2011年11月27日日曜日

8ヶ月の時間


 福島第1原発の空撮写真が、朝日新聞に載った。「東電が空撮?」と思ったら、「本社機から」だった。「やっと飛んだか、8ヶ月も経って」。だが、「高度1万3千㍍から撮影」とある。なんてことだ。

 国交省が30km圏内上空の飛行禁止を設定したのは、3号機爆発直後の3月15日である。5月31日には20km圏内になり、その後条件は少し緩んだが、飛行禁止そのものは続いている。この写真は、20km離れた高空から望遠レンズで撮ったというわけだ。

 だったら、なぜ5月に撮らなかった?と聞きたくなる。この8ヶ月間に原発上空を飛んだのは、自衛隊の放水ヘリ以外は、無人機だけである。今回の事故で、メディアは政府の規制をそのまま受け入れ、地上でも30km圏内の立ち入りを自粛した。空からの規制も律儀に守っているわけだ。

 規制は本来一般人のためのもの。警察や自衛隊が入れる以上、報道もまた特別に扱われて当然だが、これを認めないのは、「見せたくなかった」からであろう。しかし、大手メディアはこれに異を唱えなかった。いや、唱えたかもしれないが、突き破れなければ同じことだ。ゲリラ突破すらやっていない。

 放射能の危険はあった。が、防護服と線量計で安全の限界は見極められたはずである。現に警察や自衛隊は、そうして規制区域内に入っていた。にもかかわらずメディアは,一般人になったのである。1万㍍上空なら真上だって大丈夫だろうに、ここでも一般人になった。なぜかくも従順なのか。あるいは、規制を幸いと逃げたように思える。

 写真には、原子炉建屋の内陸に、汚染水のタンクがずらりと並んでいた。東京ドーム8個分の敷地だという。一般人の知らぬ間の大工事だ。写っていたのは8ヶ月という時間だった。

 これに先立って、第1原発に事故後はじめて取材陣が入った(12日)。しかし、記者は東京、福島、外通の36人がバスに乗ったまま、原子炉の周辺を回り、免震重要棟を訪れただけ。ガラス越しとはいえプロのカメラがとらえた映像は鮮明だ。津波と爆発のすごさにはあらためて驚く。しかし、どれもみなすでに知っている光景である。

 「防護服を着て」「息を飲んだ」「無惨な」‥‥新聞・テレビが伝えるどんな言葉も空しく響く。初めて会見に応じた吉田昌郎所長は「もう死ぬだろうと何度も思った」といった。8ヶ月も経って聞きたい言葉じゃない。映像も言葉も、事故直後でこそ報道ではないか。

 原発内の状況の悪さは予想をはるかに上回った。原型をとどめないほどぶっ壊れた3号炉建屋付近では、放射線量はバスの中で最高1㍉シーベルトにもなった。しかし、汚染の低いところには,防護服姿の作業員の姿がある。彼らの作業環境はよくなったという。よくなかった時を見過ごしておいてなにを今更である。
 
 朝日新聞は、ずっと取材を申し入れていたと書いていた。しかし、そんな言い訳自体が敗北である。この8ヶ月を恥じよ。この日は、メディア敗北の記念日だと思ってしかるべきだ。

 そんな中、朝日の連載「プロメテウスの罠」が面白い。事故直後、さまざまに研究者の動きを縛った元凶を突き止めて、こちらでは8ヶ月前を引き戻したのである。

 気象庁気象研究所(筑波)の海洋、大気の放射能汚染観測は世界最長を誇る。事故のあと文科省が「予算を他にまわす」と中止をいってきた。民主党参院議員が動いて7月予算が戻った。この間、予算的には止まっていたのだが、研究者はよそからの援助で観測を続けていた。長期観測の記録はかろうじて途切れずにすんだのだった。

 ところが、記事を見た文科省が、「助けたのはだれか」と記者にまで聞いてきた。「予算を返してもらう」のだと。未曾有の事故にも観測実績が途切れることにも無頓着。「財務省がうるさいから」というのだから呆れる。

 気象研の所長は、研究者の学会誌への発表を止めた。海外の専門家との共同執筆だった。世界中が待っているデータでもあった。しかし、自分の論理と保身だけで動く役人たちには、余分なトラブルのタネとしか映らなかったらしい。

 これらが全部実名で出てくるのだから、17日にあった気象庁長官の定例会見は、連載内容の質問一色になったそうだ。しかし、長官は「文科省に聞いてくれ」の一点張り。「文科省」を16回も繰り返したと、連載が書く。

 汚染状況の把握と公表が滞ったのは、東電と官邸のせいばかりではなかったことがよくわかる。見事な取材だ。部分的には、敗北のアナを埋めている。ついつい,これがリアルタイムだったらなぁ,と思ってしまうのは、へその曲がりすぎだろうか。

 このシリーズは3つ目の「観測中止令」が終わったところだが、まだまだ続く。何が出てくるのか,大いに楽しみだ。ただ、連載でちょろちょろと小出しに続くのが、何ともかったるい。

2011年11月20日日曜日

巨人内紛で見えたもの


 読売巨人軍の清武英利球団代表兼ゼネラル・マネージャーGMが、ナベツネこと渡辺恒雄球団会長を批判したのには驚いた。いわば飼い犬が手を噛んだわけだが、いつか誰かがやるだろうと、誰もがこの20年余思っていたことでもある。

 巨人とプロ野球界でのナベツネの専横は周知の事実だ。とにかく巨人のことだけ。いい選手がとれないとドラフトに枠をはめる。近鉄がなくなったときの冷たさ。他球団は眼中にない。さらには取材記者への柄の悪さは「老害」とまでいわれていた。新聞・テレビが大きく報道したのは当然だろう。

 ただ、情報の流れがこれまでと違った。11日午前9時、文科省の記者クラブにあった会見の予告を、メディアは一斉にネットで流し、ツイッターは「不祥事か?」といった予測も交えてふくれあがった。午後2時からの会見には100人もが詰めかけ、生中継した「ニコニコ動画」は28万人余が視聴した。新聞・テレビが伝える前に、これだけの数が中身を知っていたのである。

 夕方から各テレビ局がたっぷりと時間を割き、新聞も12日朝刊で大きく展開した。一番張り切ったのは産経で、1面、政治面、運動面から社会面まで6ページに関連記事が出た。まあ、ごくろうさまである。対照的に、日本テレビはちょこっと。当の読売は運動面にベタ記事で、「ヨミがどう書くか」と期待した向きはがっかりだった。

 一方のツイッターはほぼ「祭り」状態で、ほとんどが清武支持。「ナベツネ辞めろ」の大合唱で、読売の扱いに失望したという声も少なくなかった。これらメディアの伝え方までを克明に報じたのは、yahooやJcastといったネットのニュースサイトである。

 翌12日、渡辺会長が反論を出した。「事実誤認、名誉毀損、悪質なデマゴギー」と痛烈だった。清武会見は確かに、筋としておかしい。日本シリーズという時期も最悪だった。反論には説得力があって、これも大きく報じられた。

 スポーツ紙は、中日スポーツ以外は全紙が1面で、日本シリーズ第一戦が見事に吹っ飛んだ。まあ、前代未聞である。笑ったのが当の読売で、運動面の長~いベタ記事。最初がベタだったから、大きくしたくてもできない。さすがに清武代表を切った時は、1面だったが‥‥。

 いってみれば、巨人が勝てないことからきた、つまらぬ内紛なのだが、新聞・テレビが大きく報じたのは、ナベツネの専横はプロ野球だけではなかったからである。むしろ本業の新聞の世界で、彼の落とした影は大きい。

 彼の登場以来、在京6紙の論調は常に3:3ないしは4:2に割れる。日経があっちこっちするからだが、発行部数で一番の新聞のトップが、自民党政権と深く関わった影響は決して小さくはなかった。

 官邸から警視庁にいたる記者クラブの、権力監視という一枚看板が崩れ、メディア間の連帯が失われた。事件の現場に報道陣が押しかけるのは変わらないが、いま彼らの仲間意識は希薄だ。互いにかばい合う空気は全くない。

 ペルーの日本大使館がゲリラに占拠されたとき、テレビ朝日の記者がスキをついて中に入ったことがあった。出てきた記者はペルーの警察に身柄を拘束されたが、現場に何十人といた日本人記者は、何のアクションも起こさなかった。抗議の声明を出したのはペルーの記者たちだ。ニュースを見ていて心底恥ずかしかった。

 このときナベツネは「人質を危険にさらした」と非難し、これが世論になる。哀れテレ朝の記者は特ダネをほめられるどころか、内部で処分された。しかし、ゲリラはすでに一部記者を招き入れており、人質に危険なぞなかった。もしこれが読売の記者だったら、ナベツネは「何が悪い」と開き直っただろう。

 彼はまた、新聞協会での世論形勢にも力を発揮し、長く協会を左右した。むろん他紙の腰抜けぶりも非難されるべきだろうが、彼にそれだけの迫力があったことも事実である。しかし、これが30年近くも続いた結果、メディア全体の劣化の遠因になったと、私は思っている。

 彼は政局にも堂々と関わった。ロッキード事件で有罪となった佐藤孝行氏(故人)の入閣をメディアがこぞって攻撃したとき、仕組んだのがナベツネだとわかって、読売の政治記者は悲惨なことになった。政権交代後も、ことあるごとに彼の影がちらつく。

 ナベツネ本人は気がついてもいまいが、その結果は読売の紙面に表れている。在京6紙のなかで読売が一番面白くない。記者が自由な発想を抑えられたときどうなるか、の見本である。部数競争では勝った。ナベツネの魅力で優秀な人材も流れた。その結果がこれだ。恐ろしいものである。

 かつての読売はもっとやんちゃで元気があった。いま彼らは、主筆であるナベツネの枠の中でしか動けない。他紙の記者に「オレは書けないけど、がんばってくれ」と声をかけた、なんていう話が聞こえて来る。彼らの目に、清武造反がどう写ったか。

 巨人の内紛報道では、新聞もテレビも、情報の早さ奥行きでネットにかなわなかった。ネットのお陰で、新聞も変身を迫られている。福島以来メディアへの信頼も揺らいだ。老害も賞味期限切れが近いかもしれない。

 その時読売で何が起るか。今回は切られてしまったが、第2、第3の清武は出るのか、ちょっと楽しみではある。

2011年11月4日金曜日

もうひとつの世界


 先月初めに放送された「BSスカパー!」開局記念番組であったバトルが、いまだに話題になっている。ネットの動画でいつでも見られるからだ。ナマで見逃しても大丈夫と、友人がネットで教えてくれた。とんでもない時代になったものである。

 この特番は10月1日、土日34時間にわたる構成で、総合司会は、フジ「とくダネ!」の小倉智昭と日テレ「スッキリ」の加藤浩次。朝の人気番組の顔が並んだ。バトルがあったのは1日深夜の時間帯、福島原発事故を追った岩井俊二監督のドキュメンタリー作品「friends after 3.11」だった。

 スタジオトークに岩井監督、俳優の山本太郎らが出た。山本は、テレビ番組を降り、所属事務所もやめて、福島の被災者支援に打ち込んでいる。その山本が「毒を垂れ流す東電ばりに毒を吐きます!」と宣言して、司会の2人に突っかかった。

 「キー局での皆さんの番組では、おそらく局側がブレーキをかけている」と地上波・情報番組の伝え方に異を唱えた。小倉は「ブレーキというより、入ってくる情報が、東電や政府の発表しかないから……」「それを流すだけでは、報道機関としてどうなのか。オリジナルの取材はしているのか? 放射能被害をきちんと追求しているのか」

 加藤が、「踏み込んでるよ。少ない人数で取材をしているけれど」と応じたが、山本は「それでは、ただの御用局ですよ!」とまでいった。その後も、加藤と山本の「(事実を)隠していない」「隠している」という応酬が続いた。

 テレビとしては耳の痛い話だ。情報番組の取材力なんてリポーターのレベルでしかないが、それをいうわけにもいかない。山本も報道番組との区別がついてない。といって、報道もあのていたらくである。つまり、山本の批判は新聞にも当てはまる。

 「friends after 3.11」は見応えがあった。とくに、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章のインタビューは出色だった。ナマの声はやはり活字とは違う。

 「私の目からみると……戦争よりもひどいことが進行してる、福島で。でも殆どの人が気がついていない。ここは関西(京大)ではほとんど他人事です。汚染を正確に知ってほしい」

 「原子力は衰退します。でも原子力が産み出してしまった核のゴミに立ち向かうという、どうしても必要な仕事がある。もう1度人生を生きられるなら、このためなら戻って来ます。原子力をすすめるためには二度と来ません」

 もとはスカパーだが、ネットに載るといつでも、何度でも見られるのである。しかし、パソコンにもスマホにも無縁の人には別世界だ。存在すら知らない。にもかかわらずいま、人々は薄々感じている。山本のいう「情報」、新聞やテレビが伝えない情報がどこかにあると。

 人々が集めた、あるいは接した情報や受ける実感が、メディアが伝える国や東電の発表としばしば食い違うからだ。メディアが隠すことはまずないが、真実を掘り出せなければ同じことである。本当に必要な情報が出てこなければ、向こうの世界の存在感が増す。ボールはいつも、こちら側にあるのだ。

 ネットで発言する人たちの多くは、こちらの世界には顔を出さない。山本のように、自ら決別しないといけないのが現実だ。小倉も加藤も今回は両方に顔を出したことになるが、こちらの世界でレギュラーを持っていると、局にたてつくことはできない。

 失うものがあるか、ないか。そして自分のアイデンティティーはどちらにあるかであろう。 先に会見で、内閣府の園田政務官が、浄化処理した原発の汚染水を飲んでみせるシーンがあった。ここで2つの世界がぶつかり合った。

 東電は、処理した水を発電所内に散布していた。これを「安全か」と問われて東電は「口にしても大丈夫」「海水浴場の基準を満たしている」といった。「じゃあ一杯飲んでみたら」といったのは、フリーの記者だった。これに政務官が「いつでも」と応じ、次の会見で実行したのだ。

 もともと飲用水ではないものを「飲め」というのは非常識だ。カイワレダイコンとはわけが違う。しかも飲んだ後に、「それで安全性が担保されたと思うか」と聞いたのもフリーの記者だった。その程度の人間をまともに受けた政務官もバカだ。これでは子どものケンカである。

 フリーの記者を納得させればすむことだ。原発の現場、水の採取から検査の中身まで、洗いざらい見せればいい。一般メディアには、政府・東電はウソをつくまいという暗黙の了解がある。が、フリーの記者にそんなものはない。また、現地へ行かず、発表をそのまま書き、ウソをつかれても怒らない、既存メディアへの不信感もある。

 もし記者のだれかが、「飲む必要はない」と園田氏を止めていたら、完璧だった。しかし飲ませちゃった以上、クラブもフリーもない、その場にいた記者全員が非常識、同罪である。フリーの記者だけを責めることはできまい。

 もとはといえば、メディアが役割を果たしていないからである。市民は報道に首を傾げ、ネットに耳をそばだてる。もし役割をきちんと果たしていれば、ネット情報はゴミになる。