東北大学と朝日新聞が共同で、農家の意識調査をやった。調査は9月から10月にかけてというから、政権交代を受けて、揺れる農村をつかまえようというのは、地味だが、なかなか目のつけどころがいい。
コメどころ宮城、秋田、山形、新潟の農家に、農協と政治の関わり、補助金について聞いている。いずれも農協を中核に自民党の金城湯池だったところだが、今回は政権交代に動いた。
結果も面白い。「農協と政治」では、「政治に関与すべきでない」が29%、「自民とも民主とも距離をとるべき」が25%。民主党の「戸別所得制 度」には、「期待する」「どちらかといえば期待」があわせて58%、減反を受け入れても「参加」「どちらかといえば参加」が計61%だったが、「制度がよ くわからない」が90%だった。
かつては米価、近年は補助金で、長年自民党とおんぶにだっこを続けて来た農家の戸惑いがそのまま出ている。わけても自民党の集票マシンとして、地域を牛耳ってきた農協のシステムこそは、日本の農業をこんなにしてしまった元凶である。これに対する苦い思いも出ている。
JA農協中央会は政権交代後、自民党べったりから「全方位外交」に転じたが、時すでに遅し。民主党の、というより小沢一郎の「補助金直接払い方 式」は、明らかに農協はずしである。制度が動き出したら、少なくとも政治面での農協離れは一気に加速するだろう。小沢らしい戦略だ。
朝日の記事には、「脱農協に挑む農家」という特集があって、農業に経営感覚を持ち込む意欲的な試みがいくつか紹介されていた。なかには株式会社 で、実質第2の農協の役割をはたしている例もあった。読みながら、「農地改革が目指したのはこういうものだったんだろうな」と思った。
農地改革は連合国軍総司令部(GHQ)がやったと思われているが、実は違う。昭和20年10月、幣原内閣の松村農相が「自作農の創設」を発表してわずか4日後に、法案ができていた。そんな大改革の法案が4日でできるわけがない。農林省は戦前から準備していたのである。
中心にいたのは、農政局長だった和田博雄である。構想は革新的な官僚の間では早くからあった。江戸時代以来の農業形態を改め、農業を、工業や商業と並ぶ産業として育てる。それには、自作農の創設しかない。
しかし、国会は地主階級の代表者ばかり。そうした考え自体が危険思想とみなされた。法案を作っても常にたたきつぶされた。和田はでっちあげの企画院事件(思想弾圧)の首謀者として逮捕されてもいる(無罪・復職)。
だから和田にとって、敗戦とGHQの登場は千載一遇のチャンスだった。前近代的な不在地主の一掃は、財閥解体の流れとも一致する。乗り気でなかったGHQをどうくどいたのか、とにもかくにもGHQの改革の1項目に加えてしまったのだ。とんでもない官僚がいたものである。
しかし抵抗勢力は手強かった。戦時中に企画院事件を仕組んだのは、平沼騏一郎だったといわれ、戦後も鳩山一郎、河野一郎がたちはだかった。なんとも皮肉な名前が並ぶ。
吉田内閣では、農相の引き受け手がなく、困り果てた吉田茂は、局長だった和田を農相に据えてしまう。反対する鳩山、河野を、三木武吉が「GHQが社会・共産に組閣させたらどうする」と脅しつけて押し切ったといわれる。
和田の哲学の基本は、農業の自立にあった。基本は「農地をもたせる。しかし米価はあげない」というものだった。「苦しんでこそ、産業として育つ」という考えである。
和田は、社会党の片山内閣で経済安定本部総務長官になった。「傾斜生産方式」の重要項目のひとつが「化学肥料」。食料増産のためではあったが、農業の自立のためでもあった。事実これで、農業の生産性は大きく伸びたのである。
だが、歴史の皮肉というのか、片山内閣は短命に終わり、次の芦田内閣は、肥料にまつわる「昭電疑獄」で倒れた。和田は万年野党の社会党に入ったことで、以後農政に携わることはなかった。
昭和30年、保守合同で誕生した鳩山自民党は、米価を上げる。毎年霞ヶ関をとりまくむしろ旗のなかで、生産者米価引き上げの音頭をとったのは農 協である。かくて農家は国の金を待つだけになり、農業の自立は遠のいた。壊れていく農村を、和田は、どんな思いで見ていたことだろう。
皮肉といえば、吉田茂は第2次組閣で、和田の安本長官起用に抵抗する鳩山らに手を焼いて、和田を自由党に入党させようとした。これは、和田の周 囲が反対して実現しなかったのだが、もし、彼が自由党に入っていたら……日本の農村も、政治そのものも、かなり違ったものになっていたのではないか。
案外忘れられている歴史のイフを、朝日を読んで久しぶりに思い出した。
2009年11月6日金曜日
思い出した歴史のイフ
2009年10月31日土曜日
香典の上前をはねるな
先輩が亡くなって、葬儀に出られなかったので、弔電を打った。いまは、NTT東日本のホームページからパソコンで文面を送れる。便利なものだ。電信紙にカタカナで書いた時代があったなんでウソのようだ。
ところがである。手続きを進めるうちに妙なことになってきた。まず「封筒を選ぶ」というのがあって、これが最高1万円から5000円、3000 円‥‥といろいろある。高いものは生の花がついたかごのようなものらしい。それが押し花になったり、刺しゅうになったりと、だんだん安くなる。
では下の方はとみると、昔ながらの封筒みたいなのがあって、それには「ベーシック 0円」、つまり無料なのだった。カタカナ時代そのままである。しかしランクがあるとなると、さてどれを選ぶかは、かなり悩ましいことになる。いやらしいやり方だ。
そして、申し込みを受け付けた確認のメールこそタダだったが、先方への配達の確認などその他もろもろはすべて有料で、それぞれに消費税額がついている。で、最後に電文の料金計算は?となって、これはまあ、あいた口がふさがらなかった。
25文字以下660円(税込 693円)から始まって5文字90円刻みになっている。一般電報だと、はじめが440円(税込 462円)で以後60円(税込 63円)刻みだ。要するに、カタカナ時代と同じなのだった。
ちょっと待てよ。5文字くくりとはいえ、ひと文字いくらという考えは、トンツーで打っていた前島密の時代のものだろう。手間もコストもかかるから、というのは誰もが納得する料金設定だった。ところがいまは、メールと全く同じ方式なのである。
こちらの原文を、カナ漢字でそのまま貼付けて申し込むと、プリントされる結果も画面で確かめられる。われわれが日常送受信しているメールとプリントそのものである。25文字だろうと100文字だろうと、手間もコストも変わらないはずだ。
にもかかわらず、ひと文字いくらという計算がいまもって生きている。いったいどういう神経か。また、文句をつける人はいないのだろうか。
弔電や祝電は滅多に打つものではないから、だれもどんな形で届けられるのかを確認もすまい。定型の文面を選択すれば、「いくらです」という金額だけの話になる。利用者の無関心をいいことに、明治以来を続けているのである。
数年前に打ったときはまだ電話の申し込みで、料金も「何文字でいくらです」と結果を聞くだけだったから、なんとなくカタカナの延長の気分でいた。昔から電報とはそういうものであったのだから。しかし、ホームページで仕組みが全部見えてしまうと、これはひどいものである。
私の電文は104文字だったから、100文字=2,010円(税込 2,110.5円)プラス90円(税込 94.5円)。で、封筒もゼロではなんだからと、まあ、1500円(むろん消費税がつく)で、計3千数百円である。
少し長めに書いたら、軽く5000円は超える。さらに封筒に凝ったりしようものなら、お香典の額になってしまうだろう。コストからいえば、文面 が短くても長くても一緒なのに、亡くなった人への思いが深い(長く書く)ほどぼろもうけ。さらに封筒で利用者の「見栄」をくすぐって、金額を積上げる。
いってみれば、香典の上前をはねているようなものではないか。そんなくらいなら、現金書留で香典を送った方がよっぽどいい。
それにしても、いったい誰が封筒に1万円だ5000円だという金を出すのだろう。代議士先生か? いや彼らはちゃんと香典を届けているはずである。でないと、票にならない。ではだれが? 会社関係か?
弔電自体がもはや葬式のセレモニーの一部である。しかしなおも「電報」を騙ることで、死者を弔う善意のかなりの部分がNTTの懐に入っているのは間違いない。とうの昔に民営化したんだから、「明治の亡霊」をだしに商売なんかするなよ、まったく。
2009年10月26日月曜日
政権担当能力とは?
前原国交相の「羽田ハブ空港化」発言で、千葉の森田知事が「眠れなかった。冗談じゃない」と怒ってみせたのはお笑いだった。しかも翌日、当の大臣と会見した後は一転、ニコニコして「安心した」だと。
大臣の方は別に、成田をどうこういったわけではなかったが、森田知事は、「羽田に国際線を」というところだけで、カッとなったものらしい。ところが、カメラの前で怒っている知事に、記者団から「勘違いですよ」という声もかからなかった。なんともみっともない話だ。
テレビにいたっては、怒っている絵が撮れればそれでいいのか。さらには、成田紛争のいきさつを流したりして、「あれだけ血を流したのだから」なんてピントはずれもいいところ。
前原大臣のいわんとするところは、羽田の新滑走路ができて、24時間供用になった時点で、「仁川に対抗するハブ空港にしたい」というものだ。これに対応できる空港となれば、地理とキャパシティーからいって羽田しかない。
国内線と国際線という線引きをなくし、便数を増やして着陸料を下げるとか、無駄な地方空港の問題とか、間接的には日本航空の支援も視野に入れた航空行政の立て直し策だ。いわば自民党なしくずし行政の清算なのである。
前原氏は、長年公共事業の洗い直しを野党の目でぎりぎりとやっていた人だから、いざ主管大臣になって一切のデータを手にしたら、これは強いだろう。アナもごまかしも策略も丸見えになるし、意味もわかる。マニフェストの約束ごとだけの大臣じゃない。
それが、道路、河川、港湾、航空、鉄道と間口の広い国交省の大臣になったのだから大変だ。八ッ場ダムから始まって、まあ目下のところはトラブルメーカーみたいにいわれているが、優先順位で事業を見直すという視点でみれば、どの動きも必然である。
国交省だけではない。厚労省、経産省、法務省‥‥みな一斉に動いている。しかもオープンだから、ニュースが多い。副大臣、政務官にも案外「専門 家」がいて、出身も弁護士、役人、税理士、学者‥‥テーマによっては大臣より詳しい人材もいる。派閥順送りと族議員でまわしていた自民党とはえらい違い だ。
もうだれも「政権担当能力」なんていわなくなった。補正予算を削り倒し、概算要求での優先順位づけ、無駄の削除を議員がやっている。役人抜きで自民党議員にそんな能力があるとは、とても思えない。それがわかってきたからだ。
政権担当能力といえば、かつて小沢一郎氏が当時の福田首相と大連立に動いて総スカンを食ったとき、「民主党にはまだ担当能力がない」といったも のだった。その「能力」とは、おそらく「自民党と同じようにやる能力」のことだったのだろう。選挙は「そんな能力要らない」という国民の意思表示だった。
22日にはいよいよ行政刷新会議が動き出した。民間人もいれた議員と副大臣、政務官級がチームを作って予算の無駄を仕分ける。「わが省」といういい方は禁句(仙谷担当相)で、「必殺事業仕分け人」というのだそうだ。
リーダーの1人、蓮舫がテレビで語っていたが、驚いた。1案件1時間として日に最大8件。期間が9日間なので計72案件。3チームあるので、プラスアルファをいれて240件だが、作業は土日なしだという。こんなに働く国会議員いたか?
それでも、全体が3000件だからほんの一部にすぎない。必然的に金額の大きな予算から精査することになるのだろうが、「継続してやれば、法制 度改正の必要も見えてくる」と、やる気満々だった。一気には無理だろうが、特別会計にまで手を突っ込んだら、面白い展開になるだろうなという予感がある。
鳩山政権にはほかにも、普天間問題や日本郵政の社長人事などで、「マニフェストと違うのでは?」という話が次々に出ている。そんな中、FNNが面白い調査結果を出した。電話で全国の1000人に聞いた結果だという。
◆政権公約(マニフェスト)は守るべきか?
必ず守るべき 9%
守れないものが出ても仕方がない 38.8%
とらわれず柔軟に 50.6%
◆ 公約実現のために赤字国債を発行すべきか?
すべきだ 24.5%
思わない 60.2%
◆ 実現すべき公約
子ども手当 61.8%
農家への戸別所得補償 59.2%
高校授業料の無料化 46.9%
高速道路無料化 19.5%
どうやら国民の方がずっと覚めている。変にマニフェストにこだわって理屈を踏み外したりすると、ビシッとやられるかもしれない。勢いづいているのは民主党だけじゃない。
2009年10月21日水曜日
思い込みのルーツが知りたい
元金融相中川昭一氏の通夜、合同葬には驚いた。それぞれ3000人、2500人というのだから、フジテレビで小倉智昭が、「元閣僚で落選した人で?」といったのは無理もない。「死ぬといい人になることは多いが‥‥」と。
普通なら通夜が新聞に載るケースではない。今回はウエブで逃げたところが多かった。ところがテレビは、歴代首相が並んだりして絵になるものだか ら、大張り切り。ワイドで、「繊細でいい人だった」とか、盟友だった安倍晋三氏が、「もっと国のために闘ってほしかった」という映像までが流れた。
例のNHKの番組改編騒動で、朝日と対決したのが安倍、中川両氏だった。あのときの中川氏の話は支離滅裂。朝日が記事にしたとき、彼はちょうどパリにいて、朝日の取材に「ダメだといったんだ」と答えている。
これが「圧力」と伝えられるのだが、帰国すると一転、「NHK幹部と会ったのは、放送後だった」といいだした。事務所のスケジュール表がそうなっていたと。そんなバカな。放送しちゃった後で「ダメだ」はあるまい。
しかし刑事事件でもなし、朝日の突っ込みも今ひとつで、おまけに取材側の不手際なんかもあって、うやむやと争点がそれ、うまいこと朝日とNHKの喧嘩にしてしまった。
騒ぎのもとは「タカ派」にある。教科書や拉致問題から核武装まで、中川氏は大物風を吹かして積極的に発言・行動していた。また、自民党も霞ヶ関もメディアも、「実力者だ」と甘やかしていた。これが結局、例のヘロヘロ会見につながるのだから、いいような悪いような‥‥。
安倍、中川両氏のいうことを聞いていると、いったいどんな歴史教育を受けてきたのかと、訝ってしまう。文部省が近代史をちゃんと教えないから、 まともな人は自分で勉強するしかない。その場合、どの本を読んだか、誰の話を聞いたかで、話が決まってしまう。肝心なのは、何が書いてあるかではなく、何 が「書いてないか」「語っていないか」である。
いま国会方面で勇ましいことを言ってる人たちに共通するのは、戦争を知らないこと、自分たちだけが正しいという思い込みである。まともに歴史を 読んでいないから、異説を知らないし知ろうともしない。要するに、歴史上の出来事なのだ。それが実力者などと奉られたりしたら、とんでもないことになる。
こうした思い込みは、どうやって作られたのか。どうしても関心はそこへいく。彼らはひょっとして、戦争でひどい目に遭わなかったか、あるいはむしろいい思いをした人たちの子孫なのではないかと、実は疑っている。
アンケートをしてみたらいい。「4親等以内で戦死、あるいは戦災で死んだ人が何人いるか?」「空襲で自宅が焼けたか?」。歴代の首相をずらっと並べて、「父親は戦争にいったか?」。この3つの問いだけで、相当なことが見えてくるはずである。
徴兵制度に抜け道があることは、だれもが知っていた。社会の上層にあった人たちは、これを巧みに使った。国政・地方の議員に赤紙は来ないし、大 学進学も徴兵猶予の道のひとつだった。また、軍隊にとられても、配属先で手心を加える余地があった。しかし、本当の庶民には、赤紙を逃れるすべはなかっ た。
私の家では、叔父、伯父が1人づつ戦死している。父親もとられるところを、若い頃オートバイ事故で足を骨折して、丙種だったお陰で助かった。「同時にとられたあいつも、あいつも中支で死んじゃった」とよくいっていたものだ。
千葉の空襲で自宅も焼け、わたしは目の前で小学校が焼け落ちるのを見た。裏の一家が防空壕で全滅しているのも見た。これが戦争や安全保障を考える原点になっている。小学校2年生だったから、戦争を記憶している最後の世代だろう。
国会でも同じことだ。同じに保守であり右翼であっても、戦争をどう実体験したか(ひどい目にあったかどうか)で違うし、それが戦後世代にまで及んでいる、という思いはぬぐえない。
いまや議員の3分の2は戦争を知らない。また2世3世議員の多くが、靖国に参拝し、憲法改正をとなえている。安倍、中川両氏がその代表選手だった。まあ、何を考えようと勝手だから、それはいい。
気になるのは、それらが様々に再生産されていることだ。靖国神社をみるがいい。歴史教科書では「書かない」ことを競っている。空自参謀長は、単細胞の論を隊内に広めていた。小林としのりが歴史だと思い込む若者は多い。
その意味で中川氏は危ない存在だった。安倍氏の「彼から闘うことを学んだ」という言葉に如実に表れている。闘うのは勝手だが、それを「国のために」といわれては、大いに迷惑である。
2009年10月3日土曜日
バイト代が選挙違反とは‥‥
まあ、選挙違反の記事が少ない選挙だと思っていたら、9月29日現在のまとめが発表された。摘発194件、逮捕111人で、前回、前々回よりかなり少ない。独立して記事になるような、重大な違反もなかったらしい。
なかで落選候補者の逮捕が3人あった。このうち、埼玉13区の武山百合子元衆院議員のケースは、例の選挙期間中にアルバイトに金を払ったという容疑だ。このところ、選挙の都度、いちばん多く記事になる違反である。
武山氏は、日本新党から民主党まで4期を勤めたが、前回05年の郵政選挙で落選。今回民主党は別の候補を立てたため、無所属での立候補だった。
細川政権崩壊のあと新進党、自由党から民主党と、小沢一郎氏と行動を共にした人だから、少なくとも「小沢選挙」で3回は勝って、1回敗れているわけだ。公認漏れには、何かよほどの事情があったのだろう。とはいえ、警察は落選候補には情け容赦ない。
埼玉県警によると、運動員はハローワークを通して雇って、選挙前には金を払ったが、選挙期間中は「覚えていない」のだそうだ。いまどきハローワークのアルバイトが無報酬で働くわけがない。
法律の方が現状に合わないのだ。「一般の選挙運動員に報酬を払ったら買収になる」なんて法律が生きていること自体がおかしなことである。
とはいえ法律は法律だから、警察は目星をつけて、アルバイト運動員を引っ張ってくれば、みんなぺらぺらとしゃべるだろう。何か書き付けでも残っていれば、はい、一丁上がりである。
この公選法の条項は、ほとんど警察のためにあるようなもの。もっとも引っ掛けやすく、やる気になればいつでも摘発できるし、見て見ぬふりをすることもできる。今回、落選候補で逮捕の北海道がそうだし、後で述べる熊本のケースもこれである。
今回公明党の太田代表を破って話題になった青木愛議員(民主)は、前回の参院選(比例区当選)で、看板を立てるのに金を払ったとして広告会社社 長らが同じ容疑で逮捕されている。指示をだしたのは、小沢一郎氏の秘書だと伝えられた。摘発した千葉県警も肝を冷やしたことだろう。経緯は不明だが、責任 は議員本人には及ばなかった。
同じ参院選と前回衆院選では、当選した自民議員が1人づつ、その前の参院選では、民主党の2人が、辞職に追い込まれている。いずれもバイトや電話作戦に日当を払ったとして、出納責任者がぱくられた連座責任である。
しかし、ホントに議員が辞めなければならないほどのことだろうか。払った金額だって、時給にすればコンビニのバイトと変わらない額だ。ただ法律がそれを認めていないだけのこと。
現実には、法律の改正をしないままに、どの候補者も日当を払っているのに、払っていないという。その分の辻褄をどこかで合わせないといけない。つまり、選挙の収支報告書自体がインチキなのである。その方がよっぽど問題だろうに。
だいいち、当選させた有権者の票の重さをどう考えているのか。一票を投じて当選した議員が、こんなつまらん法律違反で辞めるのを、選挙民はウンというだろうか。自分の一票が、たかがバイト代のために無に帰するのである。
しかし、こうした事例で、おかしいのでは?という声をあげたメディアはなかった。ことの軽重よりも、法律に違反したかどうかだけ。今回もまた警察の発表通りに、簡単な記事で終わりだ。「法律がそうなっているのだから」というのなら、そんなメディアはなくていい。
民主党の小沢幹事長は、国会法を改正すると語ったが、公選法の改正も視野にあるという。現行公選法には、このアルバイトの報酬の件だけでなく、 戸別訪問の禁止とか、選挙の本旨からいっておかしな規定が沢山ある。元はといえば、明治以来の「選挙には金がつきもの」という悪しき選挙観がある。
確かに野放しにはできまいが、いまや選挙をリードするのがマニフェストで、候補者とは直接のつながりの薄い無党派層が結果を左右している現状では、大いに有権者をバカにした法律になってしまっているのである。
こうした本質に切り込まないでいて、小沢氏が動き出したときに、後追いで解説するだけなら、下町のご隠居さんにだってできることだ。
上記の発表には含まれなかったが、熊本県警は30日、熊本3区で比例で復活当選した民主党後藤英友氏の出納責任者を逮捕している。有罪となれば連座制で当選無効となる。今回選挙で議員のイスがかかった唯一のケースだ。
これもまたバイト代なのだという。もし有罪、当選無効となったら、今度こそは有権者の側から、ことの軽重を問う議論を起こしてもらいたいものだ。少なくとも公選法改正を求める大きな声にはなる。メディアが寝ぼけていると、手間がかかっていけない。
2009年9月19日土曜日
毎朝の新聞が楽しみ
このところ毎朝、新聞を開くのが楽しみだ。政権交代を果たした民主党の動きを伝えるなかで、メディア自体が変わっていくのが目に見えるからだ。
朝日の朝刊(19日)に、「財源探し競争 号砲」とあったので笑ってしまった。補正予算の見直しで、各大臣が見直し額を競うというのだ。これまでの大臣は、官僚に取り込まれて省益を言い立てるものだったのだから、これは面白い。書いてる記者がのってるのがわかる。
鳩山首相は最初の会見で、「未知との遭遇」といったが、これはメディアにとっても同じこと。むろん国民にとってもそうである。閣僚の会見のNHKの視聴率が、深夜にもかかわらず7%台という、ちょっと考えられない数字だったのが、「未知」への期待の高さを物語る。
閣僚の1人ひとりがまた、ペーパーなしで自分の言葉で語った。翌朝の初登庁でも、これまで見たことのない光景がいろいろ見られた。同時に補正予算の見直しが、現実のものとなってくる。これを受け止める官僚たちの動き‥‥。
メディアが伝えるそれら一つひとつが、これが政権交代なんだという、実感そのものである。記者たちがのりのりになるのも当然。OBとしては、うらやましいなと思うばかり。
いったい何度、期待を裏切られたことか。「黒い霧」だの、ロッキード事件だの、自民の分裂だのと、何があっても国民は動かなかった。唯一、細川連立政権があったが、自滅によって自民が息を吹き返してしまった。
つまるところ、「日本にはまだ民主主義が根付いていない」と思わざるをえなかった。ただ、そのときできた小選挙区制の導入が、政権交代をドラスチックに実現させたのは皮肉である。
二大政党制は、本来国民の意識が選択するものであって、選挙制度がつくるものではない。しかし、これだけ大差がつけば、国民も否応なく「一票の重み」を実感できる。政治との距離も近くなるだろう。
メディアにはまだ、戸惑いがあるように見える。しかし遠からず、目を開くことになるだろう。また、そうでなくては困る。
突破口のひとつは、核の持ち込みをめぐる「密約」である。岡田外相は最優先で調査を命じた。長年にわたって「存在しない」で通してきた自民政権と外務官僚の口裏合わせが暴かれる意味は、決して小さくない。似たようなことは、どの省庁にもあるはずだから。
もうひとつは、予算の組み替えである。補正予算の凍結は、とりあえずはマニフェスト実現のための原資の捻出のためとされるが、野党では知り得なかった国家の財布の中身を、担当者としてのぞきこむのだから、様相が変わって当然だろう。
現に財務省からは早くも、鳩山政権が必要とする以上の捻出が可能、といった読みも出てきている。また、これまではまったく薮の中だった官房長官の機密費や天下り団体への支出だって、新政権がすべて把握することになる。新たな不祥事や無駄遣いもあばかれそうな雲行きだ。
どれひとつとっても、わくわくするような話ばかり。新政権の高揚感が続くうちが勝負だ。野党担当だった記者たちの腕の見せ所である。これまで与党担当記者の影の存在だったのだが、入れ替わるとなれば、これまた初めての事態である。
記者会見も変わるという。事務次官の会見がなくなり、大臣が直接やると。藤井財務相ははっきりと、「行政官が省を代表してしゃべるのは許されな い」とまでいった。次官会見は、名前は出さないという奇妙なルール。例の「政府高官は‥‥」というやつで、先頃物議をかもした官房副長官もその口だった。
大臣がしゃべるとなれば、「政府高官」もへったくれもあるまい。記者側は、実務的な細かい話が聞けなくなるのでは、と心配しているらしい。「各省庁で混乱」などという記事も出た。まあこの辺りは、やがて落ち着くところに落ち着くだろう。
むしろ、とかく情報を囲い込むような風潮にあったのを、ひっくり返すテコにしたらいい。これも事態が動いている間が勝負だ。
ところでお気づきだろうか。選挙につきものの「選挙違反」のニュースがこれほど少ないのも珍しい。警察庁は8月29日、「全国で約190件の違反容疑の捜査を進める予定」と発表したが、以後ニュースはぴたっと止まったままだ。
「案の定」といっていい。警察庁と全国津々浦々の警察が、新政権の動きをじっと見守っているのだ。なにやら滑稽ですらある。
そんな中、受託収賄事件の被告で上告中の鈴木宗男氏(新党大地)が衆院外務委員長になった。事件そのものを「国策捜査だ」と糾弾している人である。舞台は最高裁だ。あれやこれや、とにかく毎日が面白い。
2009年9月1日火曜日
頭の切り替えが必要なのは?
テレビの開票速報というのは、時間勝負のあだ花である。時が経てばはっきりするものを、ほんの少し早く勝った負けたと伝える。技術の進歩か、今回はやけに早かった。だが、あまりに「当選」「当確」が早いと、正直「大丈夫かよ」と心配になる。
事実間違いはよくあるし、今回も散見した。ただ、テレビはすぐさま訂正ができるから、翌日まで訂正ができない新聞と違って、気楽に未確定情報を流しているように見える。
いちばん先走っていたのがテレ朝で、ついでTBS。NHKが一番控えめだった。今回の焦点は政権交代だから、自民の大物が苦戦したり、落選したりという展開が見どころ。先走って数字をどんどん伸ばしてくれた方が、見る方としては面白い。
中継はテレビだけが持つ強みである。勝った、負けたのほか競り合いもある。女性候補に追いつめられた森喜朗氏の事務所は、灯りも消え、カーテンを閉め切って、一時報道陣の立ち入りも禁止していた。これほど当夜の自民党を象徴する絵はなかったろう。
大勢が見えたのも早かったが、民主が308とは恐れ入った。小選挙区制のマジック。前回は自民がこれをやって、「小泉チルドレン」が生まれた。今度は「小沢チルドレン」だ。党が支持を保ち続けないと「明日はわが身」になる。その意味では真剣勝負になろう。
そのためなのか、民主党の幹部は一様に笑顔が少なく、発言も慎重だった。鳩山代表は、「数におごってはならない」と控えめで、別の幹部は「いよいよわれわれが試される」といった。
民主党がやろうとしていることは、全くの未体験ゾーンである。しきりにいわれた「財源」には、「予算の組み替え」をやるといい、「国家戦略局」 の設置、党と政府の一元化、事務次官会議の廃止、省庁に政治家を100人配置‥‥どれも自民党がやってきたことの裏返し。霞ヶ関と永田町をひっくり返す話 である。
こうした場合、もっとも変化に対応できないのが、当の政治家たちであり、ジャーナリストたちである。長年にわたって55年体制、自民ルールにひたってきたのだから仕方がない。
細川連立政権が誕生したときがそうだった。あれは8派の寄り集まりで、新聞には「八岐大蛇(やまたのおろち)」みたいな愉快な怪獣のマンガが 載った。8つの頭は考え方が少しづつ違うのだから、閣僚の発言がときにずれた。すると、野党の自民党が「閣内不一致だ」と責め立てる。新聞も書く。
連立政権というのは、個別の政策で一致していればそれでいい。それぞれの党の存立に関わるような哲学の一致までは無理だ。だからこそ連立なので あって、ドイツでもイタリアでも、連立の国はみなそうしている。だから政策がまとまるまでにも時間がかかる。民主主義とはそういうものなのだ。
これがわかっていなかった。次の自社連立でもこれは変わらず、再び自民の多数時代になって、今度は参院のねじれに対応できなかった。新聞、テレビは二言目には「衆参のねじれがあるから動きがとれない」と書く。福田首相はこれと選挙の重圧で政権を投げ出してしまった。
ねじれに対応するには、参院で野党の法案修正に応じるなど話し合いに頭を切り替えるしかない。だが、これができない。結局は55年体制なのであ る。自民党の政調と霞ヶ関が作った政策を、粛々と衆参両院を通すことしか頭にないから、修正などとんでもない。政治とはそういうものだと。
民主党の青写真は、これにまとめて決着を付けようとしている。「国家戦略局」と「一元化」は、予算策定を官僚の手からとりあげ、党と政府のカベ をなくすものだ。特別会計のヤミも、野党ではのぞくことすらできなかったものを、初めて手にするわけである。何が出てくるかわからない。
とんでもない大変革である。本当の発案者がだれなのか、知りたいくらいだが、はたしてメディアは頭の切り替えができるだろうか? 連立政権すら理解できなかった政治記者たち。なにしろ彼らの頭の中は、古いルールでいっぱいなのだから。
政権交代が現実のものになったというのに、翌朝のテレビトークでは相変わらず、「財源はどこに?」「霞ヶ関とどう折り合いをつけるか」とか、新聞にも「参院は単独過半数ではないから、安定が‥‥」なんて話がおどっている。
鳩山体制が動き出したとたんに、ひとつ先のシナリオになっているはずだが、いまはまだ、頭がついていっていない。そして遅かれ早かれ、日本中が切り替えを迫られることになる。もたもたしてると、国民にも置いていかれるぞよ。