2011年9月24日土曜日

見えているのに見ていない


 台風15号が東日本を縦断した。テレビはいつものようにあちこちリポーターを出して、ヘリが飛んで、大忙しだったが、ナマの映像を見ながらイライラするのもいつも通りだった。

 都心で風速36メートルとは聞いたことがないが、コメントでも聞いたことがないのがいくつか。お台場のルポで、女子アナが「キャー」といって「まるでアラシのようです」には笑った。嵐を取材してるんでしょうよ、お嬢さん。

 東京というとなぜか新宿駅南口だ。電車が止まって「大混雑です」というのだが、見たところいつもの混み具合と変わらない。あそこはいつもああなのだよ。違うのは立ち止まっている人が多いこと。これがこの日のニュースだった。わざわざ濡れるところでしゃべって、カメラがパンすると、濡れてもいない乗客がカメラに手をあげたりしている。間抜けなことこの上ない。

 城ヶ島のリポーターは、ヘルメットを飛ばされそうな風のなかでわめいていた。10年一日のごとく、こんな中でしゃべることはないよ。彼は三浦半島一帯で何度も暴風雨の中に立った。まことにご苦労様だったが、ひと言いわせてもらうと、いつも画面の真ん中にいるお前さんが邪魔だ。後ろの波の様子が見えないじゃないか。

 現場ルポの怖さは風や雨じゃない。リアルタイムに現状を伝える映像に、しゃべりが勝てるかどうか、その怖さだ。さらに、写っていないものも含めて全体状況も伝えないといけない。だが、多くは舌足らずで、写っている絵にも追いつかない。といって恥じてる風もない。

 ヘリの中継もそうだ。岐阜・御嵩町の土砂崩れの現場で、土砂の中から車がみつかった。大きく崩れた土砂の末端に救助作業の人が見える。ライブの映像がそこを映し出した。白いミニバンが横転して泥に埋まり、運転席のドアが開いている。一瞬「運転者は脱出したのか?」と思う。

 ところがヘリからは「車でしょうか?」、東京のスタジオも「あの白いのが?」なんていってる。現場は何を見ている? スタジオのモニターは安物か? 車は前夜から不明だった男性のものだった。

 台風上陸前のいちばんの関心は、紀伊半島の土砂ダムの成り行きだった。そのひとつ和歌山・熊野では、流れが堤を超えていた。「勢い良く泥水が流れ出しています。決壊しているように見えます」。まだ決壊じゃないだろう。越流だ(この越流というのも、今回初めて聞いた言葉だが)。

 下流では泥流が民家のある岸辺にどどんとぶち当たっていた。「民家に迫っています」。んなもの全部見えてるよ。それよりも、越流とは別に、土手の途中からも流れが見える(写真参照)のだが、リポーターは気づかない。「オーイ、穴が開いてるぞー」

 十津川・赤谷では、水位が増えた後、急激に水位が下がったというモニター・ブイの情報。ヘリが飛べないから、国交省では「理由がわからない」という。わからないじゃないだろう。低いとことに穴が開いたに決まってる。大分遅れて「穴が開いたと思われる」と発表があった。

 台風に限らず何でもそうだ。カメラの性能は素晴らしいから、何でも写っちゃう。ところが人間がそれを見ていないのだ。リポーターも東京も、見えてるものを見ていない。だからテレビを見ている方が、へとへとに疲れてしまうのである。

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