2010年6月5日土曜日

iPadは老人に福音か?


 別にマックのユーザーだからというわけではないが、iPhoneとiPadには気が動く。ひとつは、指一本、画面上での操作性だ。マウスでアイコンを突っつくのはもともとマックのお家芸だが、そのマウスもいらない。モバイルだから、面倒な配線もいらない。

 しばらく前、友人がアメリカで初めてiPadに触ってみたときの印象を、「今後のコンピュータと人間の接点を定義するものになるような気がする」とブログに書いていたのが、ずっと頭に残っている。

 iPhoneを見せてもらったことがあるので、およその見当はつく。あるとき、カメラ仲間でお茶を飲んでいた。1人が黙ってiPhoneをにらんでいたと思ったら、「レンズを手に入れました」という。ネットオークションで札をいれていたのだった。

 「エーッ、それじゃパソコンじゃないか」「そうです」

 以来、アップルストアへ行っては、「iPhoneにキーボードをつけろ」などと店員を困らせていたのだが、それが形になったのがiPadというわけだ(書籍端末というのが予想外だったが)。パソコンとの接し方が変わる? 年寄りにやさしい? という予感である。

 しばらく前、元通産官僚の岸博幸・慶大教授が、朝日新聞のインタビューで「米国発のネット帝国主義を許すな」と危機感を訴えていた。彼は、官僚時代はIT化推進の急先鋒だった、と自ら認める。それがいまや、グーグルだクラウドだと、政府機能まで左右されかねないと。なんだ、今頃気がついたのか。

 その彼も、もうひとつの失敗には気がついていないようだった。マイクロソフトの支配に手を貸したことである。OSももちろんだが、ナビゲーターのInternet Explorerが、政府機関から全国の自治体、学校にいたるまで行き渡っている。ひところ官民をあげて、商売人にすぎないビル・ゲイツを、あたかも先駆者みたいにありがたがった結果だ。

 その一方で、日本製の優れたOS「トロン」を通産省は無視した。日本の産業育成を司る役所として失格である。もし役所だけでもトロンにしていれば、少なくともサイバー攻撃やウイルスの被害を被ることはなかったろう。まあ、トロンはパソコン以外の分野では大いに使われているというが‥‥。

 先頃、フランスとドイツは、政府がInternet Explorerを使わないと宣言したそうだ。不具合が政府の業務の支障になるということらしい。が、日本のお役所はまだ、それに気づいてもいないようだ。他のソフトを知らなければ、そういうものだと思ってしまう。むろん、OSにしてもしかり。

 GMがおかしくなったとき、友人が面白いやりとりを見せてくれた。
 ビル・ゲイツが「コンピューター業界のような競争にさらされていたら、車は25ドルになっていて、燃費はガロン1000マイルになっていただろう」とうそぶいたのだそうだ。これに対してGMが「マイクロソフトの技術があったらこんな車になる」と反論したものだった。これには笑った。

 少し長くなるが、いくつかを抜き出してみると‥‥
 1.特に理由がなくても,2日に1回はクラッシュする。
 2.道路のラインが引き直されるたびに新しい車を買わなくてはならない。
 3.車に乗れるのは,1台に1人だけ。座席は人数分買う必要がある。
 4.エアバッグ動作には「本当に動作して良いか?」という確認がある。
 5.運転操作は,ニューモデル毎に覚え直す。以前の車とは共通性がないから。
 6.エンジンを止めるときは「スタート」ボタンを押す‥‥などなど。
 みんな覚えがあるから、これに書き込みが延々と続いた。ウインドウズの使いにくさとMSの傲岸不遜を皮肉ったらきりがない。

 そもそもソフトで金をとるなんて発想は、草創期の混乱の中だから通用したものだろう。どさくさで大もうけしたビル・ゲイツの商才はたいしたものだが、ソフトの使い勝手を改良しているだけでは、iPod、iPhone、iPadといった発想は生まれてこない。

 シェアを10%に落としながら、頑固にハードとソフトをひとつのものとして抱え込んできたアップルだからこそ、できたのだろう。意地なのか哲学なのか。面白いものである。

 で、いざiPadを手にすれば、もうOSやナビゲーターが何であるか、なんて考える必要もない。用途に応じたソフトだって、よっぽど特殊なものは別として、どんどん無料でダウンロードできるようになるだろう。

 iPadを発売初日に手にした人の感想に、「文字入力はパソコンの方が上」というのがあった。平らな画面上の仮想キーボードは、確かに使いにくそうだ。アップルもわかっていて別売のキーボードがあるらしい。

 うん、それなら当方の望むものに近くなるか? いやいや、そうでもない。老人にゲームはいらない。余命が少ないのにそんなヒマはない。余分なナビも要らない。耳が聞こえないんだから、音楽も要らない。もっとシンプルな端末がほしい。

 友人にそういったら、「使わないもソフトは捨てればいい」といわれてしまった。なるほど、そりゃそうだ。前出の別の友人はすでにiPadを手にしたというから、そのうち感想を聞かせてくれるだろう。それをまた、老人風に翻訳しないといけない。難儀なことだがちょっと楽しみである。

2010年5月14日金曜日

ツイッターがわからねぇ



 メールは普通に使っている。mixiにも参加して、ブツブツいったり、写真を載せたり、ついにはブログとやらにも手を染めることになった。必要から You Tubeにも関わった‥‥まあ、年寄りとしては精一杯やってるつもりなのだが、最近しきりに出てくる「ツィッター」というヤツ。これがよくわからない。

 英語の「さえずり」という意味なのだそうだ。「いま何をしてるんだ」「こんなことがあったよ」といった個人のつぶやき。そんな、どこの何者かもわからない人間のさえずりに目を通すなんて、それでなくても老い先短い身には時間は貴重なのだ‥‥まずはこれだった。

 ところが現実は大いに違うらしい。短いつぶやきに、実に多くの人が目を通していて、反応する。それがまた、次々に伝搬していって、しばしば「こちらの世界」の動きになっているのだと。「世の中、そんなにヒマ人が多いのか」というのは、どうやら「置いてかれた世代」のたわごとであるらしい。

 鳩山首相がツィッターを始めた、と聞いて、「何をまた、お調子者が」と思ったものだが、その書き込みを読んでいる人間(フォロワーというのだそうだ)が60万人と聞くと、あらためてただ事でないと思ってしまう。そんなメディア、いままでなかった。

 例の事業仕分けで、You Tubeの画像と一緒にナマ中継したのがいる。むろんツィッターの方は細切れだろうが、全ては生データだから、重ね書き全体を見れば立派な「記録」プラス「世論調査」である。また、政府の審議会かなにかで、刻々と書き続けた例もある。これは、会議が終わったとたんに、非公式議事録になってだれでも読める。

 とにかくリアルタイムで双方向、伝搬のスピード‥‥どれをとっても、既存のメディアでは、逆立ちしてもできないことだ。これがいまや、政治家、自治体、地域の商店街から吉本興業の芸人たちにまで及ぶらしい。新聞までが始めていて、ツィッターの試行の結果を紙面に載せたりもするという。いったいどうなってるんだ。

 ツィッターは「140文字以内」という制限がある。これがいいという。たしかにネットでは、800字を超えると「長い」という感じになると聞いたことがある。にしても、140字では短かすぎないか? いや、だから気軽に書き込めるんだという。話が煮詰まれば、短くても中身の濃いやり取りは可能だと。なるほど。

 もうひとつは「バケツリレー」だという。「こういうことがあったよ」「だれかがこんなことをいってる」と、情報を右から左へ転送、あるいは引用する。すると、とんでもないところで、ひっかかりが出てくるというのだ。

 衛星テレビが蓮舫議員の声をとりたいと思ったが。秘書と連絡がとれない。そこでツィッターに書き込んだ。するとフォロワーからフォロワーを経て 2時間後に、九州かどこかにいた当人から連絡が入ったそうだ。従来は、探しまくるしかなかった。それが、ツイッターに書きっぱなしで、他の仕事をしていられる。考えられないことだ。

 この右から左というのは、ブログにもあるらしい。それを聞いた時むしろ「何のためにそんなことを?」「だれが読むんだ?」といぶかったものだ。これがツィッターだと、そういうメディアなのだという受け止めにはなる。ただ、なんとなく腑に落ちない。

 南海キャンディーズの山ちゃんこと山里亮太が、レギュラーの番組を休んだとき、放送を観ながらツィッターで突っ込みを入れた、という話があった。メディアの新たな使い方として注目されたというのだが、いったいだれが、テレビを観ながらツィッターを読むんだ? アブナイもいいところ‥‥。

 それ以上に、危うさに慄然とした。お笑いの突っ込みなら毒にも薬にもならないが、これがネガティブな、あるいは悪意のあるニセ情報だったらどうなるか。ウソでも大勢がくり返し叫んだら本当になりかねない。

 今度の参院選では、ネットでの選挙運動が認められるという。が、ブログとHPの書き換えができるだけで、ツイッターはだめだという。まあその方が無難だろう。しかし、個人のつぶやきは選挙運動ではないのだから、もともと規制のしようがない。

 勝手連にもなるだろうし、アンチにもなりうる。もし投票の1日、2日前に妙な「つぶやき」が流れたら‥‥それが本物かどうかの判断もできず修正も追いつかないまま投票になっても、結果は動かせない現実のものになる。これはおそろしい。

 現に、昨年の衆院選で民主党のサイトに無関係な書き込みが集中してサバーがダウンしたそうだ。ある種の「意図」が感じられる。まだツィッターは使われなかったが、ツィッターならもっと大きな力を発揮するだろう。

 全国の選挙区・比例区で、これが起こったらと思うとぞっとする。影響を推し量ることすらできない。たとえ事前の世論調査と投票結果とが大きくズレても、検証すらできまい。

 先頃、福岡の複数の高校が「ツィッター禁止の校則をつくった」という偽情報がツィッターを駆け巡った。メディアが問い合わせて、1日で「ニセ」とわかったが、これが問い合わせできない類いの情報だったらどうなる?

 次の参院選が、「悪しきツイッター元年」として歴史に残らないよう祈るしかない。ツイッターはまだまだ要注意だ。

2010年4月22日木曜日

また集団ヒステリー



 だれもおかしいと思わないんだろうか? 子どものライター遊びによる火災が増えているというので、ライターにストッパーをつけろとか、なんだかんだ‥‥。またいつものヒステリーが始まった。

 たしかにこのところ、子どもがライターで遊んでいたためと見られる火災が続く。アパートで子どもと父親が死んだり、車の中で子ども4人が‥‥とか、悲惨な話だ。これを伝える新聞、テレビの記事は、どれも同じ組み立てである。

 まず東京消防庁のデータで、過去10年間に12歳以下の火遊びによる火災が700件、うちライターによるものが500件。ライターに限ると、5 歳未満の死傷者発生率は79.6%。住宅火災の死者のうち、出火者の年齢では、3歳が飛び抜けて多く、次いで2歳、4歳、5歳だと。

 ライターの販売数は年間約6億個だが、安全基準はない。そこでまた、アメリカだ。1994年に安全基準を設けて、レバーを重くしたり、ストッパーやロック機構をつけたりしたら、ライターが原因の死亡事故(5歳以下)が4分の1以下に減ったと(当たり前だ)。だから、ライターを何とかしないといけないと。

 哀れライターの業界団体、日本喫煙具協会は、ひたすら「やれることから1日も早くやる」と答えるばかりだった。経産省も5月には安全基準を出すという。これでおさまりのいい記事が、一丁あがりである。

 だが、ちょっと待ってもらいたい。ことの大前提がおかしくはないか。ライターは昔からある。子どもだっていつもいるものだ。何も変わっちゃいない。そもそも最近増えているというのは本当か?

 上の数字は、よく見ると実は何もわからない数字なのだ。火をつけた子どもの死亡率が高いのは、当たり前だろう。このところ連続したのを、増えていると勘違いしてはいないか。数字で、ことをあおってはいないか。

 またもし増えているとしたら、何が変わったのか。タバコを吸う人が減った。子どもの数も少し減った。これは間違いない。あと考えられるのは、子どもがバカになったか? それはなかろう。では親がバカになったか。うん、これはありうる?

 その昔はマッチだった。子どもにはマッチのほうがずっと面白い。親もそれはわかっていたから、十分注意深かったはずだ。火は本来危険なもの、恐ろしいものだが、その火をちゃんと使えるからこそ人間なのであって、ぼんくらでも火事を起こさないライターを、なんてのは話が逆だろう。

 いま起こっていることは、集団ヒステリーの典型のように見える。その結果かわいそうに、メーカーが余分なコストアップを強いられる。いまわが家にあるライターは、ほとんどが景品の中国製だが、中国のメーカーを泣かせればいいとでも思っているのだろうか?

 わたしは18、9からタバコを吸っているから、布団を焦がしたり、畳や絨毯、スボンの焼けこげはしょっちゅうだ。親の代から家中にライターが転がっている家だった。2人の子どもは3歳だったことも、2歳も4歳も5歳のときもあった。しかし、家の中で火をつけたことはない。

 火は危ないもの、お湯は熱いもの、これは体感させるからわかる。ちょっとやけどしそうになったり、「アッチッチ」の実感が必要なのだ。知らずに育てば、火を怖いと思わない人間ができるだろう。

 雨や雪でもスリップしない車を作るのはけっこうだが、車とはそういうものだと思う世代が、やがて出てくる。絶対ぶつからない車ができれば、よそ見をしながら運転するヤツが出てくるだろう。人間とはそういうものではないのか。

 安全といえば聞こえはいいが、いってみれば「便利」の話である。便利のためにコストの高いものを作るのが本当にいいのだろうか。ましてそれが「規制」になってしまえば、それ以外のものは、存在しなくなるのである。

 メディアも、もう少し思考の幅を広げてもらわないと困る。取材で数字にまどわされることは、ままある。しかし、10人に1人くらい、「おかしいぞ」といい出すヤツがいてもいいはず。それがいないらしい。その方がライターよりずっと怖い。

 集団ヒステリーでは、アメリカは先進国だ。なにしろ禁酒法を作った国である。戦後のマッカーシー旋風、近年では9.11‥‥禁煙もそれにあたるだろう。

 そのアメリカで、ライターが問題になったのは94年。EUでは06年、日本では今年である。この差は何なのか? この意味を考えることで、問題の本当の所在がわかってくるのではないか。そんな気がするのだが、どうだろう。

2010年3月30日火曜日

政権交代で変わったのはだれ?



 「あれ、エイプリルフールには早いぞ?」。日付は3月27日。それも朝日新聞だ。「鳩山政権 今後を占う」という予測記事に、「5月x日普天間移設に失敗」「6月x日小沢氏に辞任促す」という見出しと、それぞれ短い架空記事がついていた。欧米の新聞ならともかく、日本では珍しい。

 本文はどうってことのない、ああだこうだの観測だが、架空記事の方は、「内閣支持率は2割程度に落ち込んでいた」「首相は小沢氏を官邸に呼んで‥‥『党のために辞任して』」なんていうんだから、なんとも刺激的だ。「週刊朝日かよ」と思った人もいたかもしれない。

 自民党政権時代にはこんな記事は出なかった。あのしっちゃかめっかの麻生首相にも、こういう踏み込み方はしなかった。それが政権交代から半年、事業仕分けから政治とカネの話、普天間の“揺らぎ”を経て、とうとう政治記者までが変わったんだなぁと、ある種の感慨を覚えた。

 同じ紙面にもうひとつ、変化を伝える記事があった。首相の会見にインターネット記者やフリーランスが加わったという話である。120人中40人がこれらの記者で、5人が質問して、中には、平野官房長官の能力不足を指摘して「チェンジしないのか」といったというから面白い。写真には、首相の後ろに平野氏の顔も見える。昔なら、こんな質問は絶対に出なかった。

 新聞、テレビの政治記者ばかりだと、質問することで持っている情報が推し量れるから、デリケートなネタは絶対に突っ込まない。テレビが全部録画してるとなれば、なおさらだ。だから、会見そのものが面白くない。

 しかし、しがらみのない記者たちが入ってくると、会見の空気は間違いなく変わる。メディアの特性が異なるから、何が飛び出すかわからない。爆弾質問だってないとは限らない。聞いている記者たちも即応力が問われるだろうし、いい意味の緊張感が生まれもするだろう。

 本当は記者たちが何を聞いているのかも、聞きたいところである。インタビューだと、質問の仕方で記者の程度がわかるものだが、普通の会見やぶら下がりでは、概ね答えしか伝えられないから、空気がわからない。

 先の記事にも出た平野官房長官なぞは、ニュースの中では、「これこれの問題にこう答えた」とコメント部分しか伝えられないことが多い。が、例えば、例の官房機密費について鳩山首相が「公開する」といったのを受けて、「国益といえるかどうか」といったとき、記者たちがどう切り込んだか。そこが見たいところだ。

 この平野という人、無能かどうかはともかく、官房機密費では当初から後ろ向き発言が多い。しかし、会見場で記者たちと論争になったという話は聞かない。少なくとも、「あなた官房長官でしょ。首相との関係はどうなってる?」「国益とはどういうことだ?」くらいは聞いてもらわないと、「無能はどっちだ」といわれても仕方がなかろう。

 政権交代ではいろんなことがわかった。民主党の幹部には案外権威主義の人が多いなというのがひとつ。まあ、かつて自民党より社会党の方が概してそれが強かったことは、だれもが知っていることだが、野党時代に暴れん坊みたいなイメージだった人までが、「メディアにピリピリしてる」なんていう話を聞くと、やれやれという気にもなる。

 また、与党慣れしていないというのか、権力に酔っているのか、勝手にぺらぺらというのも目立った。首相がまた、それらの食い違いにバンと断を下さないものだから、印象が寄り合い所帯みたいになる。連立の食い違いがこれに輪をかける。

 加えて「政治と金」。鳩山首相の母親資金はずっこけものだが、小沢幹事長のやり口は、自民党そのものである。「政治は数。だから選挙、従って金」というのも、自民党時代から変わらない彼の哲学、というより田中角栄そのものなのだ。ただ、角栄と違って彼には政策がない。

 側近もまた同様なようで、さきに執行部批判をした副幹事長を、「茶坊主」みたいなのが現れて解任にしたかと思うと、一転続投とか、自民党でもやらないようなことまでが起こった。まあ、玉石混淆である。

 これら一つひとつが、すべてオープンに流れるから、メディアも忙しいことだったと思うが、こうした日々から、政治と政治家を見る目が変わって当然だろう。朝日新聞の架空記事が出てきたのも、その結果ではないだろうか。よくいえば、政治を見る目が平たくなったーー政治記者の目線が、社会部や週刊誌記者に少し近くなった?

 ちと読み過ぎかもしれないが、これも政権交代がもたらしたひとつの流れ。メディアの特性の違いはますますはっきりしてきているが、どのメディアだろうと書くのは記者たちだ。こればかりは変わらない。平たい目線の記者がふえて、発する質問が深くなれば、いうことはない。

 このところ、テレビの言葉の拾い方がうまくなってきた。ときどき質問も聞かせる。郵政改革法案での独走を追及された亀井金融・郵政担当相とのやりとりは傑作だった。

 「あなたもうるさいね。どこの社?」「TBSです」「あなた宇宙人じゃなくて、何人だ。了承されたから発表したんでしょ」「総理は了解していないと……」「もう一度聞いてみろよ」「認識が……」「認識じゃない現実だ」「なんでこんなことに?」「君たちが騒いでるだけだ」「修正は必要ない?」「くだらんこと聞くなぁ」

 順番通りではないつなぎあわせだが、実際はずっとやわらかいやりとりだ。新聞では逆立ちしても出せない、ガンコで老かいな狸おやじ、しかし憎めない感じが出ていた。これを文字で読むときつくなって、「この野郎」という気になってしまう。テレビの特性はすばらしい。

 あの記者(女性の声だった)だって、狸おやじに「うるさいねぇ」といわせたらしめたものだ。顔はしっかり覚えてくれているだろうから、「うるさいのが来ましたぁ」と大臣室に遊びにいったら、特ダネのひとつもくれるかもしれない。

 ホントのニュースは人間から出る。民主党幹部から特ダネが出る(もれてくる)ようになったら、与党として一人前になったということなのだが‥‥。

2010年3月22日月曜日

悲しき居酒屋



 補聴器がとうとう寿命になって、長時間の使用ができなくなった。7年以上も使ってきたから、何かがへたってしまったらしい。ちょっと信じられないのだが、物知りによると、補聴器のコアは岩塩なのだそうで、湿気で元へ戻らないところまできてしまったのだと。

 ただ、乾燥剤に入れておくと、1時間半から2時間くらいは何とか機能を回復する。で、限界になると、突然ご臨終だ。雑音になったり聞こえなくなったり。もう半年以上になるが、話をしていて、「あ、申しわけありません。終わりました」と話を切り上げることが多い。

 左はもうほとんど聞こえず、残りの右を頼りに補聴器を使っていた。メーカーに聞いたら、「この型は修理が終わりました」と、マイクロソフトみたいなことをいう。「新しいのを買え」と。しかし、これが結構な値段なのだ。イヌと散歩しているただのおじいさんが、大枚をはたく必要があるかどうか、大いに悩む。補聴器には限界があるからである。

 悲しいかなマイクだから、あらゆる音を均等に拾ってしまう。こちらが必要なのは人の声だけなのに、マイクは町の騒音もテレビの音も隣の人の話声も、何もかも一緒くたに拾って増幅する。

 最初に補聴器を付けたときは、まあ世の中こんなに騒音にあふれていたのか、が実感である。デジタル技術で多少音質を調整したり雑音をカットすることはできるのだが、がやがやわいわいの「居酒屋状態」にはどんな高級機種も対応できない。

 人間の耳は、騒音の中でも自分の聞きたい音を拾い分ける。耳だけではなく、脳で聞いているのだ。難聴はその機能が失われているから、いわば耳自体もマイク化している。そこへ補聴器のマイクを重ねて音量をアップしても、元の耳とはほど遠いものを聞かされることになる。

 その割にはよく使っていた方だと思う。仕事の上でも必要だった。しかし、多人数で重なって飛び交う言葉がつかまえられない。小声の冗談が聞こえない。滑舌の悪い人が聞きとれない。空調の音や小さなテレビの音が邪魔‥‥必要な音の40%もつかまえられただろうか。おそらくそれ以下である。

 そんな風だから、いまたとえ新しい補聴器を仕入れても、結果の見当がついてしまう。効果の割には高すぎるよ、それなら、必要なときだけ時限装置つきの補聴器でいいやと、そういうことなのである。テレビは直接イヤホンで聴く。パソコン見るのに音は要らない。

 ただ、家族との会話はほとんどできなくなった。車も運転できないから、免許証も捨てた。平衡感覚もおかしいから、山登りやスキーはできない。かくて、音の少ない静かな生活は、ひょっとしてぼけるんじゃないか‥‥これはあまりいい気分のものではない。

 ところが、ひょんなことから新兵器が見つかった。前から気になっていたICレコーダーというヤツである。以前はインタビューのときMDを使っていたが、録音状態をモニターすると、補聴器よりはるかに有効だった。そのMDがぶっ壊れたのだ。

 さて最新の機器はどの程度の聞こえなのか。イヤホンをもってヨドバシへいって、片っ端から聞き較べてみた。これが実によく聞こえる。補聴器とくらべても遜色がない。係のお兄さんに「補聴器より音がいいねぇ」といったら、「そりゃそうですよ。マイクが違います」だと。なるほど、補聴器のマイクなんて哀れなほど小さい。

 それでいて、お値段は補聴器の10分の1よりはるかに安い。イヤホンをつけていても、音楽を聴いてるように見えるだろう。これこれ、というので仕入れてきた。デジカメ用のネックストラップで首からぶら下げたり、胸のポケットへ入れたりして、目下テスト中だ。少しづつ不都合もわかってきたが、いざとなったら、相手の目の前に本体を突き出すか、外付けマイクを使えばいい。これで時間切れというのはなくなりそうである。

 現に昨夜、知り合いと食事をしたのだが、「居酒屋状態」の中で、テーブルに本体を放り出しておいたら、なんとかなった。科学技術の進歩はすごいものだ。

 ICレコーダーは、オモチャみたいなメモリチップに音が記録される。しかも12時間とか連続でOKなのだそうだ。かつて国連の記者会見などで、記者たちが弁当箱みたいな録音機を一斉に突き出していた光景を思い出す。小さな新型は決まって日本人だった。それがマイクロテープになりMDになり、いまはだれもがICなのだろう。

 パソコンや携帯電話にしてもそうだ。これらがなかった時代、みんなどうしていたんだろう。あらためて、昔のお年寄りを思う。父も聞こえが悪かった。母は最後まで聞こえていたが、目がダメだった。ふたりとも静かにこたつにすわって、テレビを観たり居眠りしていた。どんな思いで老いに耐えていたのか。

 わたしのいまの聞こえは両親よりはるかにひどいものだが、科学技術のおかげで、まだなんとか健常者(嫌な言葉)の中に入っていくことができる。パソコンのおかげで、文章でのやりとりやブログの発信は普通にできる。遅く生まれた幸せというものなのかなと、つい遠い目になる。

2010年3月16日火曜日

ネットのあちらとこちら

 このページにはカウンターもなし、書き込みもないから、読んでくれてる人がいるのか、ちゃんと見えているのかと心配になって、管理者にメールしてみた。すると、「正常です」という返事があった。まずはひと安心。

 ところがメールの書き方を間違えて、タイトルにメッセージを書いてしまったために、読んだひとがわざわざこのページをのぞいて、ご親切にアドバイスをくれた。これ自体驚きだったが、その内容もまた、目を見張るようなものだった。

 まずは「記事数が少なすぎる」「内容も面白くない」「これではだれも読まない」「読む必要がない」とぼろくそである。この方はブログで「新聞記事の掲載アーカイブ」をやっているのだそうで、1日の書き込みが200から400という。そうなるためにはこれこれと、そのやり方を説いてくれていた。それはいい。

 驚いたのは、なかに「絶対に意見を書いてはいけない」とあったことだった。このブログは、メディアのありようで気になったことを書き留めている個人のつぶやき。だからこそ「メディア日記」なので、つまりは、意見そのものである。だから、これをいけないといわれると困ってしまう。

 どうやら、自分のニュース発信サイトと同じだと勘違いしたらしい。「写真を載せると見てくれる」「動画も面白い」などという。新聞などのニュースサイトか役所のHPから、記事やスピーチを転載しているようで、「アメリカ大統領の声明の原文、訳文を載せたら、云々」などとも書いてあったから、つまりはコピペ。写真もコピペ。ごていねいに「著作権」の注意までしてくれていた。

 yahooやgoogle、既存のメディア以外にもさまざまなニュースサイトがあることは知っていたが、「掲載アーカイブ」というものはまだ見たことがない。しかし、その意味合いはわかる。普通のサイトでは、ニュースの形のものばかりになるが、それらの元になる、声明や覚え書き、判決の全文とかが並んだら、それはたしかに便利だろう。

 日の書き込みが何百というから、PV(ページビュー)は相当な数になるに違いない。驚いた。そういうサイトはいったいどれくらいあるのだろう。

 新聞やテレビが形作っている情報世界とは別に、その何倍ものスピードで情報を拡散しているネットワークが存在している。その世界、つまりあちらの世界に通じている人たちは、こちらの世界の人間でもあるのだが、こちらの世界の大半の人たちは、あちらの存在すらほとんど知らない。そんな2つの世界が併存している。まるでSFだ。

 かつてホリエモンが、「新聞なんか要らない。ニュースはネットを見れば出ている」といったことがあった。「この男はニュースというものをわかってないな」と思ったものだ。ネットだろうと何だろうと、だれかが書いているんだということを、彼はきれいに忘れていたからである。

 いまあるネットのニュースサイトのコアとなるニュースは、既存のメディアが支えている。新聞、通信、放送が作るニュースが配信されて、その先は多少の編集を加えるか、コピペとなるか。それがまた、意見ばかりの2ちゃんねるのようなサイトを経て、はね返っても来る。その中に新しいニュースが加わっていることもあれば、玉石混淆の石だって時には意味を持つだろう。

 ここまではわかる。ネット情報が大きな力をもっていることもわかる。しかしその実像となると、こちらの世界の人間にはまずお手上げである。たとえば異常な注目を集めた事柄では、ニュースサイトへの書き込みが、日に一万を超えることもあるのだそうだ。そんなものだれが読むのか。

 昨年春だったか、当時の麻生首相を応援して「著書を買おう」というネットの呼びかけ(「まつり」というらしい)で、ベストセラーになったことがあった。呼びかけはあちらの世界だが、本が売れるのはこちらの現実である。

 これがもし政治の世界に応用されたら?と、懸念したのはこちらの人たちだったが、あとの選挙で、麻生さんが勝つことはなかった。あちらの人たちも、こちらで投票するときは、使い分けをしていたのだろうか。

 いえるのは、ネットの世界の実像や力を測る物差しを、まだだれも持っていないということである。これは実に不気味だ。力があることはわかる。新聞、テレビがおたおたするくらいなのだから。

 彼我のカベを破ってその力がこちらに及ぶとしたら、どんなときにどんな形になるのだろう。アメリカや韓国の大統領選挙ではすでに、ネットが大きな役割を果たしたといわれる。それが果たしてひな形になるのか。

 おそらくはコピペやリンクの闘いになるのだろうが、そんなものにひきずりまわされてたまるか。そのための方策は、ちょっとへそ曲がりになることである。付和雷同せず大きな声に流されないためには、意地悪じいさん、ばあさんになろう。なに、乗り遅れたって、別に失うものなんかない。

2010年1月27日水曜日

政治家に不動産?


 「民主党がこんなに早く崩れるとは思わなかった」と小泉前首相がいっていた。そしてこう続けた。「政治家が土地やマンション買うなんて聞いたことがない」と。この人の感覚はたしかに鋭い。まさしくそこが核心なのだ。

 小沢幹事長の資金管理団体「陸山会」が世田谷に買った土地の代金をめぐって、国会も肝心の予算審議が脇へいっちゃうような騒ぎ。また、鳩山首相が余分なことをいうものだから、メディアも忙しいことだが、報道もひとつピントがはずれているような気がしてならない。

 この事件では3人の元秘書が逮捕されているが、容疑は政治資金収支報告書への虚偽記載。土地取得をなぜか次の年に記していた。単なる間違いなら修正ですむのが普通だが、今回はその意図が問われている。

 もうひとつは、土地購入代金3億5000万円だかの出所だ。検察は、ダム建設にからむ建設業界のヤミ献金とのからみを疑っているようで、いわば贈収賄の線である。が、職務権限のない野党の人間だったときの話。いかに小沢氏が「天の声」といわれていようと、ゼネコンからとんでもない暴露でもないかぎり、絵に描いたような結果は予想しにくい。

 現に、マスコミの大騒ぎの中で行われた事情聴取のあと、小沢氏は予定になかった会見までして、「事務には関わってない」「金は父の遺産と家族の金だ。不正なことは一切ない」といいきった。どころか「幕引き?」という声も出るほどの落ち着きぶりである。

 過去19年分だか20年分だかの銀行口座を検察に押えられてもなお、「何も出てこない」という自信の表れであろう。検察が3人を逮捕したのは、当然何かを握っているとみるのが常識だが、小沢氏は平然と各地を飛び回って、「幹事長職を全うする」と言い続けている。

 法律でいかに攻められても大丈夫という自信とみていい。多分そうなのだ。むしろ目を向けるべきは、合法の中で彼が何をしてきたか、ではないのか。とくに政治家が不動産を買う意味である。

 自民党の追及チームが、都内の小沢不動産を見て歩いた。バス2台を列ね、それをメディアが追うというばか騒ぎだった。しかし、自宅以外に、いま問題の土地が世田谷に、9カ所のマンション・事務所は都心の一等地というのには驚いた。ほかに地元や沖縄にまで持っている。日本中が「何で?」と思ったことだろう。

 ツアーに参加した平沢勝栄氏も、「驚いた。あるところにはあるもんだ」といっていた。平沢氏はテレビで給与を公開して、「私ですら年間5、6千万円はかかる。だから献金は必要」といっていたが、小沢不動産はそろばんを入れると10億とかいうのだから、そりゃぁびっくりする。

 おまけに、家族ぐるみで3億だ4億だという金が長年金庫に眠っているとはどういうことか? 献金なしには不可能であろう。その実態は? 国民がいま目を向けているのは、そこだ。虚偽記載なんかじゃない。

 テレ朝の「スパモニ」が、政党助成金で面白い絵解きをやっていた。総額319億円が、議員数プラス得票率で配分され、得票率が高いと沢山行く(共産党はもらっていない)。議員一人あたり4千万から5千万円になる。

 助成金は、余ったり、解党しても返す必要はない。また、A党100人が分裂して、A党50人、B党50人になったとする。お金はA党が100人分をとり、B党はゼロ(翌年からになる)。使途については「制限してはならない」(政党助成法4条)とある。ただし「借金の返済」と「貸す(投機)」ことはいけない。

 合法であるかぎり、検察は手を出さない。しかし、資料はすべて検察の手の中にあるのだから、立件できない部分についても、とりわけ金の流れは入念に追うはずだ。そこで何が出てくるか。これは面白い。

 小沢氏でいま問題になっているのが、自由党が解党したときの、助成金の行方である。金に色はついていないから、水掛け論になる可能性はあるにしても、トータルだけでも読めるものはあるはず。

 そこであらためて、なぜ虚偽記載をしたか、複雑な預金の移し替えなどをしたか。それが不動産取得の十分な説明にならなかったら? 合法だろうとなんだろうと国民は黙っていない。それでも幹事長のイスに座っていたら、選挙はもつまい。

 むろん検察は、ヤミ献金の線を追い続けている。小沢幹事長の聴取のあと、元特捜幹部は「隠し玉があっても、あそこでぶつけるようなことはしない」といっていた。政権党の幹事長にまで手を伸ばした以上、真剣勝負だろう。隠し玉は本当にあるのか。3人を逮捕した攻めの根拠は?

 事情聴取のあとも、検察の情報リークは続いている。しかしだんだん話が細かくなってきた。メディアはその袋小路に入り込まない方がいい。