2010年8月30日月曜日

お前らただのご用聞きか



 だんだん腹が立ってきた。むろん民主党の代表選のことだが、当の民主党員たちの動きよりも、それを伝えるメディアに対してである。「お前らいったい何なんだ。ただのご用聞きか。頭と口はないのか」

 鳩山が、小沢を支持するのは「大義だ」といった。「わたしが小沢さんを民主党に入れたのだから」と。さらにモスクワでは、「わたしを総理にしてくれた恩義に応えるんだ」といったそうだ。言葉がそのまま記事になっている。記者たちは質問をしなかったらしい。

 「そんな個人的な話を持ち込むときか」「政権党の責任は? 日本の明日を考えるべき立場だろうに」「小沢が代表になったら、民主党そのものが沈没するとは考えないのか」

 もし、これらの質問をして答えさせていたら、答えがどうあれ記事はふたまわりくらい大きくなっていただろう。読者が知りたいのはその答えなのだから。それを聞きもしない記者とは何なのだ? 読者の後ろを走っている新聞なんかいらない。

 とにかくこうした話ばかりである。昨年選挙で勝ったあと、小沢が「チルドレン」を集めていいもいったり、「君らの仕事は次の選挙で当選することだ」と。これもそのまま記事になった。

 議員の本音であることはだれでも知っている。が、堂々と口にするとは、どういう神経だ。「そんな議員いらない」「4年間国の金をいただいて、その間選挙運動やれだぁ?」と思った有権者は多かったはず。なのになぜ、記者たちはその場でバシッと書かないのか。

 小沢は選挙に強いという神話がある。しかしその実態は、自民伝統の「ドブ板選挙」である。新人議員にひとりづつ小沢の秘書がついた。いったい何人いたのか。その費用は? 新人たちは「小沢先生が」と思ってるかもしれないが、全部民主党の金のはずだ。それを「小沢チルドレン」などとはやし立てたのはだれなんだ。

 そもそもチルドレンといっても、中には行政経験豊富な首長もいる。特定の問題で深い活動してきた人もいる。役人と戦ってきた人もいる。行政実務ではたった一度、半年間の自治大臣だけ(あと政務次官を2度)という小沢より、実態を深く知っている人は多いのではないか。それを国政は初めて、というだけで、「辻立ち」最優先だと? 事業仕分けで、実体験をもとに鋭い切り込みでも見せたら、その方がよほどいい選挙効果を生んだだろうに。

 先の軽井沢でのパフォーマンスに出たのは160人だった。「気合いだぁ」とわめいたお調子者までいたが、鳩山・小沢派の総数からいうと、20人くらいは出ていない。骨のあるチルドレンもいるということだろう。

 話を戻すと、記者たちの鈍感には、どうやら理由がある。記者会見の様子をみると、会見ではまずICレコーダーで録音をしておいて、発言はメモをとる代わりにパソコンで打っているようだ。たいしたもんである。キーパンチャーの役割までこなしているのだから。

 もともとメモだって、なかなかとりきれるものではない。小沢とか安倍晋三みたいに、ひと言発するごとに「アー」「エー」とやってくれると、大いに助かるのだが、頭のいいヤツにすらすらやられると結構苦労する。

 しかしメモをとりながら、「これは見出しになるな」「これはニュースじゃない」「ここは要約して」「あれと関連するな」と、すでに記事を書き始めているものだ。だから終わったとたんに、メモのポイントだけを頼りに組み立てられるのである。(森喜朗みたいに、最後まで見出しがみつからないなんてのがいちばん困る。彼の場合、いちばんのニュースは失言だった)

 ところが、パソコンだとメモより早いらしい。「その全文を送ってくるのがいるんだ」と嘆いていたデスクがいた。つまりはご用聞き。内容を判断していないということだ。それでは、言葉尻をつかまえて丁々発止なんて望むべくもない。なめられるわけである。

 これは必ずしも政治ニュースに限らない。警察ダネも含めて、このところ取材する側、される側の力関係がおかしいと感ずるのは、結局記者の側がまいたタネ、ということのようだ。

 調査報道では結構いいものが出てはいる。目のいい記者も少なくない。しかし瞬発力を欠いたら、半分手に入っているニュースですら逃がしかねない。とくにいまはテレビやネットの中継がそのまま流れることが多いから、取材のアナまでが見えてしまう。

 「なんでそこを突っ込まないんだ」と思われたらお終いだ。そのあと、どんな立派な記事を書いたって、だれも読んじゃくれまい。取材過程がさらされるのは、厳しいものなのである。記者たちがこれをどれだけ自覚しているか。

 今回新聞論調は概ね「小沢に大義名分はない」「筋が通らない」といいながら、分裂の危機だの政界再編だの、と先読みに忙しい。ところがここへきて、菅首相は再選後は挙党一致に、なんていい出した。小沢の動きはかけひきだったのか。メディアはまたまた振り回されそうだ。

 そもそも最初にバシッとかましておかないからこうなる。「ご用聞き」は即ち傍観者。自分の国の政治だというのに、怒りが足らないのだ。だからこっちはますます熱くなる。それでなくてもくそ暑いのに、いい迷惑である。(文中軽重略)

2010年8月28日土曜日

どのツラ下げて代表選



 民主党の代表選にとうとう小沢一郎が出ることになった。「脱小沢」をやめろという鳩山の仲介を、菅が蹴っ飛ばしたのは痛快だったが、なぜ小沢が出るのか、なぜ鳩山が小沢支持になるのかがよくわからない。

 これで真っ先に思い出したのが、もう10年になるか、小泉純一郎が勝った自民党の総裁選である。もう忘れてしまったのか、テレビでもだれも触れないが、あれは実に奇妙な選挙だった。

 党員・党友だけの選挙なのに、一般有権者の視線に押されて、必ずしも意に沿わない小泉に票が集まったのだ。「ここで橋本龍太郎を選んだら、次の選挙で自民党は見放される」という強迫観念からだった。小泉の「自民党をぶっ潰す」というひと言が、流れを決めたのである。

 今回も状況は似ている。もし民主党員が小沢を選んだら、次の選挙で民主党は見放されるだろうーー現に町の声でも、これが少なくなかった。ところが、民主党員でもそう思わないのがいるらしい。まあ、菅には小泉のような厚かましさがない、というのはあろう。しかし、それ以上に「小沢の剛腕」、強いリーダーへの期待ばかりがいわれる。

 小沢派はもう「政治と金」なんてだれもいわない。一度は引退みたいなことをいっていた鳩山までが元気になった。かつての自民党でも、ここまで厚顔無恥ではなかった。さらに新聞、テレビまでが、「多少悪いことをしても力のある人が‥‥ということか」なんていいながら、票読みに懸命だ。

 おいおい、メディアはいったいどうなっちゃったんだ、と思っていたら、朝日新聞に歴代の小沢担当記者6人の座談会というのが載った。これを読んで、初めてわかった。「あ、時代が違うんだ」と。

 出馬表明の前日だったが、「出る」「出ない」と意見が分かれるなかで、「出るべきでない。1回休みというのがたしなみだ」「いや出るべきだ。議論してほしい」というのがあった。それぞれ理由はあるのだが、驚いたのは、小沢がトップに立ったときの危うさを、だれも疑っていないことだった。どころか、彼に期待しているようにすらみえる。

 記者たちが小沢を担当したのは、自自連立あたりからである。それより7、8年前の、小沢が自民党の実質ナンバー2だった頃を知らないのだ。いちばん年かさの記者でもまだ駆け出し、政治部員にはなっていない。

 古い世代にとっての小沢は、剛腕は即ち独断専行であり、「数の政治」の信奉者だから、選挙のためなら何でもあり。新聞記者が大嫌いで、そのくせ NYTだのW・ポストにはホイホイと会う。「自国の記者が嫌いな政治家なんて信用できるか」。これだけでも、小沢を好きな記者はいなかったはずである。

 実質ナンバー2でありながら、首相にという声が高まらなかったのも、身辺が身ぎれいでなかったからだ。健康上の問題もあった。これでよく海外へ診療に出た。出先支局ではパパラッチを雇って彼の追跡をしたが、とうとうしっぽを出さなかった。雲隠れが得意なやつを、信用しろというのは無理だ。

 自民を飛び出したあと唱えた「2大政党論」は、論理としては矛盾している。選挙制度をいじる(小選挙区制)のは本末転倒なのだが、これが通ってしまう。しかし結果は、小党を作っては壊しの10年。描いていたのは、もうひとつの自民党を作ることだった。

 政治手法にしても、政治資金集めから選挙のやり方まで、自民党時代そのまま。新聞には「一致団結箱弁当」なんて懐かしい言葉も出てきた。自民党が箱弁当でなくなって20年になるというのに。

 小沢のイメージで忘れられないのが、湾岸戦争だ。イラクがクウェートに侵攻した90年夏、小沢が突然「現行憲法でも自衛隊の海外派遣は可能」といい出し、秋の国会に「PKO法案」を出す。寝耳に水だった。自民党内も野党も国民も、意見がまっぷたつになった。「そんな重大問題まで、選挙で付託した覚えはないぞ」と大論争になり、法案は結局廃案になった。

 実は、小沢がいい出す直前、駐日米大使のアマコストが小沢を訪ねて、自衛隊の派遣を打診していたのだった。これに、海部首相を差し置いてホイホイと応える幹事長とは何なのか。

 この1年間をみれば、彼の権力感覚が、20年経っても変わっていないことは明らかだ。鳩山政権の節目で起こったぎくしゃくの数々‥‥事業仕分け要員の引き上げ、政策調査会の廃止と幹事長への権限集中、高速道路整備の圧力、暫定税率廃止見送り、蔵相辞任も?‥‥大勢でゾロゾロと官邸へ押しかけたこともあった。

 小沢の行動基準はただひとつ、票になるかならないか。いってみれば、これで足を引っ張り続けていたのである。しかし、鳩山は文句もいわず、政治と金についてもみな沈黙した。泣く子と地頭には‥‥とはこのことだろう。だが、今回は正真正銘の首相を選ぶ選挙だ。そんな下世話な基準で選ばれては困る。

 しょせん小沢は政局の人であって、政策の人ではない。いさめる人は遠ざけるから、有能な人材は去っていくばかり。党内最大グループといっても、小沢チルドレンをのぞけば少数派、しかもろくなのがいない。要するに、人を育て組織を築きあげるリーダーの器ではないのだ。

 風を読む能力には長けているとされる。今回の読みは確かなのか。鳩山は、小沢支持を「大義だ」といった。自分が民主党に引き入れたからだと。そんな大昔のことで、現に動いている政権の明日を決めるのか。もし小沢が勝ったらどうなるか、百も承知だろうに。困った人たちである。  (文中敬称略)

2010年8月21日土曜日

懲りない男の懲りない笑顔



 まあ、長いこと見せたことのない笑顔で、小沢一郎が上機嫌だった。19日、鳩山前首相の軽井沢の別荘で開かれた懇親会だ。なにしろ、100人くらいとみられていた出席が160人だったから、小沢・鳩山支持派の大半が出たということ。代表選を左右できると、ほくそ笑んだか。

 これに舞い上がったか鳩山先生、「小沢一郎先生にわが家までお出ましいただき」とやったから、これにはびっくりした。「お出まし」というのは、皇族にしか使わない言葉ではなかったか? 小沢もとうとう天皇になったか。

 聞くところによると、小沢ははじめ出席を渋っていたらしい。そりゃそうだ。先の両院議員総会もそうだったが、どのツラ下げて、という状況は変わっちゃいない。それが、数が揃うと見たのだろう。この辺りの見切りはたいしたものである。

 符合するように、取り巻きの茶坊主どもからしきりに「小沢出馬」がいわれている。菅代表への圧力であると同時に、いちはやく「菅支持」を表明した鳩山への圧力でもある。小沢チルドレンの1人は懇親会のあと、「鳩山さんには、菅支持を取り消してもらいたい」と、まことにストレートだった。

 テレビ朝日の三反園訓は、「小沢さんが出る確立は3割」といっていた。「負けたら政治生命も終わるから、絶対に勝てる状況でないと出ない」というのだが、たとえ3割でも、その読みがあるというのは驚くべきことだ。

 これについて21日朝のテレビ番組で、渡部“黄門さま”がさらに驚くべきことをいった。小沢が急に出馬に動いているのは、検察に起訴されないため。首相になれば‥‥ということなのだと。

 “黄門さま”はまた、「多少悪いことをしていても、力のある人が‥‥という声があるのが悲しい」といっていた。これに、菅体制になれば干される小沢グループの思惑がからむ。とりあえずは、人事で小沢派を排除するな、だろうが、小沢本人が出てくるとなると、話は全く違ったものになる。

 もし小沢が代表になるようだったら、いまはまだ残っている民主党への支持そのものが瓦解するだろう。しかし、それよりも自分の起訴を逃れる方が重要というのか。そんな政治家は要らない。

 軽井沢の騒ぎを伝える朝日新聞のオピニオン面に、山田紳のマンガが出ていた。これには笑った。満身創痍の小沢親分が、菅とおぼしき子分にいさめられている図である。いまの状況にはこちらの方がぴったりだ。しかし、軽井沢の小沢親分は満面の笑みだった。

 この落差の可笑しさを、有権者はわかっている。野党だってわかってる。では民主党は? 少なくとも3割はわかってない?というのが、何ともかんとも。そしてメディアだ。わかっているはずなのに、相変わらず騒ぎを追い続けていて、“黄門さま”までが、「メディアのみなさん、どうして小沢党になっちゃったのかな」というほどなのだ。

 民主党の代表選は、首相を選ぶ選挙だ。これに満身創痍の小沢が出ることが、日本の政治にとって、国民生活にとってどうなのか。ああだこうだはいうのだが、もうあなたの時代じゃない、とまで踏み込むものはない。やっぱり、何割かは小沢がいいと思っている? そんな新聞要らねえよ。(文中敬称略)

2010年7月25日日曜日

政界の非常識は報道の常識?


 参院選で負けて、民主党内でいちばん元気になったのが小沢一郎だ。しばらく姿をくらましていたのは、検察審査会の動きかららしいが、出てきたと思ったら、自派の候補者(当落)に会ったり鳩山に会ったり、と大車輪だ。

 毎日・論説の与良正男がテレビで「(鳩山と)2人が元気になっちゃって、おかしいなとみなさん思いません? また、代表選の主導権を握るかどうかなんて、報道する方もする方だけど、変ですよ」といっていた。

 「あんたもメディアの人間だろう」といいたくなるが、確かにこのところメディアの小沢一郎の扱いは気になる。「お前の常識は世間の非常識」は相撲の世界だったが、政界では小沢にとどめを刺すだろう。

 なにしろ、政治と金の話(土地取引疑惑)では、「検察が不起訴で潔白を証明した」とうそぶいて恥じない。証拠不足の「嫌疑不十分」を「潔白」だと。8日に遊説先から自宅にも帰らずこつ然と消えたが、これが不思議。投票日まで2日を残してなぜ?

 あとでわかるのだが、この日東京第一検察審査会が「不起訴不当」と議決していた。発表は15日だったが、その日のうちにいち早く内容をつかんでいたとすれば、消えた理由にはなる。審査会の周辺に、手のものがいたのか? だとすれば、これはこれで問題だろう。

 「小沢遊説」なるものも実に不思議だった。党執行部の戦略とは無関係に、勝手に自派の候補者のところに現れては、菅首相の「消費税」を批判して歩いていた。テレビ・新聞はまた、その「批判部分」だけを流す。まともな有権者なら、これを聞いただけで民主党に投票する気をなくしただろう。

 そして、菅首相には会わない。首相がまた,「お詫びしてでも」なんて女々しいことをいうから、喜ぶのはメディアばかり。いやしくも、党の代表を袖にするというだけでも異常なのに、理屈にもならない小沢側の消息をそのまま書いて一向に恥じない。

 会わない理由は、むろん菅発言にある。代表選のあと「(小沢さんは)しばらく静かにしていただいた方がいい」といった、アレだ。ご丁寧に「ご本人のためにも、民主党のためにも、日本の政治のためにも」といったのは強烈だった。

 小沢のかつての盟友、渡部恒三“黄門さま”がテレビで、「菅君のあのスピーチは、これまで聞いた中で最高だった」といっていた。同時にまた「(小沢は)都合の悪い時は出てこないんだ」とも。いつものことだと。

 小沢にしてみれば、民主党も手段にすぎないのかもしれないが、まあ、だだっ子みたいなものである。にもかかわらず、メディアの筆は小沢に甘い。同じことを他のだれか、例えば鳩山、菅がやったら、馬に食わせるほど書きまくるだろう。報道の常識はどうなっているんだといいたくなる。

 まあ民主党自体が、小沢をまるで腫れ物に触るような扱いだから、仕方がないのかもしれない。しかし、メディアは小沢がどんな男か知り抜いているはず。いま小沢が視界からスッと消えたら、日本の政治がどんなにスッキリするかもわかっていよう。ところが、話は代表選がどうのこうの。小沢派は勢いづいているとメディアは大忙しだ。

 その代表選の日程自体が、もうひとつの小沢疑惑、東京第五検察審査会の日程に左右されているという不思議。この審査会は1回目に「起訴相当」としたから、9月といわれる2回目に同じ議決が出たら、小沢はたちまち被告席に座ることになるのだ。冒頭の与良ではないが、「変ですよ」といわざるをえない。

 小鳩が退陣したとき朝日新聞の調査で、鳩山退陣を「よかった」といったのは60%だったが、小沢退陣を「よかった」としたのは85%だった。「そんな政治家は要らない」という、これ以上ない意思表示である。

 小沢の行動を解くキーワードは「数」だ。論拠は、法案を一言一句変えずに、粛々と衆参両院を通すこと。だから、「ねじれ」は困る。数が足らなければ連立を、となる。日本の政治は長年これでやってきた。だから国会論議は退屈で、国民は無関心。国民の無関心は自民党に好都合だったのである。

 民主党の前回のマニフェストがバラマキ型だったのも、政権交代後に、小沢が出したいくつかの横やりも、全ては参院選で数を得るためだった。新人議員を集めて「君らの仕事は、次の選挙で当選することだ」とぶった。「そんな議員は要らない」というのが民意だったはず。小沢の頭の中は、自民党時代から何も変わっていない。

 だが、法案を修正するとなれば、話はがらりと変わる。民主党は、それにカジを切るようだ。また今回のねじれはそうせざるをえない状況にある。修正協議の中身が日々伝えられ、与野党が合意した法案が上程される。有権者が望んだのはそれだろう。

 民主主義は時間がかかって当たり前。即ち数の論理の終焉。小沢時代の終わりである。なのに、相変わらずテレビは無愛想な小沢を追い回す。いっぺん追いかけるのをやめてみたらどうだ。いつまでも「ねじれが」なんて寝ぼけてると、「お前の常識は‥‥」といわれちまうぞ。 (文中敬称略)

2010年7月15日木曜日

情報がなぜ化ける?


 どうも腑に落ちない。参院選での民主の敗因は、菅首相の「消費税10%」発言だという。現場は思いもかけぬ逆風にさらされ、その風をうまくつかんだ自民が1人区で圧勝し、みんなの党が漁夫の利を得た。それに違いはないだろうが、腑に落ちないのは、菅発言の伝わり方である。

 菅首相本人も言う通り、消費税への言及は「唐突」だった。参院選公示の第一声で、「財政再建の必要がある。超党派で税制論議を始めよう」と訴えた。それ自体は立派な見識だが、「自民党が消費税10%といっている。これは参考になる」と余計なことをいった。これが一人歩きを始める。

 野党は一斉に、「消費税10%」「4年間あげないというマニフェスト違反」と攻撃し始めた。政治家はこの程度の言い換えは日常茶飯事だが、メディアまでが「10%増税」と書き始める。首相はさらに、「論議を始めようというのはマニフェストと考えていい」といったために、「増税はマニフェスト」になる。

 「選挙後に論議を」というのが、「すぐにも増税」にすり替わり、おまけに党内論議抜きだったから、党執行部も候補者も立往生した。すると小沢前幹事長が、遊説先で勝手に「マニフェストにはずれてる」と首相批判を始めた。なんとも最悪、最低である。

 一般の有権者でも、テレビの街頭インタビューなどで見るかぎり、この辺りを正確に理解している人はけっこういた。にもかかわらず、メディアの伝え方が、「すぐにも増税」という印象を増幅させていくのには、開いた口がふさがらなかった。とくにテレビのワイドショーなどでは、話が単純化されて語られた。

 菅首相は、「増税前には民意を問う」といっているのだから、元々のマニフェストにははずれていない。ところが当の首相は、ストレートに訂正するのではなく、「低所得者には負担を軽く」などと言い訳めいたいい方をするものだから、もう増税は既定の事実になってしまった。実におかしな情報の伝わり方だった。

 ひとことでいえば、バッカじゃなかろか、である。首相もそうだし、それをきちんと修正できない民主党執行部も、平気で事実を曲げて攻撃材料にする野党も、もひとつマスコミも、みんなバカになったとしかいいようがない。これじゃ、ツイッター以上に危ないのは、人の口だということになる。

 菅首相の念頭にはおそらくサミットがあった。財政再建策がメーンテーマである。その場で、日本はこれこれをやる、という必要があった。財務相になってから、この問題では危機感をもっていた。だから公示の第一声でそれを口にし、その足でカナダへ飛んだ。

 しかし、党内でそんな意識をもってる人間はいなかった。むしろ自民党に、それはあった。先に「10%」とマニフェストでいっていた。首相には、これに対抗する気持ちもあったのだろう。

 事実、首相発言に石破・自民党政調会長がいった「抱きつきお化け」といういい方には、とりこまれることへの危機感が感じられた。しかし、「増税」で攻撃する方がはるかに有効だ。首相は墓穴を掘ったのである。

 幻の情報に影響された有権者がどれくらいいたかは、測りようがない。しかし、結果は現実だ。自民の大勝もみんなの党の躍進も、動かない現実である。

 朝のテレビでみのもんたが、「菅さんが、『自民は消費税をいうが、われわれはまずムダを省いて、国会議員自ら血を流して、それからですよ』と言ってたら、全然違ってたでしょうね」といっていた。コメント陣は一斉にうなずいていたが、どう違ったかは、これまた測りようがない。

 既存のメディア、とりわけ一般紙が選挙の報道に慎重なのは、情報が選挙結果を左右するからである。メディアは中立、これが日本の建前で、長年これでやってきた。ところが今回は、そもそもの基礎データが、数字のつまみ食いに走ってしまった。誤解を招くような情報を流して、それが広まっても平気なメディアとは、いったい何なのか。

 朝日新聞の座談会で古川貞二郎・元官房副長官が、「メディアは事柄の軽重にもっと洞察力をもつべきだ。‥‥何が本質なのか、メリハリをつけてほしい」といっていた。意味はわかるが、今回のはそれ以前の話だから気が滅入る。

 民主党が負けたのは、鳩山・小沢の迷走の方がはるかに大きいだろう。バレーボールの三屋裕子がうまいいい方をしていた。「ノーアウト満塁にしたのは誰なんだ。菅さん、枝野さんに自責点はあるのか?」と。菅投手はそこで、消費税という大暴投をやったのだが、さて自責点は?というわけである。

 民主党内には、「総括が必要だ」という声があがっているそうだが、本当に総括が必要なのはメディアの方であろう。鳩山・小沢が迷走していたとき、「事柄の軽重に洞察力」を欠き、「本質」を見誤ったのは間違いないのだから。

2010年7月4日日曜日

ネットのリテラシー


 参院選の選挙期間が半分過ぎたが、新聞・テレビの報道は、ワールドカップのせいもあってか、低調なように見える。討論会に党首が9人も並ぶなんて有様では、有権者の方も手がかりがつかみにくい。

 いまのところ、世論調査で「投票にいく(必ず、多分)」が9割近いというのだけが、変化を予感させる材料だ。去年の衆院選より面白いことになるかもしれない? ここにネットがどう関わってくるかに注目している。

 せっかく一部解禁の流れだったネットでの選挙運動が、小鳩退陣のあおりで法案審議が間に合わず、今回は見送りになった。といっても、公選法はあくまで選挙運動に関する規制だから、運動ではない勝手なブログの書き込みはまったく自由だし、ツイッターに至ってはアミのかけようもない。ネットの政治的発言は、けっこう盛んである。

 驚いたのは、菅首相誕生と同時に、首相を騙るツイッターがいくつも出現したことだった。本物だと思って、フォロワーが1万を超えたものもあったというから、はめられた人は腹も立とう。何百万人が善人でも、ワルは1人2人で効果を出せる。それがネット。

 例えば、「あの候補に投票するな」と書いたら、現行法でも選挙妨害になるかもしれないが、個人のつぶやきで「あいつは嫌いだ」「過去にこんなことをやったやつだ」と書くのは自由だ。内容が事実なら、どうにもならない。そこへまた、巧みにウソや思い込みを織り込まれたりしたら、完全にアウトである。

 「ニセ菅」にしても、投票日の前々日くらいに出現して、あることないこと書かれたら、どうなっただろう。当事者が発見して、警察に通報して、それからネット管理者をたどって‥‥なんてやってるうちに、投票日だ。たとえふん捕まえたとしても後の祭り。どんな影響が出るかは、神のみぞ知るだ。

 だいいち、これが罪になるのか、ならないのかすらよくわからない。ネットの世界は、法律のはるか先をゆく。現行の公選法は、候補者は放っておくと何をするかわからない、という性悪説の上に、あれもいかんこれもいかんと、がんじがらめにした「べからず集」である。

 だから、「選挙のアルバイトに報酬を払ってはいけない」なんていうバカな条項が残っている。最近の選挙で摘発される違反の大部分がこれである。いまどき、無報酬で選挙の手伝いがいるはずがない。みんな払っているのに、不慣れな陣営が証拠を残したりすると、パクリとやられる。

 こんな時代遅れの公選法が、ネットに対応しきれるわけがない。ブログやツイッターの「勝手連」とか「まつり」みたいなこと、逆に貶めるものもが現れてもおかしくはない。とりあえずは、悪意のあるデマ、中傷の類いをすばやく追跡するような手だてを講ずるしかあるまい。しかし、おそらく警察ができるのはそこまでだ。

 ネットの対応は、ネット人がやるしかないのだろう。「ネットのリテラシー」とでもいったらいいか。ウソとホントを見分ける目である。携帯も含めて、ネットに慣れている若い人たちは、相当な目をもっているようだが、危ないのは私のような世代だ。ネットでも活字を見るとまずは信用してしまう。

 面白いもので、純然たる意見を除けば、ネットを流れている情報のほとんどは正確、あるいはバランスされている。ニュースサイトでもチャットでも、内容がおかしいとたちまち突っ込みが入るから、絶えず修正・訂正されていく。結果として、正しい情報がネット上に残る。既存のメディアでは逆立ちしてもできない柔軟性だ。

 ネット百科のウイキペディアがいい例で、論争になるテーマでも、いろんな人が書き込み、訂正していくと、自ずと落ち着くところへ落ち着く、あるいは異論が併記されていく。これはある意味、驚くべきネットの機能である。ただ、スピードのあるネット情報がどう展開するか、これがわからない。

 ひところしきりに、「情報格差」ということがいわれた。ネットを知る、知らないで大きな格差ができるというのだ。それはその通りだろう。

 しかし、ネットを知らない人たちが大いに不利益を被っているかといえば、そんなことはない。ネットで知りうることの大部分は、知らなくてもどうってことないもの。どうしても知ってないといけないものは、少し遅れて普通のメディアに必ず出てくるものである。

 選挙という短い時間の中で起こりうる格差、それに、悪意が重なったらどうなるかだ。ツイッターが暴走したときに、「リテラシー」が働くかどうか。答えはまだ誰も知らない。杞憂であればいい。が、杞憂で終わったら逆に、日本人は何と平和なと、首を傾げるべきかもしれない。

 朝日新聞に気になる記事が出ていた。ネット人への調査で、若い世代ほど他人を信じやすくなっているという。数字の上では、歳をとると見事に疑り深い。ふと、「これは日本だけの現象ではないのか?」と心配になった。

2010年6月5日土曜日

iPadは老人に福音か?


 別にマックのユーザーだからというわけではないが、iPhoneとiPadには気が動く。ひとつは、指一本、画面上での操作性だ。マウスでアイコンを突っつくのはもともとマックのお家芸だが、そのマウスもいらない。モバイルだから、面倒な配線もいらない。

 しばらく前、友人がアメリカで初めてiPadに触ってみたときの印象を、「今後のコンピュータと人間の接点を定義するものになるような気がする」とブログに書いていたのが、ずっと頭に残っている。

 iPhoneを見せてもらったことがあるので、およその見当はつく。あるとき、カメラ仲間でお茶を飲んでいた。1人が黙ってiPhoneをにらんでいたと思ったら、「レンズを手に入れました」という。ネットオークションで札をいれていたのだった。

 「エーッ、それじゃパソコンじゃないか」「そうです」

 以来、アップルストアへ行っては、「iPhoneにキーボードをつけろ」などと店員を困らせていたのだが、それが形になったのがiPadというわけだ(書籍端末というのが予想外だったが)。パソコンとの接し方が変わる? 年寄りにやさしい? という予感である。

 しばらく前、元通産官僚の岸博幸・慶大教授が、朝日新聞のインタビューで「米国発のネット帝国主義を許すな」と危機感を訴えていた。彼は、官僚時代はIT化推進の急先鋒だった、と自ら認める。それがいまや、グーグルだクラウドだと、政府機能まで左右されかねないと。なんだ、今頃気がついたのか。

 その彼も、もうひとつの失敗には気がついていないようだった。マイクロソフトの支配に手を貸したことである。OSももちろんだが、ナビゲーターのInternet Explorerが、政府機関から全国の自治体、学校にいたるまで行き渡っている。ひところ官民をあげて、商売人にすぎないビル・ゲイツを、あたかも先駆者みたいにありがたがった結果だ。

 その一方で、日本製の優れたOS「トロン」を通産省は無視した。日本の産業育成を司る役所として失格である。もし役所だけでもトロンにしていれば、少なくともサイバー攻撃やウイルスの被害を被ることはなかったろう。まあ、トロンはパソコン以外の分野では大いに使われているというが‥‥。

 先頃、フランスとドイツは、政府がInternet Explorerを使わないと宣言したそうだ。不具合が政府の業務の支障になるということらしい。が、日本のお役所はまだ、それに気づいてもいないようだ。他のソフトを知らなければ、そういうものだと思ってしまう。むろん、OSにしてもしかり。

 GMがおかしくなったとき、友人が面白いやりとりを見せてくれた。
 ビル・ゲイツが「コンピューター業界のような競争にさらされていたら、車は25ドルになっていて、燃費はガロン1000マイルになっていただろう」とうそぶいたのだそうだ。これに対してGMが「マイクロソフトの技術があったらこんな車になる」と反論したものだった。これには笑った。

 少し長くなるが、いくつかを抜き出してみると‥‥
 1.特に理由がなくても,2日に1回はクラッシュする。
 2.道路のラインが引き直されるたびに新しい車を買わなくてはならない。
 3.車に乗れるのは,1台に1人だけ。座席は人数分買う必要がある。
 4.エアバッグ動作には「本当に動作して良いか?」という確認がある。
 5.運転操作は,ニューモデル毎に覚え直す。以前の車とは共通性がないから。
 6.エンジンを止めるときは「スタート」ボタンを押す‥‥などなど。
 みんな覚えがあるから、これに書き込みが延々と続いた。ウインドウズの使いにくさとMSの傲岸不遜を皮肉ったらきりがない。

 そもそもソフトで金をとるなんて発想は、草創期の混乱の中だから通用したものだろう。どさくさで大もうけしたビル・ゲイツの商才はたいしたものだが、ソフトの使い勝手を改良しているだけでは、iPod、iPhone、iPadといった発想は生まれてこない。

 シェアを10%に落としながら、頑固にハードとソフトをひとつのものとして抱え込んできたアップルだからこそ、できたのだろう。意地なのか哲学なのか。面白いものである。

 で、いざiPadを手にすれば、もうOSやナビゲーターが何であるか、なんて考える必要もない。用途に応じたソフトだって、よっぽど特殊なものは別として、どんどん無料でダウンロードできるようになるだろう。

 iPadを発売初日に手にした人の感想に、「文字入力はパソコンの方が上」というのがあった。平らな画面上の仮想キーボードは、確かに使いにくそうだ。アップルもわかっていて別売のキーボードがあるらしい。

 うん、それなら当方の望むものに近くなるか? いやいや、そうでもない。老人にゲームはいらない。余命が少ないのにそんなヒマはない。余分なナビも要らない。耳が聞こえないんだから、音楽も要らない。もっとシンプルな端末がほしい。

 友人にそういったら、「使わないもソフトは捨てればいい」といわれてしまった。なるほど、そりゃそうだ。前出の別の友人はすでにiPadを手にしたというから、そのうち感想を聞かせてくれるだろう。それをまた、老人風に翻訳しないといけない。難儀なことだがちょっと楽しみである。