2009年7月15日水曜日

八兵衛は生きている


 警視庁の伝説の刑事(デカ)、平塚八兵衛を描いたテレビドラマを観た。吉展ちゃん誘拐殺人事件の容疑者、小原保を落とす場面がでてくる。怒鳴る、小突く、襟首を締め上げる、そして一転おだててみたり‥‥テレビだから、まだ抑えて作ってあるはずだ。

 駆け出しのころに見た地方の警察の大部屋なんか、あっちでビシバシ、こっちでボカスカ、いや凄まじいもんだった。やってるのに「やってない」と言い張るワルを、自供に追い込むための荒っぽいワザである。

 このやり方が無実の人間に向けられたときが、えん罪の温床だ。どのえん罪でも、被疑者は必ず自供している。そしてあとになって否定する。 「足利事件」で無期懲役になり、DNA鑑定で「人違い」とわかって釈放された菅谷利和さん(62)も、このパターンだった。

 4歳の女児殺害で、DNA鑑定が主たる証拠とされて話題になった事件だ。逮捕・勾留から17年半。有罪の決め手もDNA鑑定なら、裁判の間も、後の再審請求を退けたのも、DNA鑑定だった。間違いのもとは、鑑定の精度にあるんだと。

 が、それは違う。本当の決め手は自供なのである。DNA鑑定の精度について、当時の新聞は「百万人に1人を特定できる」などと書いてはいるが、それは警察の希望的観測。精度についての疑問はいぜんとしてあった。

 ところが、その疑問の芽を摘んでしまったのが、菅谷さん自身の自供だった。警察が自供を引き出したというので、DNA鑑定は逆に信頼性を高め、以後、新聞はDNAそのものを疑うことをやめてしまったのである。

 その時点での精度は、足利市だけでも同じDNAをもつ者は数十人はいたというレベルだった。それが今の技術は、地球上の一人ひとりを特定できる。菅谷さんが死刑でなかったのは、幸運だった。死刑で執行されてしまえばそれっきりだ。

 にしても、やってもいないことをどうして自供するのか。えん罪事件で常にぶつかる疑問である。釈放後、菅谷さんは会見で、「刑事にこずかれて、もういいやと思った」という。「私は気が弱いんです」とも。これも典型だ。

 えん罪事件の被害者はみな、気が弱かったり、裁判の知識がなかったり、知的に遅れがあったり‥‥警察官、検察官の厳しい追及と「早く吐いて楽になれ」「やったといえばそれですむんだぞ」の言葉に抗しきれなかった人ばかりである。むろん、それですむはずはない。

 痴漢事件でも、これが多いらしい。それでなくても痴漢は、たった1人の闘いになる。世間も会社も家族ですら、まずは警察のいうことを信じざるをえない。長時間の拘束、連絡もさせない、職を失う恐怖と絶望‥‥そこへ「やったとひと言いえばすむんだよ」

 ごくごく普通の市民にも、密室での調べのワザは同じである。だが、「もういいや」とひと言いったら一巻の終わり。ひっくり返すのはまず不可能である。

 これで、がんとして認めなかったらどうなるか。先に最高裁で上告が棄却され、有罪が確定する外務省の佐藤優・元主任分析官(49)のケースがこれに当たる。

 罪名は偽計業務妨害とわけがわからない。要は、鈴木宗男衆院議員(別件で上告中)とのからみで逮捕され、「検察の国策捜査だ」と話題になった事 件だ。彼は検察のいう容疑を絶対に認めなかった。その結果、512日間もこう留されたのである。これはさすがに極端な例だが、普通の人間が、これに耐える のは無理だろう。

 かつて三鷹事件、松川事件など、思想的な背景のあるえん罪が多発したことがある。ほとんどは、裁判で無罪になっているが、それに至る時間だけはどうにもならない。取り返しがつかないものである。

 菅谷さんは釈放直後、「当時の刑事、検察官は絶対許しません。17年間、ずっと思ってきた」といった。だが、そのおおもとは自らの自供だ。たとえインチキでも、いったん調書になった自供は、17年かかっても覆すことはできなかったのである。

 菅谷さんの件を機に、あらためて取り調べの可視化の必要がいわれている。裁判員制度の方でも、求めがある。が、警察は常に否定的だ。本音をいえば「落としのテクニック」が通用しなくなるからだ。えん罪の温床はいぜん健在なのである。

 これを防ぐ手だては? 残念ながらないだろう。近年警察が情報をいっそう囲い込むようになっているから、なおさらだ。まあ、DNAなんてものがあるから、警察も以前のように、闇雲に犯人を仕立て上げることもできないだろうが‥‥。

 むしろ気になるのは、取材する側の勢いである。八兵衛も真剣だったが、取材する側も真剣だった。両者はいつもピリピリしていたが、自ずと信頼関係もあった。いまこれが怪しくなっている。テレビを見ながら、妙にお行儀よくおとなしいいまの記者たちの姿が浮かんだ。

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