2009年7月30日木曜日

事件報道はいらない?


 裁判員制度が始まる。これを前に、このところ妙な論が横行している。裁判員に予断を与えないために、報道は抑えるべきだ、というのだ。事件報道なんかいらないとでもいうのだろうか。

 メディアを語る人は多い。メディアそのものが多様化し価値観もばらける中で、人権問題や誤報、ねつ造など、メディア論のテーマは多い。大学で講座を持っている人たちの大部分は、新聞や放送の現場にいた人たちである。

 驚いたことに、冒頭の論はこういうところから出ている。またその論文が新聞に堂々と載っているのだ。書く方も書く方なら載せる方載せる方だ。「事件報道を何だと思ってるんだ。お前ら、本当にジャーナリストか」といいたくなる。

 裁判員がつくのは、殺人や強盗、放火、誘拐、危険運転致死など重大な刑事事件である。発生のときから、大きく報道されるものだ。事件が起こっ た。状況はこれこれ。まだ犯人はわからない。しかし、とにかく事実を伝える。捜査に役立つ情報が得られるかもしれない。事件報道の役割の第一だ。
 
 これが通り魔や愉快犯だと、連続する可能性もある。警告を発しなければならない。最近は防犯カメラという便利なものもある。疑わしいものが写っていれば、とくにテレビはどんどん流したほうがいい。これで大阪の通り魔が捕まった例もある。

 ま、実態は警察がまだもたもたしている例の方が多いのだが、これについては、また別に話そう。それよりも、事件がどう展開するかもわからないときに、いつ捕まるかもわからない犯人の、しかも裁判のことを考えて報道内容を規制しろというのだから、あきれる。

 そしていよいよ犯人が捕まった。さあそいつは何者で、いったいどういういわく因縁があるのか。少なくともここまでは伝えないと報道は完結しない。その過程で、犯人の置かれた環境や生い立ちにまで取材が及ぶのは避けられない。ここでいろいろ問題が起こるのも確かである。

 いわゆるニュース報道からテレビのワイド、週刊誌、スポーツ紙、ネットまで多様なメディアがあって、なかには怪しい話を載せるものもある。しかし、それぞれが立派に成り立っている以上、ニーズがあるということである。その数はどれほどになるか。何千万は間違いない。

 対して裁判員はたったの6人である。6人に予断を与えてはいけないから、何千万人は、詳細は知らなくてもいい、裁判まで待っておれというのか。 まあ、驚くべき発想である。むしろ、あふれ返る情報の中から、裁判員の先入観を取り除く方策を考えるのが筋だろう。その方がはるかに簡単で、現実的だ。

 司法当局者の中には、「自白」や「証拠」「生い立ち」などは報道すべきではないという人はいる。彼らは裁判しか頭にないのだから、まあ、ご意見 としては承ろう。しかし、メディアに関係する側からとなると、考え込んでしまう。前記の要件を欠いた気の抜けた記事なんて、記事と呼べるか。だれがそんな もの金を払ってまで読むか。

 なにか勘違いしているのではないか。一般人は、ありとあらゆる雑音のなかで生きていて、価値観も経歴も様々。裁判員制度は、そうした広い目が必 要だと導入されたのではなかったのか。もし、雑音を全部シャットアウトした白紙のような裁判員が必要というのなら(そんな人間はいない)、制度の趣旨から はずれてしまうだろう。

 事件報道はまた、記者教育の基本中の基本である。事実を追い求めるあらゆる取材の仕方が、そこにある。そしてくわえこんで来たネタは吐き出す。つまり紙面に載る、放送される。だからまた、次の取材に走る。そうして記者は育っていくものだ。

 そこでもし、事実を削って出すようになったら、何が起こるか。いささか図式的にいうと、まず記事そのものがつまらないものになる。当然、取材意 欲にかかわる。取材をケチる(手を抜く)ようにもなるだろう。モラルも低下する。基本がおろそかになれば、ついにはジャーナリズムそのものが危うくなるだ ろう。

 その前に間違いなく、人々は報道を信用しなくなる。「事実の一部しか出さないメディア」なぞ、だれも信じまい。それでなくてもいま、ネットの世界では、報道管制が行われているのでは?という根深い疑いが渦を巻いている。

 メディアは多様化していて、そのすべてを規制はできない。むしろ、いかがわしい情報ほど防ぐのはむずかしいものだ。そこでもし、事実にこだわっているメディアだけが抑えにまわったら、結果としてまったく別の現実に直面することになるのは、目に見えている。

 しつこく書くのには理由がある。最近の事件報道で、展開が見えない、辻褄が合わない、騒ぎのあとぱったり沈黙、という事例が目立つ。主として警察が情報を止めてしまうことによる。もう裁判員対策は始まっているとみていいだろう。

 報道はこれを突き崩さないといけない。できないこと自体が、ジャーナリズムの劣化だ。「メディアは何をしているんだ」といわれてからでは、もう遅いのである。

2009年7月19日日曜日

始まった? メディアジャック


 自民党のしっちゃかめっちゃか。解散予告と造反なしの不信任案否決で、「麻生降ろし」は収まったかと思われたのが、両院議員総会の開催要求に閣僚までが署名するにいたって、何が何だかわからなくなった。

 こうなるとメディアは弱い。とにもかくにも動きを追わないといけないから、新聞は一面、政治面、社会面にどかんどかんと載るし、テレビはニュースからワイドまで、自民党、自民党である。あっという間にメディアジャック状態になってしまう。

 みのもんたがやっているTBSの「朝ズバッ!」に、「8時またぎ」というコーナーがある。午前8時をまたいで約50分、でっかいボードに4、5 項目のホットニュースを並べて、ゲストやコメンテーターがああだこうだと論ずるのだが、16日のボードは全面「自民党」だった。これはさすがに珍しい。

 とくに後半の30分は、森・元首相がナマで出演して、それはそれで面白い見物ではあった。この森さんというのは口は滑らかなのだが、ときどき口を滑べらせるので、政治部記者も目が離せない。この日も、ウラの動きをいくつかもらして、記事にした新聞もあった。

 実は「朝ズバッ!」は、前日も武部・元幹事長が出て、これもたっぷり30分、「麻生さんには徳がない」などといいたい放題。17日も石破・農水 相だったから、もう3日連続で「乗っ取られた」ようなもの。事態はまだまだ動いているから、週末をはさんでなにが起こるかわからない。

 これで見事、民主党は脇役にされてしまった。思わず「またかよ」といいたくなってしまう。4年前の悪夢である。小泉マジックで、郵政民営化か反 民営化かという思いもよらない対立軸の設定と刺客騒動に振り回されて、あの選挙では民主党はメディアの上ではどこかへ消えてしまったのだった。

 結果が小泉チルドレンの誕生であり、3分の2の再議決路線になった。たしか、過熱報道への反省もいわれ、「メディアジャック」という言葉も出ていた。とりわけ面白がって刺客を追ったテレビには、終わって苦い思いがあったはずである。

 にもかかわらず、今回もまた動き出すと止まらない。何も変わっていないかのようだ。4年前とは状況も違うし、カリスマもいない。また有権者もか なり覚めた目で見てはいるようだが、大騒ぎのまま選挙に突入でもしようものなら、またまたメディアは、自民の党内対立に振り回されかねない。

 その効果(支持率アップ)はおそらく、総裁選やまじめなマニフェストづくりなんかよりはるかに大きい。もし意図的に騒動を作り出せたら、相当な 高等戦術だ。議員総会ではなく懇談会になったとき、小泉元首相は「ボクなら(議員総会に)出る。国民に訴えるいいチャンスだ」といったそうだが、やっぱり 彼はわかっている。

 そこで、正義の味方と思われた方が(思わせるだけでいい)勝つ。議員総会に出るのは署名した議員だけではない。署名議員だって多くは麻生体制維 持派なのだから、執行部はそこで堂々と「総裁選前倒し」を否定すればいい話だ。その自信がない、と思われるマイナスの方がはるかに大きいだろう。

 何にしてもメディアというものは、騒ぎがおこれば動く。現に目の前で騒いでいるのだから無視はできないし、また動かないといけない。宿命みたいなものだ。だからこそ、一段高いところから全体像をにらんでいる人間がいないと危ない。

 それでなくても他人の喧嘩は面白いものだ。あの刺客騒動なんか、その最たるものだった。今回の騒動だって、テレビのニュース・ランキングでは、 よほどのことがないかぎりトップにいくだろう。だが、それが生み出す結果を絶えず念頭におくこと。自分たちが考える以上に、メディアの影響力は大きいのだ から。

 今度の選挙には、政権交代がかかる。自民か民主か、指導者と国の形の選択を、有権者が一票で実感できる、事実上初の機会である。アンケート調査でも、「一度変えてみよう」「民主がだめならまた戻せばいい」という声が、はっきりと聞ける。こんなことは初めてだ。

 一方で相変わらず「政権担当能力が‥‥」という人がいる。長年自民にやらせてきて、こんな日本になってしまったーーそれを「担当能力」というなら、そんなものいらない。別の発想が必要だ‥‥いま問われているのは、これだろう。

 だから、だれもが見たい聞きたいのは、その先だ。次元の低い騒動なんかじゃないのだが、メディアは否応なく動く。ジレンマもまた、続くのである。

2009年7月15日水曜日

八兵衛は生きている


 警視庁の伝説の刑事(デカ)、平塚八兵衛を描いたテレビドラマを観た。吉展ちゃん誘拐殺人事件の容疑者、小原保を落とす場面がでてくる。怒鳴る、小突く、襟首を締め上げる、そして一転おだててみたり‥‥テレビだから、まだ抑えて作ってあるはずだ。

 駆け出しのころに見た地方の警察の大部屋なんか、あっちでビシバシ、こっちでボカスカ、いや凄まじいもんだった。やってるのに「やってない」と言い張るワルを、自供に追い込むための荒っぽいワザである。

 このやり方が無実の人間に向けられたときが、えん罪の温床だ。どのえん罪でも、被疑者は必ず自供している。そしてあとになって否定する。 「足利事件」で無期懲役になり、DNA鑑定で「人違い」とわかって釈放された菅谷利和さん(62)も、このパターンだった。

 4歳の女児殺害で、DNA鑑定が主たる証拠とされて話題になった事件だ。逮捕・勾留から17年半。有罪の決め手もDNA鑑定なら、裁判の間も、後の再審請求を退けたのも、DNA鑑定だった。間違いのもとは、鑑定の精度にあるんだと。

 が、それは違う。本当の決め手は自供なのである。DNA鑑定の精度について、当時の新聞は「百万人に1人を特定できる」などと書いてはいるが、それは警察の希望的観測。精度についての疑問はいぜんとしてあった。

 ところが、その疑問の芽を摘んでしまったのが、菅谷さん自身の自供だった。警察が自供を引き出したというので、DNA鑑定は逆に信頼性を高め、以後、新聞はDNAそのものを疑うことをやめてしまったのである。

 その時点での精度は、足利市だけでも同じDNAをもつ者は数十人はいたというレベルだった。それが今の技術は、地球上の一人ひとりを特定できる。菅谷さんが死刑でなかったのは、幸運だった。死刑で執行されてしまえばそれっきりだ。

 にしても、やってもいないことをどうして自供するのか。えん罪事件で常にぶつかる疑問である。釈放後、菅谷さんは会見で、「刑事にこずかれて、もういいやと思った」という。「私は気が弱いんです」とも。これも典型だ。

 えん罪事件の被害者はみな、気が弱かったり、裁判の知識がなかったり、知的に遅れがあったり‥‥警察官、検察官の厳しい追及と「早く吐いて楽になれ」「やったといえばそれですむんだぞ」の言葉に抗しきれなかった人ばかりである。むろん、それですむはずはない。

 痴漢事件でも、これが多いらしい。それでなくても痴漢は、たった1人の闘いになる。世間も会社も家族ですら、まずは警察のいうことを信じざるをえない。長時間の拘束、連絡もさせない、職を失う恐怖と絶望‥‥そこへ「やったとひと言いえばすむんだよ」

 ごくごく普通の市民にも、密室での調べのワザは同じである。だが、「もういいや」とひと言いったら一巻の終わり。ひっくり返すのはまず不可能である。

 これで、がんとして認めなかったらどうなるか。先に最高裁で上告が棄却され、有罪が確定する外務省の佐藤優・元主任分析官(49)のケースがこれに当たる。

 罪名は偽計業務妨害とわけがわからない。要は、鈴木宗男衆院議員(別件で上告中)とのからみで逮捕され、「検察の国策捜査だ」と話題になった事 件だ。彼は検察のいう容疑を絶対に認めなかった。その結果、512日間もこう留されたのである。これはさすがに極端な例だが、普通の人間が、これに耐える のは無理だろう。

 かつて三鷹事件、松川事件など、思想的な背景のあるえん罪が多発したことがある。ほとんどは、裁判で無罪になっているが、それに至る時間だけはどうにもならない。取り返しがつかないものである。

 菅谷さんは釈放直後、「当時の刑事、検察官は絶対許しません。17年間、ずっと思ってきた」といった。だが、そのおおもとは自らの自供だ。たとえインチキでも、いったん調書になった自供は、17年かかっても覆すことはできなかったのである。

 菅谷さんの件を機に、あらためて取り調べの可視化の必要がいわれている。裁判員制度の方でも、求めがある。が、警察は常に否定的だ。本音をいえば「落としのテクニック」が通用しなくなるからだ。えん罪の温床はいぜん健在なのである。

 これを防ぐ手だては? 残念ながらないだろう。近年警察が情報をいっそう囲い込むようになっているから、なおさらだ。まあ、DNAなんてものがあるから、警察も以前のように、闇雲に犯人を仕立て上げることもできないだろうが‥‥。

 むしろ気になるのは、取材する側の勢いである。八兵衛も真剣だったが、取材する側も真剣だった。両者はいつもピリピリしていたが、自ずと信頼関係もあった。いまこれが怪しくなっている。テレビを見ながら、妙にお行儀よくおとなしいいまの記者たちの姿が浮かんだ。

2009年7月1日水曜日

くたばれ携帯認証


 友人をmixiに招待したが、携帯がないとだめだといわれたと連絡があった。「なにいってんだ。携帯は関係ないだろう。もってないマイミクもいるぞ」といったのだが、本当だった。

 どうなってんだ。こちらが入会したときだって、携帯電話は関係なかったはず。老人は携帯を持っていないへそ曲がりも少なくない。だいいち、持 つ、持たないは、個人の自由だ。mixiと関係ないだろう。古い友人とやっとつながる手だてができたというのに、どうにも腑に落ちない。そこでmixiに 聞いてみた。

 いつからそうなったのか? また、それはなぜか? 答えは驚くべきものだった。

 PCでの登録には、mixiモバイル対応機種の携帯電話からの認証操作が必要。そのため、携帯電話がない、あるいは対応機種外の携帯電話では、 mixi に登録はできかねる、というのだ。「誠に恐れ入りますが」といいながら、「もう決まっていることだから」とにべもない。

 要するに「安全性強化に対する取組み」で、「現状、携帯認証に代わる登録方法はございません」と。「ご期待に添えず心苦しく存じますが、ご理解、ご協力の程、よろしく」といわれても、素直にウンというわけにはいかない。そこで再度問い合わせた。

 なぜ携帯なのか。「安全性強化の取り組み」とは、具体的にどういうことか。それが善良な入会希望者を閉め出す結果になっていることを、どう考えるのか。認証というが、道を歩くのに、「運転免許証を見せろ」というようなものではないか。

 とくに、携帯認証に、運営事務局の内部から異論が出なかったのか。もし出なかったとすれば、驚くべき無神経。まるでSFの世界ではないか。こんなことを考えた人間の顔が見たい、とまで書いてやった。

 しかしその答えは、「利用規約違反行為を防止するため」で、「具体的な仕様の詳細などにつきましては回答いたしかねます」と。なによりも「携帯 認証」という、それ自体よくわからない手続きが、規定の事実になってしまっていて、なぜだ?という問いに答えることすらしないのである。

 認証というからには、一種の身分証を求めているということだろう。古くは米穀通帳(若い人は知らないか)、近年は運転免許証がその役をはたして いた。米を食べない人はいないから、米穀通帳は確かな身分証にはなった。免許証だと、運転しない人たちは不自由だったことだろうが、個人の認証の手だて は、ほかにいくらもあるし、だれもそれを拒否することはなかった。

 ところがこのmixiは、いかに閉じられたプライベートなコミュニティーとはいえ、「携帯電話以外はダメ」というのだから、なにやら空恐ろしい。

 携帯電話の普及は飽和状態に近いらしい。わが家は4人家族だが、たしかに4人とももっているし、街でも電車でも、携帯があふれている。まして ネットの画面上での手続きだから、mixiが免許証がわりにと考えるのも、わからないではない。mixi以外でも行われているのかもしれない。

 しかし、「それ以外はダメ」というのは、話が違うだろう。一方で、「マイミク・キャンペーン」なんてものをやっていながら、漏れた人間はいなくてもいいというのだから、これはもうニュースといっていい。世の中そこまでいってしまったのかと。

 そもそも「認証」とはなにか。メンバーの紹介でできているマイミクに、さらに「認証」を求めるというのは、「紹介制」がすでに破綻していて、いかがわしい「マイミクのお誘い」が横行しているということなのであろう。

 しかし、よからぬことをする輩は、どんなことをしてでも入ってくるものだ。一方で、ケータイの世界も大いにいかがわしい面をはらんでいる。いかがわしさを掛け合わせて「認証」とすましているのは、つまるところ、問題が起こったときのアリバイにすぎまい。

 結果的に切り捨てられるのは、多く老人になろう。現役を退いて静かに余生を送っている人には、「もう携帯とは縁を切りたい」というのも少なくな い。また実用上も、家には電話があり、出先では公衆電話もある。マイミクにも1人いる(携帯認証以前に入会)が、今回の友人もその口であった。

 それがたとえ100人に1人だろうと、別の道を開けておくのが筋だろうに、閉め出して平然としているmixiの神経には恐れ入る。mixiの回 答は最後に、「可能な限りご期待に添えるよう、今後の参考とさせていただきたく存じます」と空々しく書いていた。くそいまいましい。これとて、マニュアル の文章のコピペだろう。

 あらためてmixiを見ていると、お仕着せの環境のなかでお仕着せの平和を楽しむ無数の「従順な羊」の群れを見るようで、ぞっとする。彼らに は、なんでぞっとするかもわからないのだろう。こういう連中にどこかで一泡吹かせてやれないものか。へそ曲がり老人はこの数日、そればかり考えている。

2009年6月22日月曜日

太蔵くんに聞いてみたいこと


 小泉チルドレンの杉村太蔵議員が、次の選挙に出ないと決めた。テレビでは、会見の映像が短く出たが、新聞では記事にもならなかった(多分ネットだけ)。まあ、その程度の話ではある。

 しかし、テレビというのは面白い。3年半前のシンデレラボーイ、太蔵君の映像と言葉が残っている。曰く「料亭と外車かぁ」「国会議員の給料って知ってますか? 2500万円ですよ」云々‥‥まあ、正直そのもの。とくに「料亭と外車」は、一般の人間が国会議員に抱いているイメージを端的に言い表して痛快だった。

 もともとニートだった若者が、なぜか自民党の比例代表名簿の下の方に載っていて、郵政選挙の圧勝で、間違って当選してしまった。おまけに正直に口を開いてしまうものだから、テレビは面白がって追いかけ回した。その言葉の数々である。

 小泉チルドレンは83人。小選挙区で刺客に仕立てられた強者もいれば、太蔵君のような“間違い”組もいた。とくに比例区の下位当選組は、当選したとたんから党執行部の頭痛のタネになった。本来当選するはずがない人たちだ。再度の大勝はありえないのだから、次の選挙で彼らをどうするか、どの選挙区にはめ込むかが、大問題だった。

 当人たちも、お定まりの道を歩む。党執行部や“親分”の言うままに、選挙区探し。議員活動の目的が、「次の選挙で当選すること」になったのである。この3年半に議員活動で存在感を示したのは、大甘にみても片手ほどもいない。あとは、2/3強行採決要員でしかなかった。

 太蔵君は、その点でも典型になった。親分の武部勤・元幹事長が北海道を用意したり、地元ともめる(当然だ)と「私は現職だ」などと議員風を吹かして総スカン。親分からも見放されて、次期公認の見通しがなくなったというわけだ。

 まあ、それだけでしかなかったといわれればその通りだが、彼にも起死回生のチャンスはあった。昨年秋からの金融危機で、派遣切りが大問題になったときだ。

 国会議員多しといえども、ニートの経歴を持つものは彼しかいまい。暮れの「テント村」騒動の際に、やろうと思えば「切られた者」の痛みを代弁できた。「わたしはニートだった」とメディアで声をあげ、派遣のナマの声を聞き、国会で質問し、本気になって支援に走り回れば上々だ。さらに学習して、雇用の仕組みにまで切り込んでいれば、道は大きく開けたかもしれない。

 まあ、次の当選すらおぼつかない議員に、役人が動いたかどうかはわからないが、少なくとも、テレビのネタにはなったはず。国民のために動き回る姿は、自身の勢いにもなっただろう。

 結局彼自身が、「料亭と外車」を守るつもりになったのだろう。国会議員が職業になってしまったら、それで一巻の終わりである。そんな議員は要らない。議員というのは、それまでの経歴を国会に持ち込まなければいけない。経歴そのものが、社会の矛盾や理不尽をたっぷり含んでいるのだから。

 しかし、国会を見渡せば、なんとまあ幸せな経歴の人たちばかりであることよ。高級官僚、いま焦点の二世三世、功なり名遂げた名士たち、議員秘書、松下政経塾‥‥いわば社会の上澄みを生きた人たちばかりである。

 彼らの多くが、「次に当選するため」だけに国会にいるのは、まぎれもない事実。国民が政治に感心をもたなくなった最大の理由である。だからこそ、「間違って当選した」若者が「開き直ってオオバケ」でもしてくれたら、ホント楽しいことになったろうにと、惜しまれる。

 ともあれ太蔵君は、あまりにも無垢で無知だった。メディアもそれなりの扱いしかしなかったが、彼がただの人になったときに、あらためて聞いてみたらいい。間違ってなった国会議員の一部始終をである。日々を克明に追うだけで、日本の政治の断面がスパッと切り取れると思うのだが、どうだろう。

2009年6月14日日曜日

年金モデルは大インチキ


 やれ「100年安心」だの「現役時代の50%支給を約束します」だのと、厚生年金で自民党がさんざん公約していたのが、どうやら嘘っぱちだとわかってきた。これを伝えるモーニングショーで面白い見物があった。

 先に厚労省が出した試算で、2050年に唯一 50%台を維持するという「モデル世帯」が、ほとんど実態がないことを、みのもんたの「朝ズバッ!」が、図解してみせたのだ。絵で見せるというのは、新聞よりはるかにわかりやすい。

そのモデルとは
 (1)20歳までに結婚した同い年のカップル
 (2)結婚生活40年
 (3)40年間夫は会社員、妻は専業主婦、というもの。
 20歳といえば、まず大学は出ていない。妻は専業主婦。見ただけで、「そんな夫婦いるか?」「どうやって食っていくんだ?」と思ってしまう。厚労省が発表したとき、番組でもそう思ったらしく(そのときは見ていなかったのだが)、これをあらためて検証したのだった。

 むろん、専門家に頼んでの試算である。群馬大の青木繁伸教授。やり方はこうだ。
 ① 統計上は、2050年に65歳になる人口(1985年生まれ、現在24歳)は144万2590人。これに、05年の20歳の既婚率をかけて「607.6組」と出た。
 ② 「20歳から40年間会社員」の条件を、「非大学進学率」「厚生年金継続率」に当てはめると、「4.24組」。さらに妻がずっと専業主婦である割合49.5%から、モデル世帯は「2.1組」。
 ③ もひとつ、離婚してないのだから、離婚率25.7%(4組に1組)で修正したので、なんと「1.56組」。144万人中たったの一組半。「50%支給を確保できるのは、0.00021%」と出た。
 しかも番組によると、50%を維持できるのは1年だけで、翌年からはどんどん下がっていくのだそうだ。これはもう、モデルなんてもんじゃない。

 ちょうどその前日(2日)、民主党の厚生労働部会があって、蓮舫が「モデル世帯はどれくらいの割合か」「モデルの意味がないのでは」と質問していたが、厚労省の役人が、「物差しを変えるのは、物差しとして意味がなくなる」と答える映像が出た。こういうのを「いけしゃあしゃあ」という。

 蓮舫も惜しかった。もし「0.00021%」という数字をつかんでいたら、そんな言い訳は通らないし、大いに紛糾して大ニュースになるところだった。新聞も書き立てただろう。

 テレビには、答える役人の顔とナマの声が入っているから、そのバカバカしさがストレートに伝わる。それと、数字を割り出していく過程のフリップの効果。ぼーっと見ているだけで頭に入ってくる。また、みのもんたが、「公務員試験を通った優秀な官僚が、99.999%ありえないケースをモデルに?」などと怒ってみせる。紙のメディアが逆立ちしてもかなわない説得力である。

 かつて、年金問題を扱っている専門家は、異口同音に「厚労省が数字を出さない」とぼやいていたものだ。年金の将来像を解明しようと思っても、数字がないから確たることがいえないのだと。

 その後、一連のしっちゃかめっちゃかで、実は数字を「出さない」のではなく、「出せない状態だった」のだとわかった。しかし、厚労省は相も変わらず、お金がいくらいくら足らなくなるから、掛け金をあげるか、支給を減らすかという話ばかり。彼らは足し算と引き算しかできないらしい。

 そもそもは制度が時代に合わなくなったこと。一日も早く、あるべき制度を考えないといけない厚労省が、足し算と引き算ではどうしようもない。国民的な大論争を巻き起こすしかあるまい。しかしこれが大変だ。

 年金問題を絵解きにするのは、容易なことではない。新聞がよく書いているが、国の負担と個人の負担の割合を表すグラフ(これも厚労省がつくったもの)がせいぜいで、よくわからない。実際の給付との関係では、モデル家庭で語られるーーそのモデルが怪しいというのだから、さあどうする。

 ここはひとつ、テレビの知恵に期待したい。厚労省の発想を離れた斬新で壮大なパノラマと映像で、図解モデルをつくれないものか。選挙の重要テーマでもある。政党マニフェストのアナをみつけるだけでも、有権者には大いにプラスになるだろう。

2009年6月9日火曜日

国会図書館のお祭り


 Googleが行っている書籍の検索プロジェクトは、じわじわと日本にもおよびつつあるようだ。私の手元にも出版社からのお知らせが届いて、出版社としては拒否はせず、経緯を見守るという。正しい判断だと思う。事態は動いているからだ。

 前回もちょっと触れたが、これには、ネット情報をどうとらえるのかという根本的な問いがからむ。ネットは危ない世界だが、googleの問いかけを真正面から受け止めざるを得ないのは、将来的にはそういう時代になるだろうと、だれもが感じているからである。

 そのとき、どう著作権を守るか。無料のネット情報との兼ね合いはどうなるのかーー議論はまだ、ひと山もふた山も越えねばならないだろう。

 今国会で著作権法が改正されるが、なかに国会図書館に関する項がある。著作権者の許諾なしで、所蔵資料のデジタル複写ができるという内容で、一足先に補正予算でデジタル化に145億円がついた。例年の100年分というから驚く。

 不勉強で、補正予算にそんなものが入っているとは知らなかった。法改正の趣旨は、古い蔵書はもちろん、新刊でも貸し出しで傷まないうちにデジタル化するということらしい。順調にいけば来春までに国内図書の4分の1がデジタル化されるという。

 が、同図書館の長尾館長も国会答弁で「図書館である以上、本来は無料。しかし、著作権について出版関係と調整する。音楽をダウンロードしたときと同様の仕組みになるか。第3の組織にゆだねるか」といっているように、どう利用させるかは、まだ決まっていない。

 100年分の予算がついた国会図書館はもう、お祭り騒ぎだろう。景気対策のどさくさ補正に、うまくまぎれこませたとほくそ笑んでいるかもしれない。(今回の補正はそんな話ばっかりで、霞ヶ関全体が棚ぼた気分。麻生さんがなめられているわけだ)

 このデジタル化については、googleのほかに、欧州連合がすでに検索システム作りに動いているとか、日本は遅れていたという背景があるらしい。朝日新聞は、google論議についての社説の中で、国会図書館のデジタル化を歓迎していた。

 ここでひっかかった。国会図書館のオープン書架で最大のスペースを占めているのは、新聞の縮刷版だ。もしあれらもデジタル化されて検索できるようになったとしたら、朝日はなお著作権を主張するのだろうか。社説はどうやらこの点を忘れていた。

 もひとついえば、主要紙はすでに縮刷版のデジタル化を終えている。このデータをそっくり国会図書館に提供したら、たとえそれ自体は有料だったとしても、国家の予算と人手と時間の大幅な節約になるのは間違いない。そして、閲覧は無料と。ここはひとつ、新聞協会の出番ではなかろうか。

 新聞の最大の財産は、アーカイブである。紙面になって発行されたとたんに、国民共有の財産でもあるはず。だが、前回書いたように、有料のカベに阻まれて十分に生かされていない。繰り返すが、ネットで検索できないのは、存在しないのと同じ、そういう時代なのである。

 国会図書館のデジタル化が、はからずもこれに風穴をあけることになれば、快挙といっていい。それはまた、google論議にもいずれ関わってくるはずである。