2010年7月25日日曜日

政界の非常識は報道の常識?


 参院選で負けて、民主党内でいちばん元気になったのが小沢一郎だ。しばらく姿をくらましていたのは、検察審査会の動きかららしいが、出てきたと思ったら、自派の候補者(当落)に会ったり鳩山に会ったり、と大車輪だ。

 毎日・論説の与良正男がテレビで「(鳩山と)2人が元気になっちゃって、おかしいなとみなさん思いません? また、代表選の主導権を握るかどうかなんて、報道する方もする方だけど、変ですよ」といっていた。

 「あんたもメディアの人間だろう」といいたくなるが、確かにこのところメディアの小沢一郎の扱いは気になる。「お前の常識は世間の非常識」は相撲の世界だったが、政界では小沢にとどめを刺すだろう。

 なにしろ、政治と金の話(土地取引疑惑)では、「検察が不起訴で潔白を証明した」とうそぶいて恥じない。証拠不足の「嫌疑不十分」を「潔白」だと。8日に遊説先から自宅にも帰らずこつ然と消えたが、これが不思議。投票日まで2日を残してなぜ?

 あとでわかるのだが、この日東京第一検察審査会が「不起訴不当」と議決していた。発表は15日だったが、その日のうちにいち早く内容をつかんでいたとすれば、消えた理由にはなる。審査会の周辺に、手のものがいたのか? だとすれば、これはこれで問題だろう。

 「小沢遊説」なるものも実に不思議だった。党執行部の戦略とは無関係に、勝手に自派の候補者のところに現れては、菅首相の「消費税」を批判して歩いていた。テレビ・新聞はまた、その「批判部分」だけを流す。まともな有権者なら、これを聞いただけで民主党に投票する気をなくしただろう。

 そして、菅首相には会わない。首相がまた,「お詫びしてでも」なんて女々しいことをいうから、喜ぶのはメディアばかり。いやしくも、党の代表を袖にするというだけでも異常なのに、理屈にもならない小沢側の消息をそのまま書いて一向に恥じない。

 会わない理由は、むろん菅発言にある。代表選のあと「(小沢さんは)しばらく静かにしていただいた方がいい」といった、アレだ。ご丁寧に「ご本人のためにも、民主党のためにも、日本の政治のためにも」といったのは強烈だった。

 小沢のかつての盟友、渡部恒三“黄門さま”がテレビで、「菅君のあのスピーチは、これまで聞いた中で最高だった」といっていた。同時にまた「(小沢は)都合の悪い時は出てこないんだ」とも。いつものことだと。

 小沢にしてみれば、民主党も手段にすぎないのかもしれないが、まあ、だだっ子みたいなものである。にもかかわらず、メディアの筆は小沢に甘い。同じことを他のだれか、例えば鳩山、菅がやったら、馬に食わせるほど書きまくるだろう。報道の常識はどうなっているんだといいたくなる。

 まあ民主党自体が、小沢をまるで腫れ物に触るような扱いだから、仕方がないのかもしれない。しかし、メディアは小沢がどんな男か知り抜いているはず。いま小沢が視界からスッと消えたら、日本の政治がどんなにスッキリするかもわかっていよう。ところが、話は代表選がどうのこうの。小沢派は勢いづいているとメディアは大忙しだ。

 その代表選の日程自体が、もうひとつの小沢疑惑、東京第五検察審査会の日程に左右されているという不思議。この審査会は1回目に「起訴相当」としたから、9月といわれる2回目に同じ議決が出たら、小沢はたちまち被告席に座ることになるのだ。冒頭の与良ではないが、「変ですよ」といわざるをえない。

 小鳩が退陣したとき朝日新聞の調査で、鳩山退陣を「よかった」といったのは60%だったが、小沢退陣を「よかった」としたのは85%だった。「そんな政治家は要らない」という、これ以上ない意思表示である。

 小沢の行動を解くキーワードは「数」だ。論拠は、法案を一言一句変えずに、粛々と衆参両院を通すこと。だから、「ねじれ」は困る。数が足らなければ連立を、となる。日本の政治は長年これでやってきた。だから国会論議は退屈で、国民は無関心。国民の無関心は自民党に好都合だったのである。

 民主党の前回のマニフェストがバラマキ型だったのも、政権交代後に、小沢が出したいくつかの横やりも、全ては参院選で数を得るためだった。新人議員を集めて「君らの仕事は、次の選挙で当選することだ」とぶった。「そんな議員は要らない」というのが民意だったはず。小沢の頭の中は、自民党時代から何も変わっていない。

 だが、法案を修正するとなれば、話はがらりと変わる。民主党は、それにカジを切るようだ。また今回のねじれはそうせざるをえない状況にある。修正協議の中身が日々伝えられ、与野党が合意した法案が上程される。有権者が望んだのはそれだろう。

 民主主義は時間がかかって当たり前。即ち数の論理の終焉。小沢時代の終わりである。なのに、相変わらずテレビは無愛想な小沢を追い回す。いっぺん追いかけるのをやめてみたらどうだ。いつまでも「ねじれが」なんて寝ぼけてると、「お前の常識は‥‥」といわれちまうぞ。 (文中敬称略)

2010年7月15日木曜日

情報がなぜ化ける?


 どうも腑に落ちない。参院選での民主の敗因は、菅首相の「消費税10%」発言だという。現場は思いもかけぬ逆風にさらされ、その風をうまくつかんだ自民が1人区で圧勝し、みんなの党が漁夫の利を得た。それに違いはないだろうが、腑に落ちないのは、菅発言の伝わり方である。

 菅首相本人も言う通り、消費税への言及は「唐突」だった。参院選公示の第一声で、「財政再建の必要がある。超党派で税制論議を始めよう」と訴えた。それ自体は立派な見識だが、「自民党が消費税10%といっている。これは参考になる」と余計なことをいった。これが一人歩きを始める。

 野党は一斉に、「消費税10%」「4年間あげないというマニフェスト違反」と攻撃し始めた。政治家はこの程度の言い換えは日常茶飯事だが、メディアまでが「10%増税」と書き始める。首相はさらに、「論議を始めようというのはマニフェストと考えていい」といったために、「増税はマニフェスト」になる。

 「選挙後に論議を」というのが、「すぐにも増税」にすり替わり、おまけに党内論議抜きだったから、党執行部も候補者も立往生した。すると小沢前幹事長が、遊説先で勝手に「マニフェストにはずれてる」と首相批判を始めた。なんとも最悪、最低である。

 一般の有権者でも、テレビの街頭インタビューなどで見るかぎり、この辺りを正確に理解している人はけっこういた。にもかかわらず、メディアの伝え方が、「すぐにも増税」という印象を増幅させていくのには、開いた口がふさがらなかった。とくにテレビのワイドショーなどでは、話が単純化されて語られた。

 菅首相は、「増税前には民意を問う」といっているのだから、元々のマニフェストにははずれていない。ところが当の首相は、ストレートに訂正するのではなく、「低所得者には負担を軽く」などと言い訳めいたいい方をするものだから、もう増税は既定の事実になってしまった。実におかしな情報の伝わり方だった。

 ひとことでいえば、バッカじゃなかろか、である。首相もそうだし、それをきちんと修正できない民主党執行部も、平気で事実を曲げて攻撃材料にする野党も、もひとつマスコミも、みんなバカになったとしかいいようがない。これじゃ、ツイッター以上に危ないのは、人の口だということになる。

 菅首相の念頭にはおそらくサミットがあった。財政再建策がメーンテーマである。その場で、日本はこれこれをやる、という必要があった。財務相になってから、この問題では危機感をもっていた。だから公示の第一声でそれを口にし、その足でカナダへ飛んだ。

 しかし、党内でそんな意識をもってる人間はいなかった。むしろ自民党に、それはあった。先に「10%」とマニフェストでいっていた。首相には、これに対抗する気持ちもあったのだろう。

 事実、首相発言に石破・自民党政調会長がいった「抱きつきお化け」といういい方には、とりこまれることへの危機感が感じられた。しかし、「増税」で攻撃する方がはるかに有効だ。首相は墓穴を掘ったのである。

 幻の情報に影響された有権者がどれくらいいたかは、測りようがない。しかし、結果は現実だ。自民の大勝もみんなの党の躍進も、動かない現実である。

 朝のテレビでみのもんたが、「菅さんが、『自民は消費税をいうが、われわれはまずムダを省いて、国会議員自ら血を流して、それからですよ』と言ってたら、全然違ってたでしょうね」といっていた。コメント陣は一斉にうなずいていたが、どう違ったかは、これまた測りようがない。

 既存のメディア、とりわけ一般紙が選挙の報道に慎重なのは、情報が選挙結果を左右するからである。メディアは中立、これが日本の建前で、長年これでやってきた。ところが今回は、そもそもの基礎データが、数字のつまみ食いに走ってしまった。誤解を招くような情報を流して、それが広まっても平気なメディアとは、いったい何なのか。

 朝日新聞の座談会で古川貞二郎・元官房副長官が、「メディアは事柄の軽重にもっと洞察力をもつべきだ。‥‥何が本質なのか、メリハリをつけてほしい」といっていた。意味はわかるが、今回のはそれ以前の話だから気が滅入る。

 民主党が負けたのは、鳩山・小沢の迷走の方がはるかに大きいだろう。バレーボールの三屋裕子がうまいいい方をしていた。「ノーアウト満塁にしたのは誰なんだ。菅さん、枝野さんに自責点はあるのか?」と。菅投手はそこで、消費税という大暴投をやったのだが、さて自責点は?というわけである。

 民主党内には、「総括が必要だ」という声があがっているそうだが、本当に総括が必要なのはメディアの方であろう。鳩山・小沢が迷走していたとき、「事柄の軽重に洞察力」を欠き、「本質」を見誤ったのは間違いないのだから。

2010年7月4日日曜日

ネットのリテラシー


 参院選の選挙期間が半分過ぎたが、新聞・テレビの報道は、ワールドカップのせいもあってか、低調なように見える。討論会に党首が9人も並ぶなんて有様では、有権者の方も手がかりがつかみにくい。

 いまのところ、世論調査で「投票にいく(必ず、多分)」が9割近いというのだけが、変化を予感させる材料だ。去年の衆院選より面白いことになるかもしれない? ここにネットがどう関わってくるかに注目している。

 せっかく一部解禁の流れだったネットでの選挙運動が、小鳩退陣のあおりで法案審議が間に合わず、今回は見送りになった。といっても、公選法はあくまで選挙運動に関する規制だから、運動ではない勝手なブログの書き込みはまったく自由だし、ツイッターに至ってはアミのかけようもない。ネットの政治的発言は、けっこう盛んである。

 驚いたのは、菅首相誕生と同時に、首相を騙るツイッターがいくつも出現したことだった。本物だと思って、フォロワーが1万を超えたものもあったというから、はめられた人は腹も立とう。何百万人が善人でも、ワルは1人2人で効果を出せる。それがネット。

 例えば、「あの候補に投票するな」と書いたら、現行法でも選挙妨害になるかもしれないが、個人のつぶやきで「あいつは嫌いだ」「過去にこんなことをやったやつだ」と書くのは自由だ。内容が事実なら、どうにもならない。そこへまた、巧みにウソや思い込みを織り込まれたりしたら、完全にアウトである。

 「ニセ菅」にしても、投票日の前々日くらいに出現して、あることないこと書かれたら、どうなっただろう。当事者が発見して、警察に通報して、それからネット管理者をたどって‥‥なんてやってるうちに、投票日だ。たとえふん捕まえたとしても後の祭り。どんな影響が出るかは、神のみぞ知るだ。

 だいいち、これが罪になるのか、ならないのかすらよくわからない。ネットの世界は、法律のはるか先をゆく。現行の公選法は、候補者は放っておくと何をするかわからない、という性悪説の上に、あれもいかんこれもいかんと、がんじがらめにした「べからず集」である。

 だから、「選挙のアルバイトに報酬を払ってはいけない」なんていうバカな条項が残っている。最近の選挙で摘発される違反の大部分がこれである。いまどき、無報酬で選挙の手伝いがいるはずがない。みんな払っているのに、不慣れな陣営が証拠を残したりすると、パクリとやられる。

 こんな時代遅れの公選法が、ネットに対応しきれるわけがない。ブログやツイッターの「勝手連」とか「まつり」みたいなこと、逆に貶めるものもが現れてもおかしくはない。とりあえずは、悪意のあるデマ、中傷の類いをすばやく追跡するような手だてを講ずるしかあるまい。しかし、おそらく警察ができるのはそこまでだ。

 ネットの対応は、ネット人がやるしかないのだろう。「ネットのリテラシー」とでもいったらいいか。ウソとホントを見分ける目である。携帯も含めて、ネットに慣れている若い人たちは、相当な目をもっているようだが、危ないのは私のような世代だ。ネットでも活字を見るとまずは信用してしまう。

 面白いもので、純然たる意見を除けば、ネットを流れている情報のほとんどは正確、あるいはバランスされている。ニュースサイトでもチャットでも、内容がおかしいとたちまち突っ込みが入るから、絶えず修正・訂正されていく。結果として、正しい情報がネット上に残る。既存のメディアでは逆立ちしてもできない柔軟性だ。

 ネット百科のウイキペディアがいい例で、論争になるテーマでも、いろんな人が書き込み、訂正していくと、自ずと落ち着くところへ落ち着く、あるいは異論が併記されていく。これはある意味、驚くべきネットの機能である。ただ、スピードのあるネット情報がどう展開するか、これがわからない。

 ひところしきりに、「情報格差」ということがいわれた。ネットを知る、知らないで大きな格差ができるというのだ。それはその通りだろう。

 しかし、ネットを知らない人たちが大いに不利益を被っているかといえば、そんなことはない。ネットで知りうることの大部分は、知らなくてもどうってことないもの。どうしても知ってないといけないものは、少し遅れて普通のメディアに必ず出てくるものである。

 選挙という短い時間の中で起こりうる格差、それに、悪意が重なったらどうなるかだ。ツイッターが暴走したときに、「リテラシー」が働くかどうか。答えはまだ誰も知らない。杞憂であればいい。が、杞憂で終わったら逆に、日本人は何と平和なと、首を傾げるべきかもしれない。

 朝日新聞に気になる記事が出ていた。ネット人への調査で、若い世代ほど他人を信じやすくなっているという。数字の上では、歳をとると見事に疑り深い。ふと、「これは日本だけの現象ではないのか?」と心配になった。

2010年6月5日土曜日

iPadは老人に福音か?


 別にマックのユーザーだからというわけではないが、iPhoneとiPadには気が動く。ひとつは、指一本、画面上での操作性だ。マウスでアイコンを突っつくのはもともとマックのお家芸だが、そのマウスもいらない。モバイルだから、面倒な配線もいらない。

 しばらく前、友人がアメリカで初めてiPadに触ってみたときの印象を、「今後のコンピュータと人間の接点を定義するものになるような気がする」とブログに書いていたのが、ずっと頭に残っている。

 iPhoneを見せてもらったことがあるので、およその見当はつく。あるとき、カメラ仲間でお茶を飲んでいた。1人が黙ってiPhoneをにらんでいたと思ったら、「レンズを手に入れました」という。ネットオークションで札をいれていたのだった。

 「エーッ、それじゃパソコンじゃないか」「そうです」

 以来、アップルストアへ行っては、「iPhoneにキーボードをつけろ」などと店員を困らせていたのだが、それが形になったのがiPadというわけだ(書籍端末というのが予想外だったが)。パソコンとの接し方が変わる? 年寄りにやさしい? という予感である。

 しばらく前、元通産官僚の岸博幸・慶大教授が、朝日新聞のインタビューで「米国発のネット帝国主義を許すな」と危機感を訴えていた。彼は、官僚時代はIT化推進の急先鋒だった、と自ら認める。それがいまや、グーグルだクラウドだと、政府機能まで左右されかねないと。なんだ、今頃気がついたのか。

 その彼も、もうひとつの失敗には気がついていないようだった。マイクロソフトの支配に手を貸したことである。OSももちろんだが、ナビゲーターのInternet Explorerが、政府機関から全国の自治体、学校にいたるまで行き渡っている。ひところ官民をあげて、商売人にすぎないビル・ゲイツを、あたかも先駆者みたいにありがたがった結果だ。

 その一方で、日本製の優れたOS「トロン」を通産省は無視した。日本の産業育成を司る役所として失格である。もし役所だけでもトロンにしていれば、少なくともサイバー攻撃やウイルスの被害を被ることはなかったろう。まあ、トロンはパソコン以外の分野では大いに使われているというが‥‥。

 先頃、フランスとドイツは、政府がInternet Explorerを使わないと宣言したそうだ。不具合が政府の業務の支障になるということらしい。が、日本のお役所はまだ、それに気づいてもいないようだ。他のソフトを知らなければ、そういうものだと思ってしまう。むろん、OSにしてもしかり。

 GMがおかしくなったとき、友人が面白いやりとりを見せてくれた。
 ビル・ゲイツが「コンピューター業界のような競争にさらされていたら、車は25ドルになっていて、燃費はガロン1000マイルになっていただろう」とうそぶいたのだそうだ。これに対してGMが「マイクロソフトの技術があったらこんな車になる」と反論したものだった。これには笑った。

 少し長くなるが、いくつかを抜き出してみると‥‥
 1.特に理由がなくても,2日に1回はクラッシュする。
 2.道路のラインが引き直されるたびに新しい車を買わなくてはならない。
 3.車に乗れるのは,1台に1人だけ。座席は人数分買う必要がある。
 4.エアバッグ動作には「本当に動作して良いか?」という確認がある。
 5.運転操作は,ニューモデル毎に覚え直す。以前の車とは共通性がないから。
 6.エンジンを止めるときは「スタート」ボタンを押す‥‥などなど。
 みんな覚えがあるから、これに書き込みが延々と続いた。ウインドウズの使いにくさとMSの傲岸不遜を皮肉ったらきりがない。

 そもそもソフトで金をとるなんて発想は、草創期の混乱の中だから通用したものだろう。どさくさで大もうけしたビル・ゲイツの商才はたいしたものだが、ソフトの使い勝手を改良しているだけでは、iPod、iPhone、iPadといった発想は生まれてこない。

 シェアを10%に落としながら、頑固にハードとソフトをひとつのものとして抱え込んできたアップルだからこそ、できたのだろう。意地なのか哲学なのか。面白いものである。

 で、いざiPadを手にすれば、もうOSやナビゲーターが何であるか、なんて考える必要もない。用途に応じたソフトだって、よっぽど特殊なものは別として、どんどん無料でダウンロードできるようになるだろう。

 iPadを発売初日に手にした人の感想に、「文字入力はパソコンの方が上」というのがあった。平らな画面上の仮想キーボードは、確かに使いにくそうだ。アップルもわかっていて別売のキーボードがあるらしい。

 うん、それなら当方の望むものに近くなるか? いやいや、そうでもない。老人にゲームはいらない。余命が少ないのにそんなヒマはない。余分なナビも要らない。耳が聞こえないんだから、音楽も要らない。もっとシンプルな端末がほしい。

 友人にそういったら、「使わないもソフトは捨てればいい」といわれてしまった。なるほど、そりゃそうだ。前出の別の友人はすでにiPadを手にしたというから、そのうち感想を聞かせてくれるだろう。それをまた、老人風に翻訳しないといけない。難儀なことだがちょっと楽しみである。

2010年5月14日金曜日

ツイッターがわからねぇ



 メールは普通に使っている。mixiにも参加して、ブツブツいったり、写真を載せたり、ついにはブログとやらにも手を染めることになった。必要から You Tubeにも関わった‥‥まあ、年寄りとしては精一杯やってるつもりなのだが、最近しきりに出てくる「ツィッター」というヤツ。これがよくわからない。

 英語の「さえずり」という意味なのだそうだ。「いま何をしてるんだ」「こんなことがあったよ」といった個人のつぶやき。そんな、どこの何者かもわからない人間のさえずりに目を通すなんて、それでなくても老い先短い身には時間は貴重なのだ‥‥まずはこれだった。

 ところが現実は大いに違うらしい。短いつぶやきに、実に多くの人が目を通していて、反応する。それがまた、次々に伝搬していって、しばしば「こちらの世界」の動きになっているのだと。「世の中、そんなにヒマ人が多いのか」というのは、どうやら「置いてかれた世代」のたわごとであるらしい。

 鳩山首相がツィッターを始めた、と聞いて、「何をまた、お調子者が」と思ったものだが、その書き込みを読んでいる人間(フォロワーというのだそうだ)が60万人と聞くと、あらためてただ事でないと思ってしまう。そんなメディア、いままでなかった。

 例の事業仕分けで、You Tubeの画像と一緒にナマ中継したのがいる。むろんツィッターの方は細切れだろうが、全ては生データだから、重ね書き全体を見れば立派な「記録」プラス「世論調査」である。また、政府の審議会かなにかで、刻々と書き続けた例もある。これは、会議が終わったとたんに、非公式議事録になってだれでも読める。

 とにかくリアルタイムで双方向、伝搬のスピード‥‥どれをとっても、既存のメディアでは、逆立ちしてもできないことだ。これがいまや、政治家、自治体、地域の商店街から吉本興業の芸人たちにまで及ぶらしい。新聞までが始めていて、ツィッターの試行の結果を紙面に載せたりもするという。いったいどうなってるんだ。

 ツィッターは「140文字以内」という制限がある。これがいいという。たしかにネットでは、800字を超えると「長い」という感じになると聞いたことがある。にしても、140字では短かすぎないか? いや、だから気軽に書き込めるんだという。話が煮詰まれば、短くても中身の濃いやり取りは可能だと。なるほど。

 もうひとつは「バケツリレー」だという。「こういうことがあったよ」「だれかがこんなことをいってる」と、情報を右から左へ転送、あるいは引用する。すると、とんでもないところで、ひっかかりが出てくるというのだ。

 衛星テレビが蓮舫議員の声をとりたいと思ったが。秘書と連絡がとれない。そこでツィッターに書き込んだ。するとフォロワーからフォロワーを経て 2時間後に、九州かどこかにいた当人から連絡が入ったそうだ。従来は、探しまくるしかなかった。それが、ツイッターに書きっぱなしで、他の仕事をしていられる。考えられないことだ。

 この右から左というのは、ブログにもあるらしい。それを聞いた時むしろ「何のためにそんなことを?」「だれが読むんだ?」といぶかったものだ。これがツィッターだと、そういうメディアなのだという受け止めにはなる。ただ、なんとなく腑に落ちない。

 南海キャンディーズの山ちゃんこと山里亮太が、レギュラーの番組を休んだとき、放送を観ながらツィッターで突っ込みを入れた、という話があった。メディアの新たな使い方として注目されたというのだが、いったいだれが、テレビを観ながらツィッターを読むんだ? アブナイもいいところ‥‥。

 それ以上に、危うさに慄然とした。お笑いの突っ込みなら毒にも薬にもならないが、これがネガティブな、あるいは悪意のあるニセ情報だったらどうなるか。ウソでも大勢がくり返し叫んだら本当になりかねない。

 今度の参院選では、ネットでの選挙運動が認められるという。が、ブログとHPの書き換えができるだけで、ツイッターはだめだという。まあその方が無難だろう。しかし、個人のつぶやきは選挙運動ではないのだから、もともと規制のしようがない。

 勝手連にもなるだろうし、アンチにもなりうる。もし投票の1日、2日前に妙な「つぶやき」が流れたら‥‥それが本物かどうかの判断もできず修正も追いつかないまま投票になっても、結果は動かせない現実のものになる。これはおそろしい。

 現に、昨年の衆院選で民主党のサイトに無関係な書き込みが集中してサバーがダウンしたそうだ。ある種の「意図」が感じられる。まだツィッターは使われなかったが、ツィッターならもっと大きな力を発揮するだろう。

 全国の選挙区・比例区で、これが起こったらと思うとぞっとする。影響を推し量ることすらできない。たとえ事前の世論調査と投票結果とが大きくズレても、検証すらできまい。

 先頃、福岡の複数の高校が「ツィッター禁止の校則をつくった」という偽情報がツィッターを駆け巡った。メディアが問い合わせて、1日で「ニセ」とわかったが、これが問い合わせできない類いの情報だったらどうなる?

 次の参院選が、「悪しきツイッター元年」として歴史に残らないよう祈るしかない。ツイッターはまだまだ要注意だ。

2010年4月22日木曜日

また集団ヒステリー



 だれもおかしいと思わないんだろうか? 子どものライター遊びによる火災が増えているというので、ライターにストッパーをつけろとか、なんだかんだ‥‥。またいつものヒステリーが始まった。

 たしかにこのところ、子どもがライターで遊んでいたためと見られる火災が続く。アパートで子どもと父親が死んだり、車の中で子ども4人が‥‥とか、悲惨な話だ。これを伝える新聞、テレビの記事は、どれも同じ組み立てである。

 まず東京消防庁のデータで、過去10年間に12歳以下の火遊びによる火災が700件、うちライターによるものが500件。ライターに限ると、5 歳未満の死傷者発生率は79.6%。住宅火災の死者のうち、出火者の年齢では、3歳が飛び抜けて多く、次いで2歳、4歳、5歳だと。

 ライターの販売数は年間約6億個だが、安全基準はない。そこでまた、アメリカだ。1994年に安全基準を設けて、レバーを重くしたり、ストッパーやロック機構をつけたりしたら、ライターが原因の死亡事故(5歳以下)が4分の1以下に減ったと(当たり前だ)。だから、ライターを何とかしないといけないと。

 哀れライターの業界団体、日本喫煙具協会は、ひたすら「やれることから1日も早くやる」と答えるばかりだった。経産省も5月には安全基準を出すという。これでおさまりのいい記事が、一丁あがりである。

 だが、ちょっと待ってもらいたい。ことの大前提がおかしくはないか。ライターは昔からある。子どもだっていつもいるものだ。何も変わっちゃいない。そもそも最近増えているというのは本当か?

 上の数字は、よく見ると実は何もわからない数字なのだ。火をつけた子どもの死亡率が高いのは、当たり前だろう。このところ連続したのを、増えていると勘違いしてはいないか。数字で、ことをあおってはいないか。

 またもし増えているとしたら、何が変わったのか。タバコを吸う人が減った。子どもの数も少し減った。これは間違いない。あと考えられるのは、子どもがバカになったか? それはなかろう。では親がバカになったか。うん、これはありうる?

 その昔はマッチだった。子どもにはマッチのほうがずっと面白い。親もそれはわかっていたから、十分注意深かったはずだ。火は本来危険なもの、恐ろしいものだが、その火をちゃんと使えるからこそ人間なのであって、ぼんくらでも火事を起こさないライターを、なんてのは話が逆だろう。

 いま起こっていることは、集団ヒステリーの典型のように見える。その結果かわいそうに、メーカーが余分なコストアップを強いられる。いまわが家にあるライターは、ほとんどが景品の中国製だが、中国のメーカーを泣かせればいいとでも思っているのだろうか?

 わたしは18、9からタバコを吸っているから、布団を焦がしたり、畳や絨毯、スボンの焼けこげはしょっちゅうだ。親の代から家中にライターが転がっている家だった。2人の子どもは3歳だったことも、2歳も4歳も5歳のときもあった。しかし、家の中で火をつけたことはない。

 火は危ないもの、お湯は熱いもの、これは体感させるからわかる。ちょっとやけどしそうになったり、「アッチッチ」の実感が必要なのだ。知らずに育てば、火を怖いと思わない人間ができるだろう。

 雨や雪でもスリップしない車を作るのはけっこうだが、車とはそういうものだと思う世代が、やがて出てくる。絶対ぶつからない車ができれば、よそ見をしながら運転するヤツが出てくるだろう。人間とはそういうものではないのか。

 安全といえば聞こえはいいが、いってみれば「便利」の話である。便利のためにコストの高いものを作るのが本当にいいのだろうか。ましてそれが「規制」になってしまえば、それ以外のものは、存在しなくなるのである。

 メディアも、もう少し思考の幅を広げてもらわないと困る。取材で数字にまどわされることは、ままある。しかし、10人に1人くらい、「おかしいぞ」といい出すヤツがいてもいいはず。それがいないらしい。その方がライターよりずっと怖い。

 集団ヒステリーでは、アメリカは先進国だ。なにしろ禁酒法を作った国である。戦後のマッカーシー旋風、近年では9.11‥‥禁煙もそれにあたるだろう。

 そのアメリカで、ライターが問題になったのは94年。EUでは06年、日本では今年である。この差は何なのか? この意味を考えることで、問題の本当の所在がわかってくるのではないか。そんな気がするのだが、どうだろう。

2010年3月30日火曜日

政権交代で変わったのはだれ?



 「あれ、エイプリルフールには早いぞ?」。日付は3月27日。それも朝日新聞だ。「鳩山政権 今後を占う」という予測記事に、「5月x日普天間移設に失敗」「6月x日小沢氏に辞任促す」という見出しと、それぞれ短い架空記事がついていた。欧米の新聞ならともかく、日本では珍しい。

 本文はどうってことのない、ああだこうだの観測だが、架空記事の方は、「内閣支持率は2割程度に落ち込んでいた」「首相は小沢氏を官邸に呼んで‥‥『党のために辞任して』」なんていうんだから、なんとも刺激的だ。「週刊朝日かよ」と思った人もいたかもしれない。

 自民党政権時代にはこんな記事は出なかった。あのしっちゃかめっかの麻生首相にも、こういう踏み込み方はしなかった。それが政権交代から半年、事業仕分けから政治とカネの話、普天間の“揺らぎ”を経て、とうとう政治記者までが変わったんだなぁと、ある種の感慨を覚えた。

 同じ紙面にもうひとつ、変化を伝える記事があった。首相の会見にインターネット記者やフリーランスが加わったという話である。120人中40人がこれらの記者で、5人が質問して、中には、平野官房長官の能力不足を指摘して「チェンジしないのか」といったというから面白い。写真には、首相の後ろに平野氏の顔も見える。昔なら、こんな質問は絶対に出なかった。

 新聞、テレビの政治記者ばかりだと、質問することで持っている情報が推し量れるから、デリケートなネタは絶対に突っ込まない。テレビが全部録画してるとなれば、なおさらだ。だから、会見そのものが面白くない。

 しかし、しがらみのない記者たちが入ってくると、会見の空気は間違いなく変わる。メディアの特性が異なるから、何が飛び出すかわからない。爆弾質問だってないとは限らない。聞いている記者たちも即応力が問われるだろうし、いい意味の緊張感が生まれもするだろう。

 本当は記者たちが何を聞いているのかも、聞きたいところである。インタビューだと、質問の仕方で記者の程度がわかるものだが、普通の会見やぶら下がりでは、概ね答えしか伝えられないから、空気がわからない。

 先の記事にも出た平野官房長官なぞは、ニュースの中では、「これこれの問題にこう答えた」とコメント部分しか伝えられないことが多い。が、例えば、例の官房機密費について鳩山首相が「公開する」といったのを受けて、「国益といえるかどうか」といったとき、記者たちがどう切り込んだか。そこが見たいところだ。

 この平野という人、無能かどうかはともかく、官房機密費では当初から後ろ向き発言が多い。しかし、会見場で記者たちと論争になったという話は聞かない。少なくとも、「あなた官房長官でしょ。首相との関係はどうなってる?」「国益とはどういうことだ?」くらいは聞いてもらわないと、「無能はどっちだ」といわれても仕方がなかろう。

 政権交代ではいろんなことがわかった。民主党の幹部には案外権威主義の人が多いなというのがひとつ。まあ、かつて自民党より社会党の方が概してそれが強かったことは、だれもが知っていることだが、野党時代に暴れん坊みたいなイメージだった人までが、「メディアにピリピリしてる」なんていう話を聞くと、やれやれという気にもなる。

 また、与党慣れしていないというのか、権力に酔っているのか、勝手にぺらぺらというのも目立った。首相がまた、それらの食い違いにバンと断を下さないものだから、印象が寄り合い所帯みたいになる。連立の食い違いがこれに輪をかける。

 加えて「政治と金」。鳩山首相の母親資金はずっこけものだが、小沢幹事長のやり口は、自民党そのものである。「政治は数。だから選挙、従って金」というのも、自民党時代から変わらない彼の哲学、というより田中角栄そのものなのだ。ただ、角栄と違って彼には政策がない。

 側近もまた同様なようで、さきに執行部批判をした副幹事長を、「茶坊主」みたいなのが現れて解任にしたかと思うと、一転続投とか、自民党でもやらないようなことまでが起こった。まあ、玉石混淆である。

 これら一つひとつが、すべてオープンに流れるから、メディアも忙しいことだったと思うが、こうした日々から、政治と政治家を見る目が変わって当然だろう。朝日新聞の架空記事が出てきたのも、その結果ではないだろうか。よくいえば、政治を見る目が平たくなったーー政治記者の目線が、社会部や週刊誌記者に少し近くなった?

 ちと読み過ぎかもしれないが、これも政権交代がもたらしたひとつの流れ。メディアの特性の違いはますますはっきりしてきているが、どのメディアだろうと書くのは記者たちだ。こればかりは変わらない。平たい目線の記者がふえて、発する質問が深くなれば、いうことはない。

 このところ、テレビの言葉の拾い方がうまくなってきた。ときどき質問も聞かせる。郵政改革法案での独走を追及された亀井金融・郵政担当相とのやりとりは傑作だった。

 「あなたもうるさいね。どこの社?」「TBSです」「あなた宇宙人じゃなくて、何人だ。了承されたから発表したんでしょ」「総理は了解していないと……」「もう一度聞いてみろよ」「認識が……」「認識じゃない現実だ」「なんでこんなことに?」「君たちが騒いでるだけだ」「修正は必要ない?」「くだらんこと聞くなぁ」

 順番通りではないつなぎあわせだが、実際はずっとやわらかいやりとりだ。新聞では逆立ちしても出せない、ガンコで老かいな狸おやじ、しかし憎めない感じが出ていた。これを文字で読むときつくなって、「この野郎」という気になってしまう。テレビの特性はすばらしい。

 あの記者(女性の声だった)だって、狸おやじに「うるさいねぇ」といわせたらしめたものだ。顔はしっかり覚えてくれているだろうから、「うるさいのが来ましたぁ」と大臣室に遊びにいったら、特ダネのひとつもくれるかもしれない。

 ホントのニュースは人間から出る。民主党幹部から特ダネが出る(もれてくる)ようになったら、与党として一人前になったということなのだが‥‥。