2010年3月30日火曜日

政権交代で変わったのはだれ?



 「あれ、エイプリルフールには早いぞ?」。日付は3月27日。それも朝日新聞だ。「鳩山政権 今後を占う」という予測記事に、「5月x日普天間移設に失敗」「6月x日小沢氏に辞任促す」という見出しと、それぞれ短い架空記事がついていた。欧米の新聞ならともかく、日本では珍しい。

 本文はどうってことのない、ああだこうだの観測だが、架空記事の方は、「内閣支持率は2割程度に落ち込んでいた」「首相は小沢氏を官邸に呼んで‥‥『党のために辞任して』」なんていうんだから、なんとも刺激的だ。「週刊朝日かよ」と思った人もいたかもしれない。

 自民党政権時代にはこんな記事は出なかった。あのしっちゃかめっかの麻生首相にも、こういう踏み込み方はしなかった。それが政権交代から半年、事業仕分けから政治とカネの話、普天間の“揺らぎ”を経て、とうとう政治記者までが変わったんだなぁと、ある種の感慨を覚えた。

 同じ紙面にもうひとつ、変化を伝える記事があった。首相の会見にインターネット記者やフリーランスが加わったという話である。120人中40人がこれらの記者で、5人が質問して、中には、平野官房長官の能力不足を指摘して「チェンジしないのか」といったというから面白い。写真には、首相の後ろに平野氏の顔も見える。昔なら、こんな質問は絶対に出なかった。

 新聞、テレビの政治記者ばかりだと、質問することで持っている情報が推し量れるから、デリケートなネタは絶対に突っ込まない。テレビが全部録画してるとなれば、なおさらだ。だから、会見そのものが面白くない。

 しかし、しがらみのない記者たちが入ってくると、会見の空気は間違いなく変わる。メディアの特性が異なるから、何が飛び出すかわからない。爆弾質問だってないとは限らない。聞いている記者たちも即応力が問われるだろうし、いい意味の緊張感が生まれもするだろう。

 本当は記者たちが何を聞いているのかも、聞きたいところである。インタビューだと、質問の仕方で記者の程度がわかるものだが、普通の会見やぶら下がりでは、概ね答えしか伝えられないから、空気がわからない。

 先の記事にも出た平野官房長官なぞは、ニュースの中では、「これこれの問題にこう答えた」とコメント部分しか伝えられないことが多い。が、例えば、例の官房機密費について鳩山首相が「公開する」といったのを受けて、「国益といえるかどうか」といったとき、記者たちがどう切り込んだか。そこが見たいところだ。

 この平野という人、無能かどうかはともかく、官房機密費では当初から後ろ向き発言が多い。しかし、会見場で記者たちと論争になったという話は聞かない。少なくとも、「あなた官房長官でしょ。首相との関係はどうなってる?」「国益とはどういうことだ?」くらいは聞いてもらわないと、「無能はどっちだ」といわれても仕方がなかろう。

 政権交代ではいろんなことがわかった。民主党の幹部には案外権威主義の人が多いなというのがひとつ。まあ、かつて自民党より社会党の方が概してそれが強かったことは、だれもが知っていることだが、野党時代に暴れん坊みたいなイメージだった人までが、「メディアにピリピリしてる」なんていう話を聞くと、やれやれという気にもなる。

 また、与党慣れしていないというのか、権力に酔っているのか、勝手にぺらぺらというのも目立った。首相がまた、それらの食い違いにバンと断を下さないものだから、印象が寄り合い所帯みたいになる。連立の食い違いがこれに輪をかける。

 加えて「政治と金」。鳩山首相の母親資金はずっこけものだが、小沢幹事長のやり口は、自民党そのものである。「政治は数。だから選挙、従って金」というのも、自民党時代から変わらない彼の哲学、というより田中角栄そのものなのだ。ただ、角栄と違って彼には政策がない。

 側近もまた同様なようで、さきに執行部批判をした副幹事長を、「茶坊主」みたいなのが現れて解任にしたかと思うと、一転続投とか、自民党でもやらないようなことまでが起こった。まあ、玉石混淆である。

 これら一つひとつが、すべてオープンに流れるから、メディアも忙しいことだったと思うが、こうした日々から、政治と政治家を見る目が変わって当然だろう。朝日新聞の架空記事が出てきたのも、その結果ではないだろうか。よくいえば、政治を見る目が平たくなったーー政治記者の目線が、社会部や週刊誌記者に少し近くなった?

 ちと読み過ぎかもしれないが、これも政権交代がもたらしたひとつの流れ。メディアの特性の違いはますますはっきりしてきているが、どのメディアだろうと書くのは記者たちだ。こればかりは変わらない。平たい目線の記者がふえて、発する質問が深くなれば、いうことはない。

 このところ、テレビの言葉の拾い方がうまくなってきた。ときどき質問も聞かせる。郵政改革法案での独走を追及された亀井金融・郵政担当相とのやりとりは傑作だった。

 「あなたもうるさいね。どこの社?」「TBSです」「あなた宇宙人じゃなくて、何人だ。了承されたから発表したんでしょ」「総理は了解していないと……」「もう一度聞いてみろよ」「認識が……」「認識じゃない現実だ」「なんでこんなことに?」「君たちが騒いでるだけだ」「修正は必要ない?」「くだらんこと聞くなぁ」

 順番通りではないつなぎあわせだが、実際はずっとやわらかいやりとりだ。新聞では逆立ちしても出せない、ガンコで老かいな狸おやじ、しかし憎めない感じが出ていた。これを文字で読むときつくなって、「この野郎」という気になってしまう。テレビの特性はすばらしい。

 あの記者(女性の声だった)だって、狸おやじに「うるさいねぇ」といわせたらしめたものだ。顔はしっかり覚えてくれているだろうから、「うるさいのが来ましたぁ」と大臣室に遊びにいったら、特ダネのひとつもくれるかもしれない。

 ホントのニュースは人間から出る。民主党幹部から特ダネが出る(もれてくる)ようになったら、与党として一人前になったということなのだが‥‥。

2010年3月22日月曜日

悲しき居酒屋



 補聴器がとうとう寿命になって、長時間の使用ができなくなった。7年以上も使ってきたから、何かがへたってしまったらしい。ちょっと信じられないのだが、物知りによると、補聴器のコアは岩塩なのだそうで、湿気で元へ戻らないところまできてしまったのだと。

 ただ、乾燥剤に入れておくと、1時間半から2時間くらいは何とか機能を回復する。で、限界になると、突然ご臨終だ。雑音になったり聞こえなくなったり。もう半年以上になるが、話をしていて、「あ、申しわけありません。終わりました」と話を切り上げることが多い。

 左はもうほとんど聞こえず、残りの右を頼りに補聴器を使っていた。メーカーに聞いたら、「この型は修理が終わりました」と、マイクロソフトみたいなことをいう。「新しいのを買え」と。しかし、これが結構な値段なのだ。イヌと散歩しているただのおじいさんが、大枚をはたく必要があるかどうか、大いに悩む。補聴器には限界があるからである。

 悲しいかなマイクだから、あらゆる音を均等に拾ってしまう。こちらが必要なのは人の声だけなのに、マイクは町の騒音もテレビの音も隣の人の話声も、何もかも一緒くたに拾って増幅する。

 最初に補聴器を付けたときは、まあ世の中こんなに騒音にあふれていたのか、が実感である。デジタル技術で多少音質を調整したり雑音をカットすることはできるのだが、がやがやわいわいの「居酒屋状態」にはどんな高級機種も対応できない。

 人間の耳は、騒音の中でも自分の聞きたい音を拾い分ける。耳だけではなく、脳で聞いているのだ。難聴はその機能が失われているから、いわば耳自体もマイク化している。そこへ補聴器のマイクを重ねて音量をアップしても、元の耳とはほど遠いものを聞かされることになる。

 その割にはよく使っていた方だと思う。仕事の上でも必要だった。しかし、多人数で重なって飛び交う言葉がつかまえられない。小声の冗談が聞こえない。滑舌の悪い人が聞きとれない。空調の音や小さなテレビの音が邪魔‥‥必要な音の40%もつかまえられただろうか。おそらくそれ以下である。

 そんな風だから、いまたとえ新しい補聴器を仕入れても、結果の見当がついてしまう。効果の割には高すぎるよ、それなら、必要なときだけ時限装置つきの補聴器でいいやと、そういうことなのである。テレビは直接イヤホンで聴く。パソコン見るのに音は要らない。

 ただ、家族との会話はほとんどできなくなった。車も運転できないから、免許証も捨てた。平衡感覚もおかしいから、山登りやスキーはできない。かくて、音の少ない静かな生活は、ひょっとしてぼけるんじゃないか‥‥これはあまりいい気分のものではない。

 ところが、ひょんなことから新兵器が見つかった。前から気になっていたICレコーダーというヤツである。以前はインタビューのときMDを使っていたが、録音状態をモニターすると、補聴器よりはるかに有効だった。そのMDがぶっ壊れたのだ。

 さて最新の機器はどの程度の聞こえなのか。イヤホンをもってヨドバシへいって、片っ端から聞き較べてみた。これが実によく聞こえる。補聴器とくらべても遜色がない。係のお兄さんに「補聴器より音がいいねぇ」といったら、「そりゃそうですよ。マイクが違います」だと。なるほど、補聴器のマイクなんて哀れなほど小さい。

 それでいて、お値段は補聴器の10分の1よりはるかに安い。イヤホンをつけていても、音楽を聴いてるように見えるだろう。これこれ、というので仕入れてきた。デジカメ用のネックストラップで首からぶら下げたり、胸のポケットへ入れたりして、目下テスト中だ。少しづつ不都合もわかってきたが、いざとなったら、相手の目の前に本体を突き出すか、外付けマイクを使えばいい。これで時間切れというのはなくなりそうである。

 現に昨夜、知り合いと食事をしたのだが、「居酒屋状態」の中で、テーブルに本体を放り出しておいたら、なんとかなった。科学技術の進歩はすごいものだ。

 ICレコーダーは、オモチャみたいなメモリチップに音が記録される。しかも12時間とか連続でOKなのだそうだ。かつて国連の記者会見などで、記者たちが弁当箱みたいな録音機を一斉に突き出していた光景を思い出す。小さな新型は決まって日本人だった。それがマイクロテープになりMDになり、いまはだれもがICなのだろう。

 パソコンや携帯電話にしてもそうだ。これらがなかった時代、みんなどうしていたんだろう。あらためて、昔のお年寄りを思う。父も聞こえが悪かった。母は最後まで聞こえていたが、目がダメだった。ふたりとも静かにこたつにすわって、テレビを観たり居眠りしていた。どんな思いで老いに耐えていたのか。

 わたしのいまの聞こえは両親よりはるかにひどいものだが、科学技術のおかげで、まだなんとか健常者(嫌な言葉)の中に入っていくことができる。パソコンのおかげで、文章でのやりとりやブログの発信は普通にできる。遅く生まれた幸せというものなのかなと、つい遠い目になる。

2010年3月16日火曜日

ネットのあちらとこちら

 このページにはカウンターもなし、書き込みもないから、読んでくれてる人がいるのか、ちゃんと見えているのかと心配になって、管理者にメールしてみた。すると、「正常です」という返事があった。まずはひと安心。

 ところがメールの書き方を間違えて、タイトルにメッセージを書いてしまったために、読んだひとがわざわざこのページをのぞいて、ご親切にアドバイスをくれた。これ自体驚きだったが、その内容もまた、目を見張るようなものだった。

 まずは「記事数が少なすぎる」「内容も面白くない」「これではだれも読まない」「読む必要がない」とぼろくそである。この方はブログで「新聞記事の掲載アーカイブ」をやっているのだそうで、1日の書き込みが200から400という。そうなるためにはこれこれと、そのやり方を説いてくれていた。それはいい。

 驚いたのは、なかに「絶対に意見を書いてはいけない」とあったことだった。このブログは、メディアのありようで気になったことを書き留めている個人のつぶやき。だからこそ「メディア日記」なので、つまりは、意見そのものである。だから、これをいけないといわれると困ってしまう。

 どうやら、自分のニュース発信サイトと同じだと勘違いしたらしい。「写真を載せると見てくれる」「動画も面白い」などという。新聞などのニュースサイトか役所のHPから、記事やスピーチを転載しているようで、「アメリカ大統領の声明の原文、訳文を載せたら、云々」などとも書いてあったから、つまりはコピペ。写真もコピペ。ごていねいに「著作権」の注意までしてくれていた。

 yahooやgoogle、既存のメディア以外にもさまざまなニュースサイトがあることは知っていたが、「掲載アーカイブ」というものはまだ見たことがない。しかし、その意味合いはわかる。普通のサイトでは、ニュースの形のものばかりになるが、それらの元になる、声明や覚え書き、判決の全文とかが並んだら、それはたしかに便利だろう。

 日の書き込みが何百というから、PV(ページビュー)は相当な数になるに違いない。驚いた。そういうサイトはいったいどれくらいあるのだろう。

 新聞やテレビが形作っている情報世界とは別に、その何倍ものスピードで情報を拡散しているネットワークが存在している。その世界、つまりあちらの世界に通じている人たちは、こちらの世界の人間でもあるのだが、こちらの世界の大半の人たちは、あちらの存在すらほとんど知らない。そんな2つの世界が併存している。まるでSFだ。

 かつてホリエモンが、「新聞なんか要らない。ニュースはネットを見れば出ている」といったことがあった。「この男はニュースというものをわかってないな」と思ったものだ。ネットだろうと何だろうと、だれかが書いているんだということを、彼はきれいに忘れていたからである。

 いまあるネットのニュースサイトのコアとなるニュースは、既存のメディアが支えている。新聞、通信、放送が作るニュースが配信されて、その先は多少の編集を加えるか、コピペとなるか。それがまた、意見ばかりの2ちゃんねるのようなサイトを経て、はね返っても来る。その中に新しいニュースが加わっていることもあれば、玉石混淆の石だって時には意味を持つだろう。

 ここまではわかる。ネット情報が大きな力をもっていることもわかる。しかしその実像となると、こちらの世界の人間にはまずお手上げである。たとえば異常な注目を集めた事柄では、ニュースサイトへの書き込みが、日に一万を超えることもあるのだそうだ。そんなものだれが読むのか。

 昨年春だったか、当時の麻生首相を応援して「著書を買おう」というネットの呼びかけ(「まつり」というらしい)で、ベストセラーになったことがあった。呼びかけはあちらの世界だが、本が売れるのはこちらの現実である。

 これがもし政治の世界に応用されたら?と、懸念したのはこちらの人たちだったが、あとの選挙で、麻生さんが勝つことはなかった。あちらの人たちも、こちらで投票するときは、使い分けをしていたのだろうか。

 いえるのは、ネットの世界の実像や力を測る物差しを、まだだれも持っていないということである。これは実に不気味だ。力があることはわかる。新聞、テレビがおたおたするくらいなのだから。

 彼我のカベを破ってその力がこちらに及ぶとしたら、どんなときにどんな形になるのだろう。アメリカや韓国の大統領選挙ではすでに、ネットが大きな役割を果たしたといわれる。それが果たしてひな形になるのか。

 おそらくはコピペやリンクの闘いになるのだろうが、そんなものにひきずりまわされてたまるか。そのための方策は、ちょっとへそ曲がりになることである。付和雷同せず大きな声に流されないためには、意地悪じいさん、ばあさんになろう。なに、乗り遅れたって、別に失うものなんかない。

2010年1月27日水曜日

政治家に不動産?


 「民主党がこんなに早く崩れるとは思わなかった」と小泉前首相がいっていた。そしてこう続けた。「政治家が土地やマンション買うなんて聞いたことがない」と。この人の感覚はたしかに鋭い。まさしくそこが核心なのだ。

 小沢幹事長の資金管理団体「陸山会」が世田谷に買った土地の代金をめぐって、国会も肝心の予算審議が脇へいっちゃうような騒ぎ。また、鳩山首相が余分なことをいうものだから、メディアも忙しいことだが、報道もひとつピントがはずれているような気がしてならない。

 この事件では3人の元秘書が逮捕されているが、容疑は政治資金収支報告書への虚偽記載。土地取得をなぜか次の年に記していた。単なる間違いなら修正ですむのが普通だが、今回はその意図が問われている。

 もうひとつは、土地購入代金3億5000万円だかの出所だ。検察は、ダム建設にからむ建設業界のヤミ献金とのからみを疑っているようで、いわば贈収賄の線である。が、職務権限のない野党の人間だったときの話。いかに小沢氏が「天の声」といわれていようと、ゼネコンからとんでもない暴露でもないかぎり、絵に描いたような結果は予想しにくい。

 現に、マスコミの大騒ぎの中で行われた事情聴取のあと、小沢氏は予定になかった会見までして、「事務には関わってない」「金は父の遺産と家族の金だ。不正なことは一切ない」といいきった。どころか「幕引き?」という声も出るほどの落ち着きぶりである。

 過去19年分だか20年分だかの銀行口座を検察に押えられてもなお、「何も出てこない」という自信の表れであろう。検察が3人を逮捕したのは、当然何かを握っているとみるのが常識だが、小沢氏は平然と各地を飛び回って、「幹事長職を全うする」と言い続けている。

 法律でいかに攻められても大丈夫という自信とみていい。多分そうなのだ。むしろ目を向けるべきは、合法の中で彼が何をしてきたか、ではないのか。とくに政治家が不動産を買う意味である。

 自民党の追及チームが、都内の小沢不動産を見て歩いた。バス2台を列ね、それをメディアが追うというばか騒ぎだった。しかし、自宅以外に、いま問題の土地が世田谷に、9カ所のマンション・事務所は都心の一等地というのには驚いた。ほかに地元や沖縄にまで持っている。日本中が「何で?」と思ったことだろう。

 ツアーに参加した平沢勝栄氏も、「驚いた。あるところにはあるもんだ」といっていた。平沢氏はテレビで給与を公開して、「私ですら年間5、6千万円はかかる。だから献金は必要」といっていたが、小沢不動産はそろばんを入れると10億とかいうのだから、そりゃぁびっくりする。

 おまけに、家族ぐるみで3億だ4億だという金が長年金庫に眠っているとはどういうことか? 献金なしには不可能であろう。その実態は? 国民がいま目を向けているのは、そこだ。虚偽記載なんかじゃない。

 テレ朝の「スパモニ」が、政党助成金で面白い絵解きをやっていた。総額319億円が、議員数プラス得票率で配分され、得票率が高いと沢山行く(共産党はもらっていない)。議員一人あたり4千万から5千万円になる。

 助成金は、余ったり、解党しても返す必要はない。また、A党100人が分裂して、A党50人、B党50人になったとする。お金はA党が100人分をとり、B党はゼロ(翌年からになる)。使途については「制限してはならない」(政党助成法4条)とある。ただし「借金の返済」と「貸す(投機)」ことはいけない。

 合法であるかぎり、検察は手を出さない。しかし、資料はすべて検察の手の中にあるのだから、立件できない部分についても、とりわけ金の流れは入念に追うはずだ。そこで何が出てくるか。これは面白い。

 小沢氏でいま問題になっているのが、自由党が解党したときの、助成金の行方である。金に色はついていないから、水掛け論になる可能性はあるにしても、トータルだけでも読めるものはあるはず。

 そこであらためて、なぜ虚偽記載をしたか、複雑な預金の移し替えなどをしたか。それが不動産取得の十分な説明にならなかったら? 合法だろうとなんだろうと国民は黙っていない。それでも幹事長のイスに座っていたら、選挙はもつまい。

 むろん検察は、ヤミ献金の線を追い続けている。小沢幹事長の聴取のあと、元特捜幹部は「隠し玉があっても、あそこでぶつけるようなことはしない」といっていた。政権党の幹事長にまで手を伸ばした以上、真剣勝負だろう。隠し玉は本当にあるのか。3人を逮捕した攻めの根拠は?

 事情聴取のあとも、検察の情報リークは続いている。しかしだんだん話が細かくなってきた。メディアはその袋小路に入り込まない方がいい。

2010年1月6日水曜日

象徴がひとり歩き


 暮れの朝日新聞を見て驚いた。例の天皇と中国・副主席の会見のことだ。記事の書き出しが、「ポイントはルールの妥当性でも天皇の健康でもない」とあったので、「じゃあ何なんだ」と読み進んだら、民主党のごり押しが「象徴天皇制を犯した」という書生論である。あきれた。

 民主党の対応はたしかに生煮えだった。与党慣れしていないから、おそらくは、天皇制なんぞわれわれの手の内だ、というのがもろに出てしまった結果だろう。小沢幹事長の言葉はきつかったが、「たかが役人の分際で」と、ポイントははずしていない。

 問題は「1ヶ月ルール」という訳の分からない決めにある。天皇のご健康からというが、日数の算定に根拠などあろうはずがない。朝日はそこを全部すっ飛ばしているから、話があらぬ方へいってしまう。

 まずは、小沢のいった「国事行為」ではなく「公的行為」だと長々と論証(そんなことはどうでもいい)したあとで、「象徴天皇制」の意味合いをい う。曰く「内閣が責任を負うとは‥‥天皇を意のままに動かしていいわけではない」「象徴天皇にふさわしい非政治性、中立性・公平性を損なわないよう責任を もつのが本来の趣旨だ」と。

 当たり前すぎて異を唱える人間なんかいまい。しかし、「本来の趣旨」とはいいもいったり。後段はそれ自体が解釈であろう。憲法に象徴の意味なん か書いてない。では今回のことで、天皇の「非政治性、中立性・公平性」は損なわれたか。とんでもない。損なわれたのは「1ヶ月ルール」だけなのだ。

 そもそも「象徴天皇制」は、「国体の護持」、即ち天皇制を存続させるための最後の条件であった。きわめて政治的な駆け引きの結果だ。「天皇に実権がなければそれでいい」と、それがマッカーサーの趣旨である。それ以外はすべて後付けの理屈にすぎない。

 ところがその理屈が、いつの間にやら一人歩き。象徴という普通名詞までが、非政治性、中立性などという衣をまとい、絶対的なものであるかのよう にいう。国連、国連とありがたがっている書生論を見るようで、ちゃんちゃらおかしい。要するに、国内の事情だけで天皇制を見ているからそうなるのである。

 一歩日本を出てみるがいい。天皇が「象徴」だなんて、誰も信じまい。アメリカ大統領ですら、1ヶ月前に申し込まないと会見できない人物が、ただの象徴? わかれという方が無理だ。

 70年代の半ば、シンガポールで結婚式に夫婦で招かれたことがある。と、1人の老婆が「日本人は出ていけ」とわめき出した。周囲がとりおさえた のだが、老婆は最後まで憎悪に燃える目でわれわれをにらみつけていた。華僑系のシンガポール人は家系をたどれば必ず1人や2人、日本軍に殺されているとさえいわれ る。

 文科省は近代史を教えないから、若い日本人はほとんど何も知らないが、戦渦を受けた国では、少なくとも悪い話はしっかりと後の世代に伝えている。韓国・朝鮮、中国、台湾、フィリピン‥‥アジアだけではない。

 80年代の半ば、オランダの田舎町で行われた「スリーデーマーチ」を日本人グループは日の丸を掲げて歩いた。取材の帰りにヒッチハイクで乗せて くれた女性に国籍を聞かれ、「日本だ」といったとたん、「まあ、なんということ。私はきのう、40年ぶりに日本人を見たというのに」と絶句した。

 「オランダ」「日本人」「40年ぶり(その時点で)」とくれば、答えはひとつしかない。「インドネシアにいたのか?」「イエス」。彼女は私と同い年だった。終戦時小学2年生である。「私は子どもだったが……母はひどい目にあった」とだけいって、それ以上語らなかった。

 この人たちにとって、天皇は依然として「あのひどい日本人」の象徴(憲法のとは違う)なのである。これらにけりをつけることができたたったひとりの人、昭和天皇は何も語らずに逝った。語らせなかったのは、歴代首相と宮内庁長官である。これ以上政治的な配慮はあるまい。

 昭和天皇にキズをつけまいとしたのは浅知恵だった。結果、お気の毒にもいまの天皇が、自らはあずかり知らぬ重荷を背負わされているのだから。それに口を拭って、象徴だなどときれいごとで通る話ではないはずである。

 宮内庁長官は天上がりの頂点だ。認証官でもあり、歴代内閣もある種特別の扱いをしてきた。それを勘違いしてはいないか。現代版「家令」のつもり かもしれないが、皇太子に「子どもをつくれ」とは思い上がりもいいところ。「1ヶ月ルール」だって、めのこでつくった決めにすぎまい。

 しかも、それを盾に政府に異を唱えるとなると、ある種の権力を形作っているとすら思えてくる。まして「天皇の象徴性」を盾に、政府や外交の業務に妙な物差しを強いるなんて、トンチンカンもいいところだ。そんな「非政治」「中立」など、現実にはありえないのだから。

 政府が責任を持つ以上、ルールの妥当性は調べ直してしかるべきであろう。朝日はこれを「杓子定規こそ中立性の防波堤」などと書いていた。狂った物差しをありがたがってどうする。

2009年12月18日金曜日

冥土のみやげに3D


 いまは3Dというのだそうだ。立体映画だろう? 昔はステレオと呼んだ。だが、ジェームズ・キャメロン監督の新しい映画「アバター」の3Dぶりが凄いらしい。システムから開発して12年もかかったのだと。NHKの「クローズアップ現代」がとりあげた。

 3Dカメラはスタジオに置いてあった。まだ市販されているはずはないから、キャメロンが使ったものに違いない。しかし見せてくれたのは、2本のレンズの間隔が人間の目と同じ6.5cmだということと、そのレンズが近接のときは真ん中に寄って動く、というだけだった。

 これは「ロボット工学」の応用なのだそうだが、かなり人間の目に近い画像が撮れるだろうなということはわかる。あとは、そのレンズの焦点距離と撮像画面の大きさだ。これも重要なポイントなのだが、そうした説明は一切なく、ことによると企業秘密なのかもしれない。

 映画なのだから、どうやって見るかも大問題だ。かつての立体映画は、二重に映し出された映像を、左右色の違う、あるいは偏光のメガネをかけて左 右の目が別々に映像を読み取る方法だった。しかし、キャメロン方式は全く違うらしい。以下、NHKの説明通りにいうと、こんなことになる。

 メガネの技術は、米航空宇宙局(NASA)が、火星の表面の凹凸などを見るために開発した技術で、右目用と左目用の画像を交互に出てくるように し、スクリーンからの信号を受けたメガネが、シャッターのように左右交互に見えるようにしたのだという。イラストは出たが、それ以上の説明はない。

 ただ、パナソニックが来年売り出す3Dテレビというのも、この技術なのだそうで、こちらは、左右別の画像を毎秒120コマ、交互にブルーレイに 書き込み、同様なメガネで見るのだという。もともとパナソニックは、キャメロンの情報からスタートしたというのだから、同じものに違いない。にしても、毎 秒120コマ? そんなことができるのかよ。

 120というのは交流の山と谷の数だから、電気屋さんならわかるのかもしれないが、門外漢はただただ「ハアー?」というばかりである。
 
 ステレオ写真でも、問題は3つあった。ひとつはレンズの焦点距離の選び方で、往々にして人間の目の立体感覚とはズレがあった。要するに立体感が 極端なのだ。次が、どうやって見るか。裸眼で見えるのは小さな画面に限られるから、専用ルーペなどのお世話にならないといけない。面倒である。

 そしてもうひとつ、「出っ張った、引っ込んだ」を面白がるあまり、写真としてはろくなものがなかった。これは、初期の立体映画にもあてはまる。やたら観客に向かってモノが飛んできて、観客が一斉に「ウワーッ」とよけたりして、要するにゲテモノの域を抜け出せなかった。

 これらのステレオ条件は、写真でも映画でもずっとつきまとうはずである。 しかし、どうやらキャメロンは一番目と二番目の条件をクリアしたらしい。つまり、かなり自然な立体像の再現とディスプレイの方法が得られた。となると、残るは映画として面白いかどうかだ。

 テレビのCMで見るかぎり、「アバター」というのはとんでもない荒唐無稽なお話らしいが、ここに「時代」という追い風が加わっているようにみえる。

 「スターウォーズ」以来、荒唐無稽には慣れっこである。おまけにCGの技術は「何でもあり」で、普通の映画「三丁目の夕陽」でも使われたし、SFや天変地異ものからゲームにいたるまであふれかえっている。

 キャメロンは「タイタニック」で当時最先端のCGを駆使した男だ。NHKの映像でも、CGのために3Dで俳優の顔を撮っている場面が出てきた。CGに3Dの実在感が加わったらどんなことになるか。

 ステレオ写真の本当の値打ちも、実は立体感よりも実在感なのである。人間の目に近い焦点距離のレンズを使った中判写真のステレオで、凹凸の少ない平板なポートレートなどを撮ったときによくわかる。

 「確かにそこにある」という存在感は、一枚写真をくずかごに放り込みたくなるくらいの違いをもっている。ただ、ステレオ愛好者は普通そういう撮り方はしないし、またアートする人たちはステレオなんか撮らないから、ゲテモノのもつ隠れた力を、ともに知らないだけなのだ。

 だから、NHKの番組でいちばん衝撃的だったのは、一見メイクビデオみたいなこの場面だった。演ずる俳優の顔にいくつものドットがついていて、それをもとに自然な表情がCGで出せるのだという説明だった。CGが作り出すのは、俳優とは似ても似つかない怪物なのである。

 正直「物語なんかどうでもいい。あがりを見たい」と思った。しかし、こればかりは映画館へいかないと見られない。最後に映画館へいったのは、「アマデウス」だったか。だとすると何たること、もう四半世紀に近い。

 NHKによると、今度の冬のオリンピックもサッカーのワールドカップも、3Dで撮影はされるのだそうだ。しかしそれを見るシステムはまだない。 デジタルテレビですらまだなのに、3Dテレビが見られるまで、この身がもつかどうか。ここはひとつ、冥土のみやげにのぞいて見ずばなるまい。

2009年12月14日月曜日

宮内庁の分際


 きのうの新聞をみて驚いた。近く訪日する中国の副主席が天 皇と会見するという話で、民主党政権がルールを守らなかったというので、宮内庁長官が記者会見で文句をいった。それだけでも驚きなのに、朝日がまた、1面 トップと2面の「ひと欄」以外の全面を使って、政府を非難する騒ぎ。

 要するに天皇の会見をセットするには、ご健康を慮って、「1ヶ月前までに申し込む」というルールがある。今回はこれより短かかったので、宮内庁は断ったが、鳩山首相の意を受けた官房長官らの度重なる要請に、節を曲げたというのだ。

 羽毛田長官の言い分は、こうだ。象徴天皇である以上、国の大小、政治的重要性で差をつけるべきではないし、天皇を政治に巻き込むことにもなる。相手が中国だからといって、ルールを破ってもらっては困ると。一見ごもっともではある。

 しかし、どうもことの軽重をわかっていないようだ。「象徴天皇」といってみたところで、外国の目からは天皇は依然として「元首」なのである。そ の天皇に会えるか会えないかは、ときにきわめて政治的な意味合いをもつ。国の大小や時の流れと全く無関係でいられるものではあるまい。

 中国でいえば、胡錦濤主席がまだ副主席だったとき、天皇に会見している。その後継者として最有力の副主席が、わけのわからない「1ヶ月ルール」で断られたとなると、関係者はそれこそ要らぬ気配りをしなくてはならない。

 そもそも「1ヶ月」というのは便利にすぎまい。28日前では?となったときに、機械的にNOという口実。自分で勝手に決めたルールに自分で縛ら れているようなものだ。これがもし、天皇のスケジュールと健康状態から割り出された答えならば、どんな国でも文句も不満もいわないだろう。

 今回、結果として会見は実現可能だった。となれば、そもそもの始めからきちんと対応していれば、こんな騒ぎにもなることもなかったろう。それを ぎりぎりになって決めさせられたからといって、「現憲法下の陛下の役割」「天皇の政治利用の懸念」まで持ち出すのは、いささかお門違いであろう。

 ところが、新聞各紙がこぞってこれを後押ししているのだから、おそれいってしまう。要は「ルールがあるのだから守れ」「政治利用への懸念」と、 長官発言をなぞっている。天皇の政治利用なんて、誰に会わせるかを内閣や外務省が決めているのだから、現実には日常的に行われていることではないか。

 なぜこんな覚めたことをいうかというと、このところの宮内庁にはしばしば、首を傾げているからだ。かつて後継の男児がいないと話題になったと き、当時の長官(前任)が、「私どもとしては、もうひとりくらい欲しい」というのを聞いて、本当にびっくりした。テレビの前で思わず、「お前、何者だよ」 と。雅子さまのご病気を悪くしているのは、「お前たちじゃないか」

 宮内庁長官は、役人である。旧内務省系の事務次官や警視総監が就くのが慣例で、現長官も厚労相次官からだ。格からいえば天下りならぬ天あがりかもしれないが、慣例が一種の権力をもったようにみえる。認証官だから勝手に首も切れない。

 羽毛田長官は昨年も、皇太子一家が参内することが少ないと発言して、物議をかもした。こうしたとき驚くのは、聞いている記者たちが一向に異を唱えないことだ。そんな風だからこんな役人ができてしまうのだと思うのだが、今回は大応援団になってしまった。

 この話を、その筋の出の方にお話したところ、言下に「家令ですな」といった。皇族や公家で一家の会計や諸事万端をきりもりする役職で、多くは世襲。当主の学問、趣味、交遊から婚姻関係にまで口を出すのは当たり前だと。

 しかし、平安の御代ならいざ知らず、このご時世に皇太子や秋篠宮をつかまえて、「もうひとり子どもを作れ」とはなんともはや。それも役人の分際 で、である。羽毛田長官は、愛子さまの皇位継承に前向きの人なのだそうだが、人が代わると見解も変わるのでは、「家令」の役すら果たしていないことにな る。

 今回は政府の対応もおかしなものだった。副主席の天皇会見の要望は早くから伝えられていたが、訪日の日程がぎりぎりまで決まらなかったという話である。差し迫ってからでも、内閣の一存でいけると高をくくっていたのかもしれない。

 しかしこの騒ぎで中国にも他の国にも、日本の象徴天皇制がややこしいものだということは伝わったことだろう。

 それよりも、「家令」といった方の話は、天皇家が権威を保ち続けた秘密に及んだ。なんと忍者の力によるのだとか、その里は和歌山の根来衆だの、山伏もそうだとか、めっぽう面白かったのだが、これはまた機会があれば‥‥。