって、経産省が先月26日佐賀で開いた説明会に、九州電力が子会社や事業所に「賛成メール」を送るよう指示していたことがわかった。日本中が原発に目を剥いているというのに、まあ無神経なことである。

 6日の衆院予算委で、共産党の笠井亮氏が持ち出して大騒ぎになった。この説明会は、ケーブルテレビとネットで中継されたもので、住民の出席は経産省が選んだ7人だけ。傍聴者なし、報道関係にも非公開だった。

 ために笠井氏ははじめ、「もっとオープンな場で聞くべきだ」と問い、これを海江田経産相が「CATVとネットのライブだから公開だ」と突っぱねた。そこでこの話を持ち出したものだから、経産相も菅首相もギャフンだ。「けしからん話だ」といわざるを得なかった。

 九電も社長が会見して事実を認めたのだが、これがまたひどいものだった。何をきかれても「コメントしかねます」ばかりで、途中で紙が1枚入って、それを見ながら「責任はわたしにあります」というまでに30分はかかった。あの紙は何なんだ。

 おかげで、再稼働に同意していた玄海町長が同意を取り消し、当面の再稼働は吹っ飛んだ。九電はこれまでもそうしたやり方を通してきたのだろうから、「やらせメール」自体にはさして驚きもしないが、腑に落ちないのは情報の出方と伝わり方である。

 共産党議員がいきなり国会で、というのは近年珍しい。おかしいなと思ったら、すでに「しんぶん赤旗」が2日付けで伝えていた。さらにこれを受けて、4日の鹿児島県議会原子力安全対策特別委で質問が出て、九電が否定していた。いったいどういうことだ。

 一番大きく1面トップで伝えた朝日新聞(7日朝刊)は、社会面に「6月下旬に情報を入手したが、九電広報は、『メールで指示は考えられない』といっていた」とあった。読売も似たような書き方だ。つまり、「赤旗」が伝える前からそういった情報が流れていたのだが、取材は正面玄関をたたいただけで、広報に突っぱねられて「はいそうですか」と引き下がっていた。

 続報をみると、説明会前日の25日、九電子会社の社員が共産党のどこかの事務所を訪れて、社内で流れたメールを示して、「コンプライアンスに反する行為は会社のためにならない」といったという。立派な内部告発である。

 さらに、武藤明美・佐賀県議(共産)が、説明会当日の26日朝、佐賀県幹部にこの旨を伝えたが、県はそのまま放置したという。党は告発者がだれかは教えなかったが、コメントが各社全く同じだから、武藤県議が出したものに違いない。

 結局どこもウラがとれなかったのだろう。「赤旗」にしてからが、メールの文面を手にしていながら2日朝刊である。1週間も何をしていたのか。しかも「赤旗」に出てからも、各社動かなかった。そして4日後、国会での発言となる。佐賀の取材網は眠っていたのか? 共産党情報だからと、色眼鏡で見ていたのか?

 まだある。真っ当な内部告発なのに、なぜ報道機関でなく共産党へいったのかだ。その社員が党員だった可能性は高い。しかし、それならなぜ「赤旗」が報ずるまでに1週間かかったのかが腑に落ちない。現に県幹部には即座に話しているのだ。会見を開いて、説明会をぶち壊すこともできたはずである。

 このあたり、共産党の情報の扱いもうさんくさいが、各社が情報をつかんだのは、おそらく県幹部か周辺だ。そこで県議にも取材はした。が、ソースはわからない。で、九電に「モシモシ」してそれで終わりか。

 もし、告発者が党員でなかったとしたら、メディアとしては深刻だ。かつてメディアは、とりわけ新聞は、反体制的な情報の一番の持ち込み先だった。扱いにも慣れていた。情報提供者がわからないように、かつ満足がいくような紙面づくりで応える。その結果が次につながる。

 新聞の信頼感は、そうした積み重ねでできていたはず。それが崩れているのではないか。例の尖閣諸島での中国漁船の映像騒ぎがいい例だ。神戸の海上保安官は、映像をCNNに送ったが、そのあとはYouTubeだった。日本のメディアは眼中にない。

 一線の記者の存在感が薄くなっているのかもしれない。便利なネット情報の活用に慣れて、地道に歩き回る姿が見えにくくなっているのではないか。タレコミの多くは、そうした姿をたどってくる。人から人、口から口。情報とはそういうものである。

 少し心配しすぎかもしれない。今回は党員だった可能性が高そうだ。しかし、それでも端緒はあった。にもかかわらず、玄関取材だけであっさり引き下がってしまう、素直でお人好しがひっかかるのである。まして「赤旗」が報じて、鹿児島県議会でも話が出たというのに、鈍感にもほどがある。

 根はひとつではなかろうか。メディアとしての信頼が一朝一夕に得られるものではないのと同様に、失うのも突然ではあるまい。日々の報道がじわじわと劣化していった結果ではないのか。今回のお粗末は、日々の紙面のおかしさ、かくのごとし、という実例である。

2011年7月7日木曜日

政治家との距離感


 松本龍・復興担当相の辞任は、まさに身から出たサビ。それにしてもひどい発言だった。

 岩手の達増拓也知事には、「知恵を出さないヤツは助けない。そのくらいの気持ちを持て」。宮城の村井嘉浩知事には「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないとわれわれは何もしないぞ。ちゃんとやれ、そういうのは」

 しかも遅れて部屋に入った村井知事に、「お客さんが来るときには、自分が入ってからお客さんを呼べ、いいか‥‥長幼の序がわかっている自衛隊なら(知事は自衛隊出身)そんなことやるぞ。わかった? しっかりやれよ」

 まだあった。今度は記者に向かって、「いまの最後の発言はオフレコです。いいですか。みなさんいいですか? 書いたらもうその社は終わりだから……」

 気になるのはメディアの伝え方だ。異様ともいえる命令口調には、記者たちもカチンときたのだろう。一斉に「放言」と伝えたのはいいが、最後の「オフレコです」を載せたのは、見たかぎりでは毎日だけ。ただ、「書いた社は終わり」はなかった。

 産経以外は各社概ね内容を伝えてはいたものの、いわゆる雑報であって、何より問題の「命令口調」が出ていなかった。「オフレコ」が半分は効いていたのか。ナマの言葉が出てきたのは、騒ぎが大きくなってからだ。

 ここで力があったのはテレビ映像だ。直接見てはいなが、東北放送が発言をそのまま流したのが皮切りだったらしい。それがYouTubeにのってネットで騒ぎになった。各局も流し出す。命令口調がそのまま。オフレコのところも、まるまる出た。

 それにしても、オフレコとはなめられたものである。松本氏は日頃それで通してきたのであろう。それを許してきた責任はメディアの側にある。生温い伝え方にそれが出ている。

 発言のその場で、「知事にその言い方は失礼でしょう」「書いたら終わりとは、どういうことだ」というべきだろう。これもメディアの役割のはずだ。もし、大臣といい合いになれば、それはそれで立派なニュースである。

 それをいわずにおいて、あとで「放言」とやんわり書いて、すったもんだ3日もかけて大臣の首を飛ばして、今度は辛口の論評をして、それでよしとするのか? だから傍観メディアといわれるのだ。怒りには瞬発力が要る。

 もし岩手の段階で、「大臣、あのいい方はきつ過ぎますよ」と声をかける記者がいたら、どうだったろう。宮城ではああはならなかったかも知れない。記者との距離をうまく保つのも、政治家の才覚のうちである。

 また記者にしても、政治家の失言やクビの話なんか書きたくはなかろう。それよりも仕事をしてくれ、まともな記事が書きたいと、そのはずである。ところがこのところの政治記事ときたら、そっちの話ばかり。「菅辞めろ」にしても、半分はメディアが騒いでいるようなものだ。被災地復興の足を引っ張っているのはだれなんだといいたくなる。

 オフレコについていうと、そもそもあれはルール違反である。自分の都合だけで勝手に網をかけて、すべて封じられると思うこと自体、思い上がりだ。いい悪いは別として、記者との間に一種の信頼関係がないと、オフレコも成り立たないものである。

 しかし、それが悪しき慣習として政界に蔓延してきたことは事実。そのために報道の辻褄が合わなくなった例は多い。09年3月、西松建設から小沢一郎氏への献金がらみで出た漆間巌官房副長官の発言なんか、まるでマンガだった。

 にもかかわらずその後も許してきたのは、報道の側である。この時は自民党だったが、それが民主党になっても続いてきたということだ。そんなだからなめられるのである。この罪は深い。

 松本氏は、復興相就任から、どこかトチ狂った風があった。会見にサングラス、「民主も自民も公明も嫌いだ」といってみたり。気持ちを問われて、ピーター・ポール&マリーの「ALL MY TRIALS(私の試練)」を持ち出して、「これで仕事に打ち込む。深読みできたら1万円」とナゾをかけた。

 若い記者たちは昔のトレンドなんか知る由もない。ところがフジの「とくダネ」でキャスターの小倉智昭が、聞いて即座に「もらえた」といった。彼は歌詞を諳んじていて、「All my trials, Lord, soon be overだよ」という。「私の世代はそれで育ったんだもん」

 歌詞の意味は「私の試練は間もなく終わる」というもので、大臣を引き受けたがすぐに終わる‥‥と読める。しかも、退任の会見では、カズオ・イシグロの著書を出して「NEVER LET ME GO(私を離さないで)」と口走っている。訳がわからない。

 彼は復興相就任を、政治キャリアに弾みをつけるチャンスと踏んだのかもしれない。ただ、地道に復興に取り組むのではなく、パフォーマンスに走ってドジを踏んだーーまあそんなところであろう。

 菅首相という、これまた歴史に名を残す千載一遇のチャンスを棒に振った男の下にいたのも、めぐりあわせなのであろう。菅という人もまた、新聞記者との距離がわからない人らしい。小沢氏もしかり。
 
 政治家は概ねメディアが嫌いだが、名を残した大物はみなメディアとの距離感を心得ていた。例外はない。

2011年7月2日土曜日

猿知恵メディアは要らない


 日本原子力研究開発機構が、福島原発から流出した放射性セシウム137の拡散状況をシミュレーションした。保安院発表をもとに、放出量を8450兆ベクレル(??)と仮定し、海流から1年後に4000キロ沖合、3年後にハワイ、5年後には米西海岸に達するが、結論を言うと、薄められて人体への影響はない、という内容だ。

 この報道が奇妙だった。産経は、「1年後の濃度は、核実験が繰り返された昭和30年代の3分の1」として、それが見出しになっている。毎日は、「半年後には過去のピーク時のレベル、7年後には10分の1」として、見出しは「海に拡散、濃度は低下」とだけ。

 また両紙とも、1年間汚染海域でとれた海産物を摂取した場合は、「年間1.8マイクロ・シーベルト」で、一般人の内部被曝限度量1㍉シーベルトの500分の1と書いている。ただ、これを「過去のピーク時(同1.7)とほぼ同じ」と書いたのは産経だけだった。

 他紙には載っていない。時事通信は、「5年後に米西海岸に到達。海水の放射能濃度を10%押し上げる」と。共同通信も「1年後には、50年前の3分の1、7年後には過去の汚染と見分けがつかなくなる」と、ともに短信並みだ。朝日はasahi.comだけ、それも時事電だった。どういう判断なのか、理解に苦しむ。

 同じ資料なのに、どこをつまむかで印象が大きく違う。いちばん「安全だ」と読めるのが産経で、毎日はほぼ同じ内容だが、見出しが弱い。テレビは知らないが、新聞各紙の関心は薄い。安全ならニュースではないのか。

 気仙沼で動き出したカツオをはじめ、魚介類の安全はいま最も関心が高いテーマだ。が、まだデータがない。水産庁の調査も、広い太平洋に点がひとつ、ふたつといったところだ。たとえシミュレーションでも、漁業関係者にも消費者にも明るい手がかりである。これを無視、軽視するとなれば、何か理由がありそうだ。

 「シミュレーションなんか」というのか。事故のあと、放射性物質拡散を予測したSPEEDIのシミュレーションをネグった結果をもう忘れたのか。それとも、原子力機構は「東電のお仲間だから」とでもいうのか。下手をすれば機構自体が危なくなるという状況下で、危険な賭けをするほど狡猾ではあるまい。では何だ?

 ひょっとして、50年前についての理解の差かな、と思ってしまう。産経はすでに、つくば市の気象研究所のデータをもとに、「いまの東京の土壌の放射線量は、1960年代初めと同じ」という記事を大きく載せている。これは60歳以上には覚えのあることで、まだ子どもだった50代でも、「雨に濡れると頭が禿げるぞ」といわれたのを覚えていよう。

 米ソの核実験競争の結果、地球の汚染はそれほどひどかったのである。しかし、これを字にしたのは産経と週刊誌の一部だけで、他の一般紙もテレビもほとんど触れていない。「東電を利する」と見られるのを恐れたのか? こういうのを猿知恵というのだ。

 いまの50歳以上の日本人は全員、いや世界中が、現在の関東・東北とそう変わらない汚染の元で一時期を生きたことは事実なのだ。冷戦下で情報は抑えられ、知識もなかったからパニックにもならず。また地球上どこにも、逃げていくところなんかなかったのである。

 その結果、ガンの発生率がどれだけ高くなったか、そんなことはだれにもわからない。これだけの歳月を経てもなお、放射能の人体への影響は、ほとんどわかっていない。基準値に幅があるのも、科学的根拠から直接導かれたものではないからだ。

 明らかなのは、ある時期全地球人がモルモット状態におかれて、その汚染下で生きた年代が、バタバタ死ぬどころか大方は元気で、寿命さえ伸びていることである。だから、福島原発の近辺はともかくとして、東京だのもっと西の地域までがうろたえる必要などないのだ。

 若い人たちは、人間の愚かさの実例として、この事実は知っておかないといけない。新聞は知らせないといけない。これを意図的に抑えるのは、結果的にパニックをあおったといわれても、仕方がなかろう。もっとも、恐ろしくて30キロ圏内に入っても行けないメディア自体が、すでにパニックだったといえなくもないが‥‥。

 どうも世論の流れに迎合して、記事を選んではいないかと気になる。これは、民放テレビではとうのむかしに始まっている。スポンサーもあるし、ある意味宿命みたいなものだ。しかし、もし新聞までがそうだとしたら、そんな新聞要らない。読みたくない。

 週刊ダイヤモンドのオンライン版に、群馬大が実測値から作成した放射能汚染地図が載った。地形図の等高線みたいに、等値線で描いているから、汚染の広がりと濃度が一目瞭然だ。ちょっと衝撃的ですらある。

 で、その記事がよかった。「新聞報道は、数字だけで要領をえない。新聞より雑誌のほうが役に立つ」と、他の週刊誌の例もひいていた。たしかに新聞の汚染地図は日々の数値を網羅しているが、読む方が考えないといけない。

 ITの時代だ。日々の放射線量の推移を、群馬大方式に置き換えることなどたやすいことだろう。頭を柔らかく、先入観なし、猿知恵なしに、伝えるべきものを見落とさないでもらいたいものだ。