2012年12月7日金曜日

定点観測で大掃除ってのはどうだ



 結局政党は12になった。4日公示された衆院選は、小選挙区で1294人が届け出て、比例区では未来、維新でかなりの届け出の遅れが出た。どたばた、といっていい状況は、野田首相の仕掛けが当たったといえなくもない。政局という言葉は好きになれないが、今度のは久しぶりに面白い。 

 野田のねらいは、明確に第3極潰し、さらには小沢潰しだった。だれもが年末・年明けと読んでいた解散を早めれば、政策調整やらなにやら混乱を招く。年が明けなければ政党交付金は入らない。民主の離党にも歯止めがかかる‥‥この目算だけはちょっと外れたが、野田という男は相当な策士である。今の民主でここまで腹がくくれる人間はいない。 

 案の定第3極は大混乱になった。橋下徹の日本維新の会と石原慎太郎の太陽の会がくっついて、橋下・石原の個人の好みが優先したことで、政策面ではおかしなことになった。維新と協調のはずだったみんなの党がはじき出され、同じく袖にされた河村たかしの減税日本も、亀井静香とくっついたり。 

 さらに「後出しじゃんけん」で嘉田由紀子・滋賀県知事が「未来の党」で「この指とまれ」とやるとは、誰も予測できなかった。野田にも想定外だったろうが、実は「国民の生活」の小沢一郎が仕掛人だったのだから、これまた相当なものである。しかし第3極は3つないし4つに分断され、結果的に野田の狙いは当たった。 

 勝ち負けはともかく、野田は、敵を自民と思い定めている。今の小選挙区制では小さい政党に芽はない。3極が混乱すれば、あとは自民だ。なんとか踏みとどまれると読んだようだ。 

 解散の時点で何人かの評論家が、選挙での議席数を予想していたが、大方は自民、維新、民主とする中で、田原総一朗だけが「民主は意外に善戦する」と2位にしていたのが面白い。メディアも多くが第3極の混乱を読み切れず、ことの展開でそれに気づくまでに一拍あった。 

 解散でいちばん青くなったのは、小沢一郎だったろう。民主党を抜けて48人を擁していても、中身はチルドレンとがらくただ。「消費税反対」と「脱原発」では支持率もあがらない。新聞からも、しばらく小沢の名前が消えていた。 

 彼は必死だった。動きも素早かった。直談判で嘉田を説き伏せ、嘉田が会見すると即日合流を決めた。しかも、自らは役職に就かない。なりふり構わぬとはこのことだ。 

 メディアは一斉に、「小沢は母屋を乗っ取るのではないか」と書いた。「未来」の国会議員の大半は小沢派だ。候補者選定のメカニズムもない。公示まで1週間。選挙は小沢が仕切ることになる。たしかにいつか来た道だ。 

 ここで民主からも自民からも「(未来は)民主党の二の舞いになる」という声が上がったのが面白い。小池百合子はテレビで、「3年間まざまざと見てきた。また同じことをやるのか」とまでいった。かれらは冷静にみていたのだった。 

 民主党のごたごたの元凶は常に小沢だった。小沢がいなくなれば、民主党はすっきりする。だれもがわかっていたこの構図を、だれも口にせず、メディアも書かなかったのは、数の論理と「小沢待望論」がセットであったからだ。 

 小沢が新人議員に「君らの仕事は次の選挙で当選することだ」といったとき、バカなメディアは反発もしなかった。小沢待望論はメディアにも根強くあったのである。有権者にいわせれば、そんな議員要らない。戻ってこなくていい。小沢もまた要らないはずなのだが‥‥ 

 彼はとりあえず、票になる組織を手に入れた。「卒原発」以外になかった公約に、あれやこれや付け加えたのも、「この指とまった」面々を選挙区・比例区に割り付けたのも、小沢であろう。この辺りはプロだ。あとはいつものドブ板選挙‥‥のはずだった。 

 が、届け出の4日の夕刊を見て驚いた。「未来」は選挙区には107人とあるのに、比例区がゼロ。比例名簿の提出が、締め切りぎりぎりになったのだという。その理由がふるってる。代表代行の飯田哲也が、自分(山口1区の重複)を含めた順位の入れ替えを指示して、大混乱になったのだと。 

 思わず小沢の顔を思い浮かべた。もし間に合わなかったら、小沢も子飼いも「未来」も墓場行きだった。選挙の結果がどうあれ、これが尾をひかないはずはあるまい。嘉田も飯田も小沢が知らない人種である。とりわけ飯田はエネルギー学者で「脱原発」のゴリゴリ。面白いゲームになるだろう。 

 かくて始まった選挙では、消費税と原発とTPPの賛否が入り組んで、まことにわかりにくい。しかし、有権者はバカじゃない。この3年余続いた民主党のごたごたのお陰で、政治の性根がよく見えるようになった。マニフェストが公約に変わろうと、選挙で掲げる政策なんて、おおざっぱな信号みたいなものだ。赤を信用するか、青を選ぶか。 

 それよりも、ここはひとつ視点を変えて、国会に要らない人間を追い出す「大掃除選挙」と考えたらどうだろう。定点観測よろしく、どっかと座って見据えれば、自ずと性根は見えてくる。人間を見よう。素性を見よう。変節を見よう。その方がすっきりして選びやすい。(敬称略) 


2012年11月2日金曜日

写真を取り違えるなんて



 尼崎市の連続死体遺棄事件は、男女8人が死亡または不明という何とも奇怪な話だが、その報道でまた、メディアが脇の甘さをさらけ出した。中心人物として連日名前が出ている角田美代子被告(64=傷害致死などで起訴)とされる写真が別人のものだったのだ。

 読売新聞が最初だったらしいが、共同通信も流したため、ほとんどのテレビ・新聞が使っていた。角田の長男の小学校の入学式で撮った記念写真、という説明だった。長男の年齢からすれば、20年も前の写真ということになるが、角田はすでに40前後だったはずだ。

 そこへ「これは私の写真です」と尼崎市在住の女性(54)が弁護士を通して名乗り出たのである。各社一斉に謝った。面白いのは朝日新聞で、同じ写真を入手していたが、「別人の可能性」があるとして使わなかったという。

 先頃の「iPS細胞移植」の誤報を思い出した。読売が得ダネで報じて、共同も追いかけたが、朝日は取材はしていたが「怪しい」と記事にしなかった。朝日は抜き合いには弱いくせに、疑り深いらしい。それはそれでいいことだが‥‥。

 腑に落ちないのは、同じ写真がどうしていくつものメディアに顔を出したか、である。共同にしても、ヨミからもらうはずはないから、同じ写真をもとに「これが角田だ」と示した人間がいたはず。まずはその人間が確かなのか。さらに、周囲のだれもが「角田だ」と確認したのか。

 そんなはずはあるまい。要するにどこかで取材の手を抜いていたのである。件の女性は、彼女の写真がなぜ「角田」に化けたのかを知りたいといっているそうだ。メディアが誠実なら、遠からず弁護士はそのいきさつを明らかにできるだろう。大いに興味のあるところである。

 一連の報道でさらに腑に落ちないのは、この角田という女の素性が一向に見えないことだ。尼崎出身で4人家族だとか、スナックで働いていたとか、タクシー運転手と結婚したとか、話がとびとびであやふや。近年の女王様暮らしに至るまでが見えてこないのは、実に奇妙だ。

 一昔前なら、市役所へ駆け込んで戸籍謄本から関係者をたどって、芋づる式に素性を割り出すのは、真っ先にやることだった。顔写真なんか、その過程で簡単に手に入ったものである。いま、個人情報保護でその手は使えなくなった。わかっているのは警察だけだ。しかし、その警察から情報がとれない。

 連日伝えられる事件の相関図は、角田被告の縁戚関係と死者・不明者の位置づけだ。8人以外にも事故死や病死者がいて、保険金詐欺を疑われるケースもある。しかし、「戸籍上の妹」だとか、わけのわからない人物が並んで、まるで判じ物だ。

 しかも、肝心の部分——角田から先がない。結婚していたのなら夫はどこへいった、両親や兄弟は、学校は、どんな生き方をしてきたのか‥‥接点のあった人間がいない。警察が知らせたくない、メディアに荒らされたくない部分が、すっぽりと抜け落ちているのではないか。

 事件は今後、死体遺棄の実行犯から殺人の解明へ、さらに金を脅し取ったり、詐取した経緯、保険金にまで伸びていくのだろう。それだけでも前代未聞の出来事だが、警察はもっと先をいっているはず。メディアは小出しの情報で体よく操られているようだ。

 肝心の角田の顔はいまもってわからない。護送される警察車両の後部座席で、カバーの下から片目だけが光っている不鮮明な画像だけだ。そのくせ自宅近くの商店街では、取り巻きを引き連れて歩く姿を大勢が見ている。マンションに招かれた人すらいた。他人の写真と見間違えるはずなぞなかろう。

 写真の取り違えは、取材のイロハを怠ったためだ。だが、情報を一方的に警察に抑えられてしまうようになったのも、メディアが招いたことである。連帯感をなくしてバラバラになったツケといっていい。要するになめられているのである。

 かつては警察でも官庁でも、メディアに受けの悪い役人は絶対に偉くなれないといわれた。ある経済官庁で、会見でよく記者たちに怒鳴られている課長がいた。「なんでボクは叱られるんでしょう」という彼を、特集記事で取りあげた。と、先輩が「君の記事で彼は生き返ったよ」といった。彼はその後とんとんと偉くなって、終いに国会議員になった。

 別にメディアに力があるわけではない。ただ、記者たちの眼を官は無視できなかった。警察でも、各社の警視庁キャップが集まれば、警視総監は耳を傾けざるをえなかった。だからこそ、こっそり情報が漏れてもきた。相互に信頼関係があったからである。

 いま、それが見事になくなった。事件報道の実際を見ていると、メディアはほとんどご用聞き。発表に注文をつけることすらできないらしい。そのくせ、「捜査関係者への取材でわかった」と書く。どんな取材だ。

 ちょうど、警視庁キャップだった先輩の訃報が届いた。メディアも警察も生き生きとしていた時代。古き良きとはいわないが、同じ時代を生きた元キャップは何人もいる。「なんでこうなっちゃったの」と聞いてみたい。彼らも歯ぎしりをしているはずだ。

2012年8月25日土曜日

死んではいけない


 シリアのアレッポでジャーナリストの山本美香さん(45)が死んだ。一報を聞いて「命をかけるほどの報道なんてあるのか」と思った。惜しい。彼女とは昔、衛星放送でわずかながら接点があった。その「美香ちゃん」はその後本物に育っていた。それだけに、ますます惜しい。

 撃たれた場所は、反政府の自由シリア軍と政府軍の民兵が交錯する危険地帯だった。が、残された映像には、赤ちゃんをかごに入れて歩く男性やテラスからのんびりと見下ろす女性や子どもたちの姿があった。通りを普通に人が歩いている。それが突然、銃声とともに途切れる。

 同行していた通信社ジャパンプレス(山本さんが所属)代表の佐藤和孝さん(56)の映像には、通りの反対側を近づいてくる武装した迷彩服の一団がいた。その前方にいた普通の身なりの男が、山本さんらを指して「ヤバーニ(日本人)がいる」と叫んで迷彩服を振り返った。とたんに銃撃が始まった。

 佐藤さんの映像は、通りを走って逃げる。しかし、山本さんはおそらく、映像が止まった最初の一撃で撃たれていた。致命傷は背骨と脊髄への被弾で、防弾チョッキを貫いていたという。至近距離から追い撃ちの可能性もある。

 さらに奇妙なのは、美香ちゃんのカメラにはそのあと、24分にわたって映像が写っていた。拾い上げたおそらく自由シリア軍の兵士が、スイッチをいれてしまい、それと知らずに持ち歩いていたらしい。カメラをのぞき込む男や町の光景があった。また、焦点の定まらない映像には、会話が入っていた。

 「彼女が目を撃たれた」「日本人なのか? 腕を見たか。かわいそうに、すごい傷だ」「見たよ」「やつら(民兵)はひきょうだ。こういう罠は初めてか? 民兵がお前たちの仲間にまぎれていたように見えたが」「仲間のことは全員知っている。そんなことはない」(テレ朝「モーニングバード」)

 中東のテレビ、アルジャジーラは、拘束された民兵の証言から、山本さんの殺害はアレッポの政治治安局の高官の命令だった、と伝えた。シリアでは、今年だけで内外のジャーナリスト27人が命を落としている。外国人記者の殺害は、入国を阻むための脅しだ。数が多いほど効果はあがる。

 そのダシに使われたということだ。相手はだれでもよかった。日本人記者が来るという情報は筒抜けだった。「ヤバーニ」と叫んだ男は、市民にまぎれたスパイだったのだろう。まったく、なんという巡り合わせか。

 シリアに入っている日本人ジャーナリストは少なくない。佐藤さんらも、政府軍の空爆の跡を撮りに入ったのだった。一般市民を無差別に殺している現実を伝えることは、確かに大きな意味がある。

 しかし、酷ないい方になるが、彼らが伝えるニュースのどれひとつをとっても、命をかけるほどのものはない。せいぜいが単発のルポ。大方はニュースのバックに流れるお飾りだ。大手のメディアが、自前の特派員の派遣に慎重なのは、そのためだ。その程度のネタに危険は冒せないと。

 独立系ジャーナリストたちは、いわばその下請けの役を果たしている。アフガン・イラク戦争がその最初だった。彼女と佐藤さんがボーン・上田賞の特別賞を受賞したバグダッドの仕事は、大手がみな逃げ出したあとを撮ったという、皮肉な意味合いもあった。

 しかし、紛争が日常化すれば、空爆も虐殺も自爆テロも、みな日常のものになる。大手メディアは、外電を使って安全なところで記事も写真も揃えられる。が、素材を提供する小メディアは、現場の映像と写真が頼りである。

 その現場での死傷はカメラマンが圧倒的に多い。ファインダーをのぞいていて周囲が見えないからだ。いまは液晶画面が多いが、動画を撮っていれば気配りはおろそかになる。いい絵でなければ使ってはもらえない。ミャンマーで撃たれたカメラマンも、後ろに迫った警官隊に全く気づいていなかった。

 ガンジーが暗殺されたとき、マグナムのアンリ・カルチエ=ブレッソン(HCB)は現場にいた。が、遺体が運ばれた部屋の外からカーテン越しに撮った。そこへ、ライフのマーガレット・バーク=ホワイトが駆けつけて撮り始めた。たちまち取り押さえられて、フィルムを奪われ放り出された。

 殺気立ったなかで、それだけで済んだのはおそらく女性だったからだ。もしHCBだったらそれでは済むまい。直に撮れれば間違いなく歴史に残る写真になる。バーク=ホワイトは正しい。が、身を守るすべを心得ていたHCBもまた正しかったのである。

 美香ちゃんは、「戦場ジャーナリスト」と呼ばれるのは本意ではなかったらしい。「ヒューマンなジャーナリストを目指していた」(父親)という。が、危険を承知で立っていたのは常に悲惨の現場だった。現場より強いものはない。放射能が怖くて福島入りを放棄した大手メディアの記者たちとは大違いだ。

 ただ、それもこれも生きていればこそである。「ヒューマン」だろうと何だろうと、美香ちゃんは手にできたはずなのだ。ジャーナリストは語り続けないといけない。惜しいとはそこなのである。

2012年7月28日土曜日

愛しのストロンチウム


 文科省が、福島第1原発の事故で飛散したストロンチウム90を、福島、宮城以外の10都県で検出したと発表した。検出は当然だろう。問題はその数値である。一番汚染が高かったのが、茨城のひたちなか市という。友人が1人いる。まあ、気の毒なと思ったが、そのあとにあったひとことで安心した。

 朝日新聞の記事の前書きの最後にはこうあった。「これは大気圏内核実験が盛んだった1960年代に国内で観測された最大値の60分の1程度」。私のような70過ぎの人間には、これが一番読みたい部分なのだ。いや、60代、50代だって、知っておかないといけない。

 1960年代は冷戦の最中である。アメリカとソ連は大気圏内の核実験を競い、巻き散らされた核物質が地球を覆っていた。「ストロンチウム90」という名前もしばしば新聞に出た。が、当時は人体への影響を深く報ずるものはなかった。米ソが口をつぐんでいたからである。

 その結果、それと知らずに、世界中が高度の汚染の中に生きていた。福島のあと、日本を逃げ出したお金持ちもいたが、当時はたとえ知ったとしても、どこへも逃げる場所なんぞなかった。世界中がくまなく汚れていたのだから。

 私は20代前半で、大学で山登りをやっていた。北アルプスやらなにやら、3000㍍の山を駆け回っていた。当然、地上よりは濃度が高かろう。その中を、ただ歩くのではなくて登ったり下ったり、ハアハアと目一杯吸い込みながら動き回っていた。

 それからちょうど50年である。どれくらいかはわからないが、私の体に入ったストロンチウム90は、半減期でめでたく半分になったはずだ。この間に、ともにハアハアいっていた仲間たちはどうなったか。バタバタとガンになって死ぬこともなく、大方元気である。

 むろんガンで死んだのもいるが、日本人の平均以上ではあるまい。どころか、平均寿命はどんどん伸びている。まあ、いま60代は当時は10代、50代は幼児期だったから、成人だった私の年代より多少影響が強いかも知れない。が、結果を知るには、まだ10年20年かかる。

 だから、福島の事故のあと真っ先に知りたかったのは、この当時と比べてどの程度の汚染か、だった。しかし、書いている記者たちはずっと若い。50年前がとんでもない時代だったことも知らない。比較した記事も出ない。むしろ、「怖い」「怖い」が表に出ていた。

 被ばくを恐れて記者たちに、原発から30㌔以内立ち入り禁止の指令を出したメディアの幹部は、自分たちが50年前にたっぷりと吸収していたことも知らなかったか。「いまさら遅いんだよ」といってやりたくなったものだ。

 かろうじて、研究機関の汚染データに、当時との比較がちょろっと出たり、汚染の推移を表すグラフがあった。が、このグラフがまた、インチキだ。ケタが上がるごとに指標が10分の1の縮尺になっているので、見た目は一枚の紙に収まっているが、これを等倍に直したら、50年前の数値は天井を突き抜けるのである。

 今回のストロンチウムの記事で、はじめて等倍のグラフが出ていた。チェルノブイリですら小さな山だったので、「まあ、なんという時代だったのか」とあらためて驚いた。ストロンチウムに限らない。セシウムだってヨウ素だって、まんべんなく野に山に、いや世界中に降り積もったのである。

 そこで人はコメを作り麦や野菜を育て、牛や豚、鶏を飼って、何事もなかったように過ごしてきたのだ。これ以上壮大な人体実験はなかろう。あなたも私も、みんなストロンチウム仲間なのである。

 だから、いってやらないといけない。もしアメリカ人が、放射能の汚染を話題にしたら、「お前のじいさんは何てことをしてくれたのか」と。中国の観光客が、東北は怖いといったら、「日本よりも、北京や上海の方がゴビ砂漠に近いんだぜ」と教えてやれ。「雨の降り始めには気をつけろ」といったのは、中国の核実験のときだった。等倍のグラフも忘れずに見せてやろう。

 今回の発表には、「影響はまずない」という解説がついていた。細々した数字があったが、そんなものはどうでもいい。50年前とはケタが違うのだ。気の毒にも、ひたちなか市で一番高い値が出たが、これが最高のはずはない。地震と津波による機器の不具合で、福島と宮城のデータが採れていないからだ。

 その福島では、別の観測ですでにストロンチウム90は検出されている。ひたちなか市で60分の1ならば、原発近くの立ち入り禁止区域では20分の1か、10分の1か。こう考えれば、50年前はにわかに身近になってくる。

 しかしそれでも、「影響はまずない」となるのであろう。解説には言外に「じいさんどもがちゃんと生きてるじゃねぇか」という響きがある。くそったれめ。放射能の次に、高度の環境汚染の中育ったのは、40代のお前さんたちだ。これも進行中の人体実験である。ダイオキシンはストロンチウムより怖いぜ。

2012年7月25日水曜日

オスプレイの「危ない」はどこから?


 米軍の新型輸送機オスプレイが、岩国に着いた。その映像を見ていると、畳んでいた主翼が回転して、ローターがするすると広がる。まるでガンダムか何か、映画でも見ているようだ。つくづく新時代の飛行機だなと思う。

 この問題、市民団体の「反対」はわからないでもないが、肝心のオスプレイが本当に「危険な」「落ちやすい」かどうか、これが一向に定かでない。メディアの論調も、どこか的がはずれているように見える。

 先頃朝日新聞が、「事故原因調査に空軍司令官が圧力」「事故の総数は58回だった」と立て続けに、裏話を引っ張り出した。

 最初の記事は、アフガニスタンでの事故に関する調査で、「エンジンの出力不足」とする調査委の見解を、空軍司令官が黙殺したという話。空軍司令官は「エンジン不調は事故とは無関係」とする公式報告書を作った。しかし、ここがアメリカだ。両論とも公表されて、「異例の対立」と注目されていた。

 米軍のマニュアルでは、機器に不具合があれば、ただちに飛行停止がかかる。実戦配備中の飛行停止は、もろに作戦に響く。司令官の配慮はむしろ、こっちの方だったろう。

 もうひとつは、これまで日本で知られていた事故件数が、事故の重大度でA、B、Cと三段階あるうちの、最も重大なAの4件だけで、B、Cも入れると58件だったという話である。これも実は公表された数字だった。

 Aだけとしていたのは日本の防衛省で、どうも意図的に安全を装っていたふしがある。こういうのを猿知恵という。担当者は、「B、Cまで取りあげたらきりがない」(朝日)というのだからあきれる。メディアもまた、防衛省の数字だけでワーワーいっていたわけだ。

 この問題で腑に落ちないのは、「危険だ」「事故が相次ぐ」という報道の割に事故件数が少ないことだった。これが4件ではなく58件だったとしても、5年間にアフガンでの実戦参加も含む数字で、年間12件弱。B、Cに死者はない。これで事故が多いといえるか? 「危険な」イメージは、どこから来たのか。

 根拠は例の「事故率」しかない。A事故だけの数字なぞあるはずがないから、これだけは全体の数字であろう。これでみると、海兵隊仕様のMV22は、ヘリより少し高いが全海兵隊機の平均事故率よりは低い。高いのは空軍仕様のCV22で、MV22の7倍にもなる。これがおそらく一人歩きしたのだろう。

 ネットにはパイロットの話があふれている。これらを読むと、確かに気難しい機体らしい。突発的な風やパイロットのささいな操縦ミスがコンピュータの制御機能を超えるとか。ローターの風圧が強力で、現行大型ヘリならフットボール場に6機の編隊着陸が可能だが、オスプレイは2機が限度だ、とか。

 面白いのは、「記者は知識がないから、上っ面だけを伝えている」なんてのもあった。アメリカでも似たようなものらしい。日本のメディアも判断できずに、「話が大きい方」に乗っている。「安全だ」といってるのは産経新聞だけだ。

 朝日の続報によると、米側がオスプレイ配備を日本政府に伝えたのは、まだ開発段階の96年で、以後米軍は繰り返し発信していたが、自民党政権は国会でも「聞いていない」と説明を避け続けた。試作段階では事故が大きく伝えられていたから、逃げたのだろう。

 政府が初めて「配備の可能性」に言及したのは政権交代後の2010年、北沢防衛相である。「官僚答弁をなぞりたくなかった」というから、つまりはこれも、防衛省の猿知恵だったのである。

 オスプレイの配備は、安保の事前協議の対象外で、防衛省が勝手に判断を差し挟む余地はない。政府にしても本来、オスプレイの安全を請け合う筋合いではなかろう。端から全部オープンにして、「米軍はこういっている」「安全対策は十分に申し入れる」とやっていれば済んだ話である。

 しかし、この間に高まってしまった不信感は、もはや消しようがない。新聞・テレビも、沖縄や岩国の現状を見れば、うかつには踏み込めない。山口県知事選では、争点のひとつになってしまった。もうだれも「イエス」とはいえない。猿知恵のツケである。

 米政府もさすがに困ったのだろう。急遽来日したカーター国防副長官は、「安全性が確認されるまでは飛行しないと合意した」とまでいった。野田首相も同じ言葉を口にした。米軍が正式採用して、あしかけ7年も実戦配備している機体に「安全性の確認」だぁ? 兵隊の命がかかっているのに? ばかな話ではないか。

 防衛省の調査団が訪米し、事故調査の結果も間もなく出る。これらをもとに、遠からず「安全だ」となるのだろうが、米軍にしても、冷徹な数字以外に頼るものはないはずだ。一方で森本防衛相は、訪米して、オスプレイに試乗するらしいが、そんなことで、どれだけの説得力があるか。カイワレダイコン食うのとは訳が違う。

 岩国到着の朝のテレビは、反対運動を伝えていた。それは現実だ。だがそれと並んで、20年前の試作機の墜落映像を繰り返し流していた。ガンダムはとっくに別ものになっているというのに。そんなだから、お祭りメディアといわれるのだ。まったく困ったものである。

2012年7月17日火曜日

南無モザイク大明神


 テレビのモザイク(網掛け・ぼかし)が気になってしかたがない。オウム真理教の手配犯高橋克也(54)の防犯カメラ映像は、どれも本人の輪郭以外は全面ぼかしがかかっていた。各局とも同じに見えたから、公表した警視庁が入れたのかも知れない。テレビの悪しき慣習に警察までが染まったか。

 しばらく前の、スパイ容疑が伝えられた中国大使館の書記官は、まことに奇妙だった。外交官の身分では認められない外国人登録をしたのだから、立派に違法行為の容疑者なのだが、ニュースの焦点が「スパイ容疑」だったからか、フジテレビ以外はみな顔にモザイクがかかっていた。

 外交官だから公の席での映像も写真もあった。が、新聞でも顔を出したのは産経だけ。名前からいきさつまで全部出ているというのに、いったい何を恐れているのか。「中国だから」「特派員がいるから」と妙な配慮をしたのなら、自由主義国の報道機関としては自殺行為である。

 顔を隠すのは、人権への配慮、少年法の規定、あるいはきわどいルポでの隠し撮りとか、むろん本人が嫌だというのもあろう。何をどこまでつぶし何を残すか、個々に状況は異なるのだから、何らかのマニュアルはあるはず。だが見るところ、「面倒だから」とばかりほとんど機械的になんでもかんでもだ。思考停止にすらみえる。

 その前のお笑いのオセロ・中島知子の騒動は、ひどいものだった。マンションに出入りする占い師の親族とやらをカメラが追う。しかし顔には常にモザイクだ。おまけに、中島の部屋の所有者が俳優の本木雅弘だったからだろう、当の建物はおろか周囲の道路・建物一切。さらには張り込みの報道陣にまでモザイクだ。何が何だかわからない。

 これが1ヶ月以上も毎日続いた。分量からいって、映像をあれほど粗末に扱った例はないだろう。テレビの視聴者は我慢強いのか、どうでもいいのか。多分後者だろう、わざわざ文句をつける人はいなかったようだ。

 埼玉・東松山で強風でマンションの足場が倒れて、幼稚園児が死んだ。父親が撮った卒園式などの映像があって、元気だった子どもの姿が流れた。ところがこれも、当の園児以外はすべてぼかしである。一緒に写っている子どもたちの親からのクレームを恐れたのか。亡くなった子どもがいっそう哀れでならなかった。

 モザイク映像の多くは、穴埋めである。ニュースやスタジオトークのバックで、モザイクだろうが何だろうが何かが動いていさえすればいい。だからだろう。とうとう事件の現場にまでモザイクがかかり始めた。おそらく、グーグルのストリートビューのあおりである。

 事件現場の建物は写っている。が、隣はモザイクだ。報道とバラエティーの区別がつかなくなっているらしい。リポーターがしゃべっている、回りはみんなモザイク、という珍妙もしばしば。リポーターの顔なんかより現場を見たいんだ、こっちは。

 記者会見にモザイクが出てきたのには、本当にびっくりした。性同一性障害で女性から戸籍変更した男性が結婚して、妻が精子提供を受け、体外受精で子どもを得た。ところが、性転換である夫は子の父親になれないとされた。これはおかしいと、堂々たる訴えである。

 夫婦は名前も年齢も出し、カメラを自宅に入れて取材までさせていた。それまでがずっとモザイクなのだ。まあ、子どもは仕方がないとしても、裁判の記者会見にモザイクはなかろう。当人たちがそう望んだのなら、はじめから写してはいけない。むしろ、取材をした記者の偏見ではないのかとすら思った。

 名前は実名、撮った画像は出すのが報道の鉄則だ。取材の過程で、出せるかどうかの判断は当然ある。それをせずに、何でも録っておいてあとでモザイクというのは、話が逆だろう。人権への配慮というのなら、端から撮るべきではない。

 年金基金の運用で、詐欺で逮捕されたAIJ投資顧問の社長らも、はじめはモザイクのところがあった。そのうち国会にまで出てきたので素顔なったが、ことの重大性からいって、顔を隠す必要なんかないはずである。はじめはモザイクで、同じ映像が逮捕されたら素顔に、とはなんといじましいことか。

 最近はまた、気を引く映像の肝心の部分を隠して、CMをまたいで視聴者を引っ張ることも横行している。CMの数が多かったりすると、23度と同じモザイク映像を流したりする。品性下劣としかいいようがない。

 オウムの高橋はマンガ喫茶で捕まった。その店長というのが店の前で質問に答えている映像が、またまたモザイクだった。顔を写していない局もあったから、きっと本人が嫌だといったのだろう。そのくせペラペラとよくしゃべる。しかし顔は出さない‥‥写される方までが妙に心得ている。

 どうも人間が古いのか。無意味に顔を隠されると、いかがわしさを感じてしまう。お前さん、そんなにいかがわしいのかい、と。撮る方も撮る方だ。押せば写る、音も入る。あとは野となれモザイクがあるか。

 大津の中学でいじめ自殺があって、日テレの「とくダネ」が、加害者の名前を出してしまったというので大騒ぎ。画面で黒塗りしたつもりが、実は読めたというのだから、間抜けな話だ。技術の進歩は、人間を堕落させる。

2012年7月12日木曜日

オスプレイは本当に危険なのか?



 米軍の新型輸送機オスプレイの配備問題で、朝日が論説で、森本防衛相に文句をつけていた。「話す相手を間違えている。米政府にこそ『待った』をかけるべきだ」と。それはその通りだろう。だが、オスプレイを「墜落事故が相次ぐ」「危険が大きい」とする論拠が、事故率にあった。 


 オスプレイの事故の件数や死者数は公開されている。その一覧を見ながら、はて、と首を傾げた。事故は確かにあるが、空白の(つまり無事故の)期間がけっこう長い。今年は2度事故があったが、その前は長いこと無事故だ。「本当に事故が多いのか」 


 不具合は当然改良されるのだから、試作段階と実用段階とは区別しないといけない。だがテレビには、20年も前の試作機の最初の墜落映像が繰り返し出る。これで云々されては、開発者もたまるまいが、世論は多分にこれでできている。 
  
 そこへNHKニュースが、軍事評論家小川和久氏のコメントを、都合のいいようにつまみ食いをして、朝日と同様の論旨を展開したらしい。これに小川氏がツイッターで抗議していた。それによると、小川氏の元のコメントは、次のような趣旨だった。 


 ・オスプレイは開発段階の16年間に4回墜落、死者30人(人数が多いのは輸送人員)。実戦配備開始から7年間に4回墜落、死者6人。実戦配備後は他の軍用機と比べて突出した数値ではないと米国内では理解されている。 


 ・現行のCH46ヘリは最終でも1971年製。整備や改修の限界を超えている。米軍は(たとえ話として)車のモデルチェンジと同様に配備を進めている。ただ、政府が住民の不安に応えるには、相当な覚悟で米国と協議する必要がある。 


 理路整然、真っ当な見解である。ところが、ニュースでは「モデルチェンジ」が強調され、政府への言及部分は使われず、安全についてはキャスターが否定していたという。小川氏は、ツイッターで「車と同一視などしていない。ひどい編集に抗議中」と。ま、その後NHKが謝ってきたらしいが‥‥。 


 要は事故率の数字である。同じオスプレイでも海兵隊用(輸送)と空軍用(特殊作戦)では、仕様も使い方も異なり、事故率は海兵隊用の1.93に対して空軍用は13.47と飛び抜けて高い。新聞報道も「高い」「低い」と戸惑っている。沖縄の現実を前に、NHKは小川氏のあげた数字を出しにくかったのだろう。 


 新聞・テレビに限らない。行政から住民運動まで、一人歩きする数字がことを左右する例は多い。数字の発信者が政治的でも、多分にいかがわしくても、そうである。その最たるものが、原子力発電のコストだった。その化けの皮は、この1年ではがれてしまったが、まだまだある。 


 脱原発で再生可能エネルギーへの転換は、日本経済に膨大な負担をかけるという、電力会社と経産省が出した数字にもウソがある。節電の数字だって、十分にインチキである。なのに、15%だ、20%だという数字が出ると、さあ、計画停電だ、原発の再稼働が必要だと、話の進み方がまことに情緒的である。 


 そもそも、電力不足と原発の安全とは、まったく別の話だ。電力が足らなければ、どこまで節電が可能かを、電力会社と社会が一体になってギリギリの可能性を積上げて、さあどうだというのが筋のはず。ところが、政府もメディアも数字を疑わない。そうしてうやむやと大飯原発が再稼働すると、関西電力は火力発電を8基も止めたという。数字は何だったのか。 


 その数字も、さすがに電力料金値上げでは、メディアも政府も自治体までが目を皿のようにして、おかしな点を見つけ出している。いいことだ。数字はもっともらしいが、読める人にはアナも見える。そういう冷静な分析をしつこく発信するのが、メディアの役割である。 


 オスプレイはすでにハワイを発って、岩国などへ向かっている。報道は今度は、国内の7つの訓練飛行ルートの安全の話に移っている。それも、「あんな危険なものが、低空飛行で」といういい方だ。ヘリの後継機なのだから、低空は当たり前だろうに。 


 それよりも、本当に危険なのか安全なのかだ。まずは今年続いた事故の原因で、政府が納得できる説明を、米側からもらわないといけない。納得できなければ突き返す、くらいの覚悟でないと、沖縄や岩国の説得は望めまい。行政協定がどうのこうのなんて、もうだれも耳を貸さないのだから。 


 話は原発と同じだ。大元が安全でないのなら、稼働してはいけない、飛ばせてはいけない。アメリカはマニュアルの国である。事故が起こって、もし部品やシステムに不具合があれば、同じものを使っている飛行機は全世界で一斉に飛行停止がかかる。第二次大戦以来のシステムだ。 


 オスプレイは操縦が難しいといわれる。いまのところ、飛行停止になったという話はない。政府はこの辺りをきっちりと確かめてもらいたいものだ。少なくとも、数字を情緒的に扱ってはいけない。